泉健太さんとの質疑応答 メモ

今日、泉健太さんが福岡に来る集まりがあり、Tさんから誘われていたので、行ってみた。

泉さんとにえだ元氣さんが最近の状況などについてトークをして、そのあと質疑応答の時間があったので、私も以下の三つのことを質問してみた。

 

Q1,選挙制度改革について。小選挙区比例代表制が導入されてから30年が経つが、社会学的に自公が勝ちやすい構造ができあがっている。政権選択と民意反映を両方実現できる多数派優遇式比例代表制や、参議院におけるロトクラシーつまり抽選制の提案なども最近はあるが、選挙制度改革について何かお考えがあったら聞かせていただきたい。

 

Q2,安全保障について。立憲は民主党とは別の新しい政党ということかもしれないが、一般の有権者民主党の後継政党と思っており、その場合やはり危惧されるのが民主党政権時代の普天間基地移転をめぐる迷走と失敗である。鳩山首相の沖縄に寄り添う思いは美しいとしても、結局迷走して何もできず失敗挫折した。このことからどのような教訓を引き出しているのか、またその教訓を活かすために今後どうするのか、聞かせていただきたい。

 

Q3,講演の話の中で、今の若者世代に対する支援を手厚くするということを強調されていて、そのことには賛成なのだけれど、一方で今の40代前後のロスジェネ世代・就職氷河期世代も非正規雇用が多く悲惨な状況である。このロスジェネ世代の抱える生きづらさや構造的な問題について、どのように考えているか、また何か政策などがあるか、聞かせていただきたい。

 

以上、三つを質問した。

 

一つ目の質問については、ロトクラシーという言葉をあまり泉さんは聞いたことがなかったらしく、抽選制と説明すると、中選挙区制に戻すということですか?と聞き返されて、そうではなく裁判員制度のようにアットランダムにくじ引きで選ぶことだと伝えると、よくわかったとうなずいたうえで、以下のような返答だった。

 

A1, 選挙制度については、小選挙区比例代表の今の組み合わせが適切かどうか、小政党の分裂を促進しているのではないか、ということはあるので、適切で公正な配分や組み合わせについてはきちんと検討し、考えていきたい。ただ、自分としてはまずは小選挙区で勝ちたいという気持ちが強い。そのうえで、抽選制は非常に興味深く、市民の意見を活かすために良いことだと思うので、しっかり考えて検討していきたい。

 

A2,まず大事なことは現実路線だと思っている。民主党政権時代、自分も政務官として政権に入り、多くの先輩方の背中を見ていて思ったことは、安全保障も内政も、社会保障や年金制度についても、どれもあまりにも大きな、本来何年もかけて一つをやっとできることを、あまりにも短期間に大玉をいくつも抱えて一挙にやろうとして、政権の体力をはるかに上回ることになり、挫折したということがあったと感じている。なので、自分はまずは安定した政権をつくることが最も大事だと考えるし、沖縄の問題などの大きな問題は、十年ぐらいかけてじっくりやっていかなければならないと考えている。まずは日米同盟をしっかり今の状況を受け継いで、現実路線で安定した状態をつくるようにしたい。ただ、自分としては、沖縄の問題では地位協定に取り組みたい。コロナにおいても地位協定が壁となり、米軍基地からの感染を防げなかったという状態があった。しっかりと時間をかけ、まずは地位協定にじっくり時間をかけて取り組み変えていきたい。

 

A3,自分自身、いま49歳で、まさにその世代なので、よくわかる。最近も、京都市がその世代向けの採用枠を二つ設けて公募を出したら、何百倍という倍率だった。多くの人が、世代的な構造的な問題で非正規だったり、大変な苦労をしてきた、またしている状況はたしかにあると思う。なので、やり直し雇用といったら言い方がよくないのかもしれないけれど、企業が新卒だけでなくこの世代を正規採用することを後押しすることは、社会として、また政治としてできることだと思うし、やるべきだと思うので、しっかり考えて努力していきたい。

 

大略、以上のような答えだった。

泉さんは明るくて運気上昇といった雰囲気があり、受け答えも誠実な感じで、多くの人から愛されるタイプのように思われた。

他の質問の方にも、丁寧に誠実に答えていた。

 

今度福岡三区から衆院選に出る予定のにえだ元氣さんについても、泉さんは昔からよく知っている盟友であり兄弟分だと思っているというお話をしていた。

にえださんも、会の最後に抱負を語り、その中で「一人一人を大切にする」ということをお話されていて、にえださんは実際そういうあたたかみのある誠実な人柄であることを私もかれこれ十年以上前から知っているけれど、あらためてそれを聞いて安心したというか嬉しかったというか、今後ますますがんばっていただきたいと思った。

 

日本の場合、社会の構造上、自公がどうしてもほとんどの選挙区で強く、立憲はなかなか覆すことは難しい上に、民主党政権の時の迷走や内部抗争のイメージが未だにあってなかなか大変なことも多いと思うが、権力があまりに一方に偏り過ぎることは腐敗を引き起こしやすいので、今後しっかりがんばって欲しいとあらためて思った。

ガザ戦争から半年 雑感

   もうすぐガザ戦争が始まって半年になる。
 この半年間、ずっと違和感を抱いていることがある。
 それは、あまりにも日本のメディアが、また多くの人々が、パレスチナ寄りに偏向しているのではないかということである。
 もちろん、ガザの悲惨な状況を伝えることは大事である。パレスチナ人も大切な生命であることはもちろん言うまでもない。
 だが、中立あるいは日本のようにどちらの勢力とも地理的に距離のある立場から、まず確認しなくてはならないことは、パレスチナ人もイスラエル人もどちらも人権があり、どちらも大事な生命であるということである。
 ゆえに、どちらの人権にもきちんとした配慮と尊重が払われなければならないことである。

 しかし、イスラエルの人質のことは、ほとんどきちんと日本のメディアにおいて十分な注意が払われることはなく、きちんとした特集が組まれたこともない。
 いつの間にか、人質は過去の問題のような扱いすら感じる。
 だが、2023年10月7日に人質となったおよそ240人のうち、いまだに130人以上が人質の状態のままである。
 その中には、すでに死亡している人々もいるのではないかと推測されているが、100人以上が未だに人質の状態にある。
 そもそも、人質をとるのはジュネーヴ第一条約3条1項bで禁止されており、ハマスイスラエルの一般市民を人質にとっているのは明確な国際法違反で、深刻な人権侵害である。

 停戦を求め、イスラエルに抗議するデモが、日本でも欧米でも数多く行われている。
 平和を求めてそれらの声を挙げるのは良いとして、それと同程度の声が、人質解放のために本来は挙げられるべきではないか。
 アメリカ・カタール・エジプトが仲介し、一時停戦のための交渉がなされているとはいえ、今までのところ、人質全員の解放に至っていない国際社会や国連、及び諸外国の無力や力の足らなさを、人質の方々やその家族らに対して心の痛みを持って感じている人々は、戦争反対の声を挙げる人々の中にどの程度いるのか、見てていつも疑問になる。


 人質全員が解放されることが、まずは人権の要請として、また国際法上、最も重要なことである。
 そのことが、どうもあまり重視されていないように感じることに、違和感が拭えない。

ざしきわらし、あるいは光の玉

 先日、彼女と島根県に旅行に行き、途中島根に住んでいる友人と会った後、出雲大社に近い海沿いの温泉旅館に泊まった。
 そこは、ざしきわらしが出るということで有名な旅館で、私も彼女も楽しみにしていた。
 おもちゃを持参すると良いそうで、彼女は紙風船などを百均で買ってきていた。
 だが結局、はっきりとはざしきわらしがいるのかどうか、よくわからなかった。

 夜中にちょっと不思議な物音が窓の外で複数回したことと、窓は閉まっているのに、いつの間にか置いていた紙風船の位置が動いていたことぐらいが、多少不思議なことで、それ以上は何もなかった。

 しかし、その後、不思議といえば不思議なことがあった。
 ひとつは、翌日出発し、出雲大社に行った時のことである。
大きな松の並木道を通って、鳥居をくぐって、有名な社殿を見物していたら、おそらく六十代ぐらいの白髪の、目の大きな神主さんが話しかけてきた。
 こっちに、と前に立って歩かれて、今はいそがしいのでまたあとで12時にここで待っていください、と会館の前のようなところに案内しておっしゃった。
 理由はなんだか聞けない雰囲気だったので、特に聞かず、二時間ぐらい間があったが、その間、付近を散策し、すぐ近くのお店で食事することにした。
 出雲割子そばを食べてから、また12時にそこに行ったら、すぐに神主さんがやってきて、ついてきてください、と前を歩かれた。
 そうして、八足門という、一般の人はそこまでしか入れないところの入口に進んでいかれて、浄掛けという仏教の輪袈裟のようなものを私たち二人に掛けてくださり、守衛さんに何やら言うと、私たちに入るように言ってくださった。
 驚きながらついていって八足門から入ると、眼の前に楼門があった。楼門より先には、出雲の国造しか入れないそうで、さすがにそれ以上は私たちは入れなかったが、楼門を目の前にし、また開いている楼門から奥の本殿の様子が間近で見れた。
 貸し切り状態で、ゆっくりと通常は見れない八足門の内部を拝観させていただいた。
 江戸中期頃に造られたという、国宝の神殿建築は見事だった。
 楼門の前の空間は、八足門の外のにぎわいが嘘のような、しんとした静まり返った空間で、一瞬が永遠のようにも感じられた。
 その後再び、ついてきてください、というので、ついていくと出口で、そこで浄掛けを回収されて、神主さんはお辞儀をしてすぐに去っていかれた。
 とうとう、理由はおっしゃられなかった。
 大勢の観光客が、八足門の外でお参りし観光している中で、なぜ私たちだけがその中に入れていただけたのかわからなかったが、不思議なことだった。

 二つめは、そのあと、出雲大社からちょっと離れたところにある、須我神社の奥宮に行った時のことである。
 そこは、昨年に光の球体のようなものが映っているという写真と文章をSNSにも書いたことがあったが、山の奥にある場所で、去年のちょうど今頃に行った。
 いわゆるパワースポットで、太古から磐座として大切にされてきたスサノオゆかりの場所と伝えられる山の上の巨岩である。
 去年行ったときは大勢の人がいたし、その後に見たNHKの番組では、毎日行っているという方のお話が紹介されていた。今や観光名所の一つのようである。
 ところが、である。
 その日の昼、須我神社の奥宮に行ったところ、直前まで大雨が降っていたせいか、人っ子ひとりいなかった。
 私たちが着いた時には、ちょうど雨が止んでいて、多少道が濡れていたものの、気を付けて山を登っていったら、無事に安全に登ることができた。
 道中、誰とも会わず、ついに巨岩のある場所に来ても、誰もいなかった。
 しんと静まり返っていた。
 その巨岩は、三つの岩があり、スサノオとその妻のクシナダヒメとそのあいだの子どものスガノユヤマヌシミナサロヒコヤシマノミコトの磐座とのことである。
 やや大きなのが父親で、それより小さいが寄り添っているのが妻で、小さな岩がその子ということで、もともと大きな三つの岩があったのを、夫婦と子に見立てて古代から大切にされてきたということなのだろう。
 縄文弥生の頃は文字などなかったが、このような自然の岩などを通じて、家族の理想をあらわしたり、何かしらのメッセージをそこから汲み取り、大事にしてきたのだと思われた。岩の近くには、きれいな山の清水が滾々と湧き出しているところがあり、とてもおいしかった。特定の宗教は関係なく、大自然の恵みとそれに対する応答の場のように思われた。
 雨のあとのせいか、山の奥のせいか、霧のようなものがうっすらとあたりに立ち込めていて、ものすごく澄んだ清らかな雰囲気が漂っていた。
 胸を打つ何かが強く感じられ、彼女もそうだったようで涙ぐんで感動していた。
 とうとう、誰もそこには来ず、しばらくしてから降りていく途中に、山の入口の近くでやっと登ってくる一組の御夫婦に出会ったぐらいで、本当にずっと貸し切り状態で、ありがたいことだった。

 三つめに不思議だったことは、帰路のことである。
 夕方、福岡に帰ることにし、島根の津和野方面から山口に抜けていく道を、彼女と交代交代で車を運転して帰った。
 ところどころ左右の田畑や山には雪がうっすらと積もっており、まだ道路が凍結していなかったので運が良かったと思いながら通過した。
 山また山の道で、ところどころに小さな集落が点在していた。
 雪がところどころ白く染めている幻想的な景色だった。
 ときどき眠たくなったり、肩がこったが、集中して、ひたすら運転した。
 津和野を抜ける途中、カトリックの聖堂を通りがかった。
 なんだか光の玉みたいなのが、聖堂に出たり入ったりしているのが見えた。
 ちょうど粉雪が降ってきたので、太陽の光のいたずらかと思って、さほど気に留めなかった。
 それから雪がだんだん降ってきて、心配したが、なんとか無事に萩の近くの道路まで出ることができた。
 結局トータルで片道六時間以上かかったが、無事に福岡にたどり着き、夜遅くに家に帰ることができた。
 島根に住んでいる友人に無事に帰宅したことをメールしたら、私たちが通り過ぎたあと、すぐに津和野方面の国道や県道が雪のため通行止めになったそうで、無事に帰れたかどうか友人は随分心配していたとのことだった。
 道中、間一髪で何事もなく、通行止めに遭うこともなく、無事に帰れたのも、不思議といえば不思議なことだった。

 その夜、夢を見た。
 私たちの道中、徒歩の時も、車で行く時も、しゃぼん玉か光の玉みたいなのが常に先導し、周囲を囲み、その数が徐々に増えたりしている夢だった。
 それらは神社やお寺や教会を通る時にはそれらの場所に出たり入ったりしていて、そこで増えたり光が強くなったりしていた。
 その様子を見て、世の中の宗教というのは、どれもあまり境目はなくて、どれも何かしら大きな光の貯蓄場だったり停留所だったりするらしいと思っていた。
 また、ざしきわらしというのは、この光の玉の一つなのだろうとぼんやり思っていた。
 起きて彼女にその夢を話すと、ぐっすり眠っていたのでほとんど夢は見ておらず何も覚えていないが、そういえばそのような夢を見たような気がする、とのことだった。
 以上のことは、どれも現実的に合理的に解釈しようと思えばいくらでもできる、たいしたことのないことばかりかもしれない。
べつになんら不思議なことではないと思う人もいるかもしれない。
 しかし、言葉ではうまく言えないが、私たちにはとても不思議なことだった。
 無事に良い旅に行って帰ってこれたことは、ざしきわらしのおかげだったのではないかと感じている。

 そういえば、もう一つ不思議なことがあった。
 紙風船などを再び入れて持って帰ったバッグを、家に帰ってから開いてみたら、買った覚えもない「縁」と書かれた新品のお箸が二人分、入っていた。
 彼女と、これもざしきわらしからのいただきものだと思うことにして、毎日使っている。


(以上は、エイプリルフールの虚実を織り交ぜた、旅の思い出の話です。)

吉塚御堂

吉塚御堂の三周年法要に行った。

吉塚御堂は、今までその存在すら知らなかったのだけれど、吉塚商店街の一角にある多文化共生のお寺で、ベトナムミャンマー・日本の仏教徒の各宗派の方々が協力して建立し維持している。

友人のOさんから今日の法要をお知らせいただき、行ってみたところ、気さくなこじんまりした感じで、部外者の私も別け隔てなく参加させていただいた。

神戸から来たベトナム人のお坊さんと、門司の平和パゴダのミャンマー人のお坊さんと、吉塚西林寺という浄土真宗のお寺のお坊さんが、順番でそれぞれの宗派の御経を唱えておられた。

ベトナム語のお経ははじめて聞いたけれど、朗々とした声の明るい節回しの御経で、意味はぜんぜんわからないけれど、なんだかありがたかった。

ミャンマーのお坊さんのお経は、十二因縁のパーリ語の箇所など一部分だけはわかった。

日本のお坊さんは無量寿経の重誓偈を唱えておられた。

敬虔な感じのミャンマー人やベトナム人の在家の信者さんたちが熱心にお参りされていた。

浄土真宗のお坊さんが少しお話されて、二十年以上カンボジアの支援をされているそうなのだけれど、カンボジアに行った時にカンボジアの最も偉いお坊さんにお会いすることができて、その時、それぞれの国の仏教が違った形や解釈があるのは当然で、大切なのは心であり、お互いを尊重し良いところを学び合えば良い、というお話を聞いて、とても感銘を受けたことがあったそうである。

その時に感銘を受けた思いから、吉塚御堂の建立に関わるようになり、共生・共習をめざし、今に至る、というお話だった。

お話を聞いて、宗教や宗派の違いで争ったりすることがこの世界には絶えないが、そのカンボジアのお坊さんのお話のように、それぞれの違いを認め良いところを学びあえれば、それが一番良いように思われた。

法要のあと、ぜんざいのお振る舞いもあり、おいしかった。

また、ベトナム人の神戸のお坊さんからは、参加者全員に5円玉が入っているというかわいい封筒のプレゼントも配られ、お坊さんが布施をもらうばかりではなくお坊さんの方からもお布施があるとは、日本ではあまり見られない、良い風習のように思われた。

それにしても、近所に住んでいても、ぜんぜん知らないこんな場所があるのだなぁ。

末永く、ベトナムミャンマーの方々の心のよりどころとして続いて欲しい場所と思われた。

古居みずえ『ガーダ 女たちのパレスチナ』を読んで

古居みずえ『ガーダ 女たちのパレスチナ』読了。

 

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いろんなパレスチナ人のおばあさんたちの人生の聞き書きが収録されている。
読んでいて、なんだか本当に気の毒になった。
彼女たちにとっては、突然わけもわからず戦争に巻き込まれ、家族を失ったり故郷を離れて苦しいばかりの人生だったことが伝わってきた。

その中に、トルコ統治時代はけっこうひどくて、それよりはイギリスが幾分マシだったという記述があって、へーそうだったんだと思った。
また、1948年以前のユダヤ人とは仲良くしていたこともあったことが記されていた。
しかし、二度のインティファーダで、そのたびごとに大きく雰囲気が変わっていったようである。

イスラエル側からすれば、アラブ諸国が仕掛けた戦争や、その後はテロや自爆テロと必死に闘ってきたわけだけど、戦争に巻き込まれるパレスチナ人女性たちは、本当突然わけもわからず大変な目に巻き込まれるという感覚だったんだろうなぁと思う。

また、ガーダというわりと若い世代の女性の話も載っていて、ガザのパレスチナ人の世界は、未だにけっこう男尊女卑が強くて女性は窮屈な慣習が根強いようである。
日本からは考えられないぐらいそうした圧力が強いようである。

読んでいて思ったのは、とてつもない暴力の応酬がずっと続いていて、大半のパレスチナの女性はただやむをえず右往左往するだけの長い年月ということである。
テロがやめばイスラエルも報復しないのだろうけれど、長年の恨みからテロを仕掛けて、報復で倍返しというのがずっと続いているパターンのようである。

いつになったら終わるのかわからないが、この本に書いてあるように、実際にユダヤ人とパレスチナ人が出会って言葉を交わせば、ガーダとイスラエルの警察官や語学学校の仲間たちが多少は心が通ったように、相手を人間としてみなすふうに変わっていくのだろうか。
それがあまりにも難しいことのように思える本だった。

この本は、イスラエルの2005年のガザ撤退の前の話で、ちょうどガザ撤退があって、これから希望が持てるような話も最後にちらっとあったのだけれど、それから19年、とんでもない事態になっていることを考えると、希望はどこにあるのだろうかと暗澹たる思いがする。

「家(HOME)」 歌詞の意訳・仮訳

昨年の年末、イスラエルで1000人のミュージシャンが集って人質の救出を願うコンサートが開かれた。

たまたま動画でその様子を見て、深い感動を覚えた。

動画に英訳の歌詞は映るものの、和訳がないようなので、かなり意訳しながら試みに翻訳してみた。

といっても私はヘブライ語は本当に初歩的な知識がないので、ほとんど英語からの重訳となってしまっている。

ゆえに、正確には違う部分もたくさんあると思うので、多くの方からの訂正やご助言を仰ぎたいと思う。

もともと、1980年代にイスラエルレバノンとの戦争の頃に歌われたそうで、2000年代にも人質の解放を願う運動とともに歌われたことがあったそうである。

今また、ガザ戦争に関し、再びハティクヴァの曲と合わせて大勢で歌われた。

この歌の願いのように、無事に人質の方々が解放されることと、ガザの戦争が早く終わることを願う。

 

 

 

「家(HOME)」(仮訳・意訳)

 

さらに時が過ぎた。

ひどい時が。

 

雑草は道と庭に茂り、

風はため息をつく。

 

扉が開き、

古い壁が音を立てる。

まるで呼んでいるように。

 

家へ、わが家へ、

いまこそ帰ってきて。

丘から、異郷の地から。

日は沈み、もはや跡形もない。

 

家へ、わが家へ、

光が消えてゆく前に。

寒い夜、つらい夜が、

押し寄せている。

夜明け前に私はあなたのことを祈る。

恐怖に捕らえられているあなたのことを。

 

足音が聞こえる。

家へ、わが家へ。

まだ実現していないけれど、

それはずっと前に約束したことだから。

 

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高史明 「歎異抄に導かれて」を見て メモ

先日、NHKの「こころの時代」という番組で、今年の7月15日に91歳で亡くなった作家の高史明さんが出演した「歎異抄に導かれて」という2004年に放映された回が、再放送されていた。

高史明さんが人生の折々に歎異抄に触れて得てきたことをお話されていて、その深い読みと領解にとても感動させられた。

特に四つのことがらが心に残った。

 

ひとつは、善悪のことについて。

歎異抄には、親鸞が善悪の区別について否定的で、自分は善悪について知らないと言い、悪人正機を打ち出している。

これについて、高史明さんは、自分の出自や政治運動に参加して挫折した体験を踏まえて、親鸞が言いたいのは、世間の善悪の基準と阿弥陀如来の善悪の基準というものがあり、前者に振り回される必要はなく、後者はなんだかはっきりとはわらないけれど、そのままの自分で良いと言ってくれているものであり、世間の善悪の基準は気にせず自分のあるがままで価値があるのだということではないか、そういうことを言っているのではないか、と受けとめるようになった、とお話されていた。

そう思うようになり、自分のあるがままのそれまでの人生を、何の意味もないと思っていたけれど、自分なりに価値があると思えるようになり、小説にしたところ、文学賞を受賞したそうである。

 

ふたつめは、自己責任や個人主義よりも、その背景にあるものの大切さについて。

高史明さんには一人息子がいたが、中学生の時にその息子さんが自殺したそうである。

理由はわからないそうだが、後悔されることは、その息子さんが中学生になった時に、とてもうれしかったこともあり、そして自分がそう生きてきたということもあり、これからは自分の行動に自分で責任を持って生きなさい、そしてまた人に迷惑をかけないように生きなさい、と言ったそうである。

今にして思えば、その時にそういうことを言うのではなくて、自己責任ということよりも、自分がこれまで生きてくるまでに、どれだけ多くの人の働きや支えを受けてきたか、またどれだけ多くの命を食べ物としていただいてきたか、そのことを思うようにしなさい、そしてまた、人に迷惑をかけるなということよりも、どれだけ多くの人に支えられているかを思いなさい、と言うべきであった、それが心から悔やまれる、というお話だった。

近代の自己責任や個人主義は、それだけではいのちのつながりを見失わせてしまう、私たちに本当に生きる力を与えるのは、そうしたいのちのつながりである、というお話だった。

 

みっつめは、供養について。

高史明さんは、息子さんの自死のあと、打ちのめされて、なんとか自分も息子も救われる道を見つけたいと思い、供養のために念仏やお経を一生懸命唱えようと思い、また唱えていたそうである。

しかし、その時に、歎異抄の中に、親鸞が自分は親の供養のために念仏は称えない、なぜならば生きとし生けるものは輪廻転生の中で自分の親兄弟だったからである、という意味のことが書いてあることに、衝撃を受けたそうである。

それで、一生懸命その箇所のことを考えて、思うようになったのは、親鸞が問うていることは、本当は私たちは誰もが、生きとし生けるものとつながっていて、いのちのつながりの中で生きているのに、そのつながりが見えていない状態で、自分の先立った親兄弟や子どものために念仏やお経を唱えるとして、その念仏や読経にはどのような意味があるのか、いのちのつながりを見るのが念仏や読経ではないか、ということを問うているのではないか、と思うようになったそうである。

狭い自分のことから解き放つのが念仏であり、逆ではないのではないか、と考えるようになったそうである。

 

四つめは、罪悪深重の凡夫という言葉の意味。

親鸞は罪悪深重の凡夫という言葉を使っているが、高史明さんはそれまではただ罪の重いのが凡夫だという程度に受けとめていたのが、だんだんと、自分もどの人も、人類の長い歴史を背負っている、人類の長い歴史の業を背負っている、そのことを親鸞は言っているのではないかと思うようになったそうである。

そう思うようになってから、以前は世の中の政治家などの悪いと思われる人に対して、その人は悪人で、自分はそれとは違う善の立場の人間で、あいつと自分は違うと思って批判していたけれど、その人も自分も罪悪深重の凡夫であり、人類の深い業を背負っている、なので全くの別物ではない、と感じるようになったそうである。

なので、その番組は2004年の放映なので、イラク戦争を事例に挙げられていたが、ブッシュ大統領についても、以前は悪いやつで自分は違うと思っていたろうけれど、戦争は嫌なので反対するし批判するけれど、しかし自分と全く別の人間ではなく、ブッシュ大統領も人類の長い歴史の業を抱えて苦しんでいる、あるいはこれから苦しむ人だろうし、自分も同様で、そこに違いはない、と感じるようになったそうである。

とても深い話だと思われた。

 

また、煩悩熾盛という言葉について、欲望や罪に火がついているということで、だったらじっとしていられない、その苦しみや悲しみが見えてくると、人を悪人として裁くのではなく、裁くのではないけれど、罪や悪に対してなんとかしたいとじっとしていられなくなる、それが親鸞の言っていた慚愧や念仏往生ではないか、ということをおっしゃられていた。

 

歎異抄は、私も折々に読んできたつもりではあったけれど、高史明さんのおかげで、より深く味わえそうな気がした。

いろんな人の深い読みや深い領解に触れることが、古典においては本当に大切なことなのだとあらためて思った。