スウェーデンは犯罪大国か?

相変わらず、林道義の文章を読んでいるのですが。「六 離婚と犯罪の比例関係──スウェーデンの国家的破綻を直視せよ」という項目に。

犯罪数が人口当たりアメリカの四倍、日本の七倍。強姦が日本の二〇倍以上、強盗が一〇〇倍である(武田龍夫福祉国家の闘い』中公新書、二〇〇一年、一三四ページ)。なんとスウェーデンという国は世界に冠たる犯罪王国なのだ。

という記述があり、どうも実感とかけ離れているので色々と調べてみた。

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以上のことから

まず、そもそもなぜわたしは「スウェーデン犯罪大国論」に疑問を持ったか。
なぜなら、犯罪の発生率と家族制度の崩壊が易々と関連付けられるとは思えない。
家族制度などというものは各国家、各民族が、それぞれの歴史、宗教、文化を背景に形作るものであって、そのありようが単純な比較になじむとは思えないし、犯罪の発生率についても同様に様々安背景要因が考えられる。これら複雑な背景を持つものの関連性を立証するのは容易なことではないだろう。

上記のように、「スウェーデン犯罪大国論」は充分に疑わしい。もっとも顕著な事例はポピュラーな犯罪である「窃盗」の「件数」であって、これは日本が逆転している。また、この「件数」も「発生件数」であるとは断じることができない。

確かに「優性保護」ともいえる非人道的な事例以降、スウェーデンの神話は崩れているのかもしれない。また、高福祉高負担の社会民主主義的な選択はわたしの価値観とは相容れない(相容れないんだよ)。けれども、いやしくも一国を「犯罪大国」呼ばわりするに当たっては慎重な検討が必要となるだろう。社会において責任と品位を保つべき者がこの単純な常識をかなぐり捨ててよいわけがない(と、常識も品位もない匿名投稿者から指摘されてどうするんだろうか)。

また、ここにも「情報のフィルタリング」という作用がある。
己の主張に対して傍証となるものには耳を傾け、反証となるものからは目を背ける。
武田龍夫の勇み足があちらこちらで参照、引用されていくなかで、やがてあたかも事実であるかのごとくに一人歩きを始める。「情報リテラシー」の初歩を踏み外している。
戸塚宏脳幹論と、コンラッドローレンツの関係、そして勝手に(敢えていうと妄想して)ありもしない権威をでっち挙げた石原慎太郎やその劣化コピー、有象無象よりはまだマシかもしれないが)

こういった「妄想の神話」がどのような社会を紡ぎ出していくのか。
ライブドアの株価が300円を越して(下手をすると、6年間無配なんだろ)
国家財政破綻の間際ではずかしげもなく後代にさも偉そうに「国家」を語り、憲法を創ろうと…。

「恥」という概念を失っているのはいったい誰なんだろうか。


追記:教化されえない性質をもった哲学

リンクを辿って、全然別の話題を追っかけていたら「プロパガンダ」と「コンラッドローレンツ」というキーワードで面白い文章にぶつかった。

あとがき ──チョムスキーのメディア批判(チョムスキーにまつわる流言飛語/チョムスキー・アーカイヴ)

このようなプロパガンダ分析は、どうやら危険視されるものらしい。コンラート・ローレンツは『人間性の解体 第2版』で興味深い歴史を紹介している。(略)教化されえない性質をもった哲学を創ろうという、賢明な試みは失敗に終わったのである。
プロパガンダは、陰謀のようなものが働かなくとも簡単に流布する。(略)これが「マニファクチャリング・コンセント」と呼ばれるプロパガンダの機能である。プロパガンダにのみこまれないためには、徹底的に自分で事実を確認すること、そしてせめて自分が信頼できる情報源を確保しておくことだ。これを忘れてはいけない。プロパガンダにのみこまれたら最後、ひとはどんなに非人間的なことにでも荷担してしまう。

事実にはそうそう驚くような事はない。大抵は陳腐で当たり前の事なんだろう。しかしそんな事実ではヒトは動かない。なのでプロパガンダは驚かせる、そして恐怖させ、怒りをかきたてる。その恐怖の対象へ、ヒトはどのような非人間的な攻撃でも容認できてしまう。