日本人はアジアの言語を学ぼう

最近、私は世界共通語としての英語について書いている。

英語は人類最後の世界共通語になるだろう - Rails で行こう!

中国語が世界共通語になる条件 - Rails で行こう!

「この男はなんという英語かぶれ。英語英語言うのもいい加減にしろ」と閉口されている方も多いだろう(笑)。実をいうと、私はむしろ言語に関しては雑食派で、いままで実にいろんな言語を学んだ。そのうち、本気で本格的にやったのは、英語以外では、韓国語・中国語・ベトナム語である(スペイン語もかなりやった)。

韓国語・中国語・ベトナム語に関しては、現地に語学留学した。中国語はだいぶ忘れてしまったが、韓国語とベトナム語に関しては日常会話程度ならできる(旅行するのは困らない程度)。

こうなってしまったのは、次のような経緯があった。

  1. 10年前カナダに渡る。英語漬けの日々。よっしゃ、英語かんばるぞ〜。
  2. 英語はだいぶ上手になった・・・でも英語のネイティブスピーカーは、みんな英語を話すのが当たり前だと思っていやがる。むかつく。英語だけが言語じゃないぞ。
  3. 韓国人の友人から韓国語を学んでやろう・・・おお結構面白いぞ。文法も似ているし、どんどん頭に入る。
  4. でもこれからは中国の時代だよな・・・大学時代に第二外国語が中国語だったし、中国語も勉強したいな・・・。
  5. よっしゃ!どうせ勉強するなら現地へ行ってしまえ。韓国と中国に行くぞ!

という風にして、私は、5年ほど前、韓国と中国に半年ずつ滞在して、韓国語と中国語を学んだ。いちおう韓国語能力試験5級と HSK 7 級を取得した。

英語をとことんやった人が英語や英語圏の文化に反発を感じるにいたるというのはわりとあることじゃないか。西洋かぶれだったビン・ラディンが、イスラム原理主義者として2001年の同時多発テロを引き起こしてしまったのも、やや似た心理があったかもしれない。とにかく英語圏の人間は、一部のインテリと移民を除けば、非英語圏にまったく関心がない。英語ですべてことが足りると思っているので。悲しいけどこれ、現実なのよね。

私たちは英語から逃れられない世界に住んでいるのだ。日本は非英語圏としては世界最大級の「パラダイス鎖国」で、いままでその現実から目をそらすことができた(中国語圏のインテリは、経済的な必要性から、英語を学ばざるを得なかったし、実際、同水準の日本人よりずっと英語に堪能である)。

しかし、日本の国力が右肩下がりの昨今、英語力の有無が収入の多寡に直結する時代が、もうすぐやってくる。正直、この現実から目をそらしたい40歳以上の日本人たちには何も言うつもりもない。蓄えもあるだろうし、うまくやって生き残ってください。私は若い人たちに英語を学ぶ重要性を訴えて行きたい。

ただ、日本人が英語を学ぶのは容易ではない。日本とイギリスの地理的関係を見てみよう。お互いに巨大なユーラシア大陸の東西の両端に位置しているではないか。この地理的な距離が示唆するように、日本語と英語は違いが大きすぎて、日本語話者が英語をマスターするのは非常に困難である。日本人にとって「外国語=英語」が一般通念なのはまったく不幸なことだ。

隣国の言葉に目を向けてみよう。韓国語や中国語は、日本人にとって英語よりずっととっつきやすい。韓国語は日本語に文法が酷似しているし、語彙的にも漢字起源のものが多く覚えやすい。中国語は文法は異質だが、やはり同じ漢字を使う親近感は大きい。本格的にやりたければ、語学留学をすればいい。費用も英語圏に行くよりずっと安く済む。

こうやってまずは外国語アレルギーを取り除くことだ。外国語を学ぶのは楽しい、という感覚をつかめば、英語を学ぶのも楽になる。実際、韓国や中国へ行った後、英語の重要性に気づき、英語圏に語学留学する人たちも結構いる。

公式のビジネスをやるには、たぶん英語だけできれば十分だ。しかし、ある国の人たちと付き合うのに、現地の言葉ができると、その土地の文化を深く理解できるし、その国の人たちにも好意をもってもらいやすい。サムソンをはじめとして韓国の大企業の駐在員は英語は当然のこととして、その現地の言葉も徹底的に叩き込まれるそうだ。そうしないかぎり、その土地の人たちの目線でビジネスができないからだろう。

これからアジア諸国との関係がますます重要になる日本人にとって、アジアの言語を学ぶ意味は少なくない。英語は必須としても、英語を勉強するのは敷居が高いと感じている人たちは、まず学びやすい韓国語や中国語からはじめてみたらどうだろうか。

なぜ日本文化を次世代に残さなければならないのか

一つの思考実験をしてみる。アメリカ政府と契約を結んでアメリカから50万人くらい小中学校の教師を連れてくる。そして小学校から中学校まですべての教育を英語で行う。

対象は日本人生徒全員。日本語の授業は一切なし。学校の中では昔の「方言札」のようなものを用意して、日本語を話した子供を罰する。

公共の場からすべての日本語を追放し、すべて英語で統一してしまう・・・シンガポールのように。それを全国規模で行う。

さて、そのとき、日本文化は変容を受けるのだろうか?それはいい変化か悪い変化か?それとも日本文化には変わることのないコアがあって変化しないのだろうか?そのコアとは何か?それを維持することは日本人にとって、そして世界の人々にとってどういう意味があるのか?

日本人は、四面の海という地理的条件に恵まれて、民族存亡の危機に直面することなくやってきた。恵まれた歴史だ。それゆえ「日本人とは何か。そして守るべきものは何で、変容してもいいものはなにか」と厳しく自問したことがない。

これが移民政策を巡るゴタゴタの原因だ。つまり、外国と付き合うとき、日本人が守るべきものが何かコンセンサスがないから、しばしば外国人の全面的排除につながってしまう。しかし、これはあまりに愚かしい決断だ。

フラット化した世界の中で、21世紀の日本人は日本人とは何か自問しなければならない。そして、その最良の部分を以って、どのように人類社会に対して貢献できるのか考えるべきだ。それが、日本経済を救う道にもつながるはずだ。

(私のツィートから再構成しました)