武田徹『偽満州国論』

武田徹氏が扱う素材は、私のストライクゾーンにズバっとはまる。本書では満州、『「隔離」という病い』ではハンセン病、『戦争報道』ではジャーナリズムと戦争との関係、『「核」論』では原子力を取り上げていて、その着眼点にセンスを感じる。本書では満州国を通して「国家」そのものを考察している。大杉栄石原莞爾吉本隆明、H.L.A.ハートに触れているのだが、彼らそれぞれを調べるのに夢中になりすぎて、読み終えるのに時間がかかってしまった。
武田氏は「都市的共同体」「国家的共同体」という概念を用いて、理想の国家像を探っている。その定義は以下のようなもの。

「都市的共同体」とは個々の構成員の意志が共同体づくりに直接反映している共同体、そして「国家的共同体」を個々の構成員の意志の直接の反映ではなく、国家という一種の抽象化された概念によって統合されている共同体として、とりあえず定義したとき、(P.69)

満州国の首都新京は様々な点で理想的な都市であった。幅の広い道路、緑の多さ、整備された上水道。新京は、それまでの日本の都市計画の粋を集めた一大実験場であった。しかし、理想都市・新京が満州国建国からわずか5年で完成している点に、武田氏は注目する。地主から土地を買収する際、正当な額の補償が支払われているのだが、それでも土地の買収は望まずに強制されたものだったかもしれない。たとえ正当な手続きを踏んでいたとしても、新京は住人の総意によって作られた「都市的共同体」ではなく、国家が個人の都合を無視して作った「国家的共同体」だった。だからこそ敗戦後、満州国を存続させようという運動が皆無だったのではないかと*1
私が最も興味を持ったのは、吉本隆明の『共同幻想論』を批判した章である。『共同幻想論』は「個なる幻想」「対幻想」「共同幻想」という3つの概念を使って国家の幻想性を説明している。

ただ、これらがかなり厄介なものであることは心してかかる必要がある。吉本は具体的な定義づけが嫌いらしく、術語を明確に規定し、体系的に関係づけてゆく著述スタイルをとらない。結果的に、田川健三も言っているが『共同幻想論』という書物は読んですんなりと分かる代物ではない。論理的に思考しつつ読んでいこうとすると筋を見失い、途方に暮れる。(P.137)

こういう評判をよく聞いていた私は、吉本関係の本を5冊持っているのにもかかわらず、どれも読んでない。「全共闘世代にとってりゅうめいの影響力はすごいらしく、その「国家は幻想である」という主張は私のストライクゾーンだから、きっとはまるだろう。でも分かりづらいって話だから後回し〜」―これが本音。このスタンスで2年間きた。
しかし、どうやらこれは私だけの問題ではないらしい。武田氏は、田川健三『思想の危険について』から次の箇所を引用している。

吉本の「共同幻想論」に興味を持った人達は、多かれ少なかれ、何らかの意味で、反体制的な意識を強く持っていた。従って、国家を廃絶すべきだと見、どうやって国家及び国家権力を克服してゆくか、という問題意識を濃厚に持っていた。(―)そういう意識を持って「共同幻想論」という名前を聞くと(この場合は名前に力点があるので、「理論」に力点があるわけではない。まして『共同幻想論』という書物そのものはたいした役割を演じていない)、国家というのは所詮幻想の産物なのだ、本当はあってはならないもの、あるはずのないものなのだが、幻想を実体化して力を持ってしまったのだ、というように考え易くなる。(P.146)

つまり、反体制的もしくはリベラルな人が『共同幻想論』を読むと、「幻想」「逆立」といった中身はよく分からないけどイメージを膨らませる言語の作用によって、「自分の価値観がそこで高級な理論によって敷衍されている「気配」を感じ」*2るのである。
そしてこれは、田中智学によって作り出された「国体」という言葉と似ている、と武田氏は述べる。実体はよく分からず、現実に対応するものを持たない言葉が、イメージを喚起して「現実を変えろ」と迫る。
そして「共同幻想論」は、「国家対個」というかたちで共同体を捉えている点で、「国家的共同体」の枠組みから逸脱出来てない。「都市的共同体」の視点こそ必要なのに。

偽満州国論 (中公文庫)

偽満州国論 (中公文庫)

*1:敗戦後、満州国がどのようにして崩壊したか、ソ連や中国がどのように扱ったかは具体的に書かれていないので、今後調べることにする。

*2:P.148