ネコヤナギか、「連絡先」と「Where to make connect」

札幌、曇。最低気温がプラスの日が続き、雨も降って、雪は急速に融けて消えていく。今朝の藻岩山(Mt. Moiwa, March 16th, 2008)。

ヒヨドリ(鵯, Brown-eared Bulbul, Hypsipetes amaurotis)。

ムクドリ(椋鳥, White-cheeked starling or Gray starling, Sturnus cineraceus)たちか。

昨日も記録した遠くからは全体に白く見える樹。ネコヤナギ(Rosegold Pussy Willow, Salix gracilistyla)か。

表通りではアスファルトも乾いてきた。

郵便ポストの表示の一部。英語が併記されている。「連絡先」と「Where to make connect」の概念の間にはラテン語ギリシア語の間、漢字(漢語)とひらがな(和語)の間に比べられる距離があると感じた。学生時代にまだ存命中だった小林秀雄の『本居宣長』を読んで、本居の漢心へのこだわりにひっかかったことを思い出す。漢字のヴィジュアル性と表裏の概念のコンパクト化は驚くべき力だと感じる。漢字に圧縮された概念を解凍することはかなり難しい。「連絡先」をひらがなにどう噛み砕いて説明したらいいか、ちょっと戸惑う。英語の「Where to make connect」に近い表現になるだろうな。

印刷するときドキドキするのはなぜ?


自宅のプリンターで「ページネーションのための基本マニュアル」を印刷しているところ

卑近な恥ずかしい話だが、私はいまでも印刷するとき、ちょっとドキドキする。年賀状とか人にあげる写真というような特別な場合だけでなく、ちょっとした文書や自分用の写真などを印刷するときでさえ、プリンターが稼働し始めると、他のことが手につかず、プリンターが用紙を吐き出すまで、そわそわする。そして直前まで白紙だった紙に文字や絵が印刷されたのを見る瞬間、不安が一種の恍惚感に入れ替わる。これも一種のビョーキかもしれない。この症状は今まで口外しなかった。ところが、これは当然の、堂々と威張ってもいいほどの症状であることが判明した。鈴木一誌著『ページと力』のお陰である。

ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン

ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン

本書の「2デジタル化されるデザイン」の「印刷という定点」(124頁〜135頁)を読んだ時、私はそれまでの私の印刷体験の意味を一気に悟ることになった。いわゆるDTPでさえも「プリ・プレス」と言って、本番の印刷の前の工程までをデジタル化する技術でしかなく、印刷本番には、関係者全員がまるで出産にでも立ち会うように立ち会うのだということを初めて知った。それを「刷り出し立ち会い」という。今まで私が個人的に印刷機を固唾を呑んで見守ってきたようにである。「刷り出し立ち会い」の逸話にはドキドキするほどだった。

なぜ刷り出し立ち会いが必要なのだろうか。印刷は、転写ではなく表現だからだ。なにかの再現ならば、手本となるオリジナルがあることになり、そこに目標を定めればよい。だが、ほとんどの場合、再現ではない。(125頁)
(中略)
印刷は、原稿をページ上にあらたに表現することだ。あらゆる準備、多くの作業が、印刷という一点に集まる。印刷で失敗すればすべてが徒労に終わる。(126頁)

鈴木氏のいう「表現」に対比された「転写」、「再現」をまとめて「複製」とみなせるとして、印刷と複製は似て非なるものである、実は根本的に違う。これが鈴木一誌氏の『ページと力』の基調をなす発見でもあると感じた。プリントとコピーは違う。かつて家庭で流行した「プリントごっこ」でさえ、あれは複製ではなく、表現としての印刷の体験だったのだ。印刷と複製は生命と機械の違いに類比的である。ところが現代の常識は、ベンヤミンのせいかどうかは不明だが、とにかく印刷を複製の基準で見るようになってしまった。しかし、印刷の現場を具体的に丁寧に観察するならば、印刷は複製とは違い、一期一会の、一回きりの、決して正確には反復できない、正に「生命」そのもののようなプロセスなのである。

しかも、そのような印刷は、かのフランス「人権宣言」(1789年)において、万人の表現する権利のひとつの柱として宣言されていたのである。

思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一つである。したがってすべての市民は、自由に発言し、記述し、印刷することができる。ただし、法律により規定された場合におけるこの自由の濫用については、責任を負わなければならない。
(「人および市民の権利宣言」第11条、高木八尺ほか編『人権宣言集』岩波文庫、1957年)

権利は、いうまでもなく自由と責任の表裏一体である。では、印刷という一点に収斂する世界において、表現の自由と責任の実態はどうなっているか。さすがに市民革命を経た欧米には万人に開かれ共有されるルールが構築されてきた。他方日本にはそれが欠けている。そのことが鈴木氏を「ページネーションのための基本マニュアル」作成に駆り立てた理由のひとつだった。


『ページと力』巻末に収録された2002年版「ページネーションのための基本マニュアル」

私は日々ちょっとドキドキしながら印刷している時、機械に還元されない生命の飛躍(ベルクソン)と同時に市民革命の息吹にも触れているわけなのだった。だから、印刷論を展開するには、生命論から社会論までをも視野に入れる必要があることになる。私の理解では、その際に何よりも注目されるべきは「ページ」という存在しているようで存在していない不思議な単位、人間の世界認識のかなり深いところで生成し続ける秩序なのだというのが、鈴木氏の驚くべき発見である。

『シカゴ・マニュアル』はとってもクールだ


The Chicago Manual of Style(The Chicago Manual of Style, The University of Chicago Press, First edition published 1906)

この通称『シカゴ・マニュアル』はとってもクールだと思った。鈴木一誌氏によれば、この本は「編集者のマニュアル」、「本づくりのバイブル」とも呼ばれ、文字組、表記、句読法など、英語印刷物をつくる際のルールを記したいわば「書物についての書物」である(『ページと力』157頁〜158頁)。現在、オンライン版『シカゴ・マニュアル』を利用することができる。

現代思想好きの人なら、鈴木氏も引用しているように(『ページと力』160頁〜161頁)、あのスラヴォイ・ジジェクがこの本をやり玉に挙げて、出版社に対してルールを逆手に取ったひねくれた仕返しをした次のような逸話を思い出すかもしれない。

私の英語で書かれた最初の著書のひとつが完成したとき、出版社はすべての引用文献を悪名高いシカゴ・マニュアル・スタイルで示すようにいってきた。このスタイルでは、本文中では著者の名字と出版年と頁数を記載するのみで、完全な引用文献目録は巻末にアルファベット順でのせることになっている。私は出版社に仕返ししようと思い、聖書からの引用にもこのスタイルをつかった。
(『全体主義 観念の(誤解)使用について』中山巌・清水知子訳、青土社、2002年)

全体主義―観念の(誤)使用について

全体主義―観念の(誤)使用について

しかし日本の読者としてはこの話を真に受けるわけにはいかない。ジジェクの仕返しは、英語印刷物におけるシカゴ・マニュアル・スタイルという確固たるルールあってこそ意味をなす逸脱的パフォーマンスだからだ。それよりも、精神分析にも造詣の深いジジェクですら、書物の「無意識」ともいうべき「ページネーション」のアーキテクチャーには少々無頓着である一面をのぞかせているところこそがエピソードとしても面白いと思う。つまり、彼は原稿と本の境界を理解していないように見えるということ。

ジジェクはさておき、実はこの『シカゴ・マニュアル』の存在の大きさを私は小林章氏に教えられたのだった。『欧文書体』の57ページに組版ルールにとっては象徴的だと思えるひとつの小さな間違いが発見された。それは「数百年かかって練り上げられた欧文の組版ルール」の意義を概説する中にあった。引用符の用法に関して、引用に引用が入る場合のアメリカ式とイギリス式の二つのスタイルの違いを例示するために使用された図版に、オダマキの種のような小さな「間違い」を発見した読者からの指摘があったという。


『欧文書体』57ページの「間違い」

デザインの現場』103ページ「訂正」

小林氏は即座に『デザインの現場』(2008年2月号)に「お詫びと訂正」(103ページ)と題された非常に丁寧な内容のコラムを載せた。その対応の素晴らしさに感動しつつ、そこで言及されている『Chicago Manual of Style』と『Oxford Guide to Style』の存在が非常に気にかかったのだった。小林氏はその二冊で「間違い」を確認し、訂正している。

アメリカの一般的な組版ルールと思われる『Chicago Manual of Style』、あわせてイギリスのオックスフォード大学出版局の『Oxford Guide to Style』を参考にして調べたところ、図版のコンマを引用符の内側に入れるべきところを外側に出してしまったという間違いに気づきました。また、同じ文章の最後にもピリオドが入るべきでした。(103ページ)

ちなみに、欧文の組版ルールそのものの意義に関して小林氏はこう述べている。

それは簡単に言えば「文章の理解を助けるための約束事」です。個人の好みで決められない、ましてや「日本風にアレンジ」など通用しない次元です。組版ルールを守ることは決して古い慣習に引きずられることではなく、読者が情報を有効に引き出すための手がかりをきちんと伝えることなのです。わずかの手間ですから、まず自分は基本を踏み外さないプロだということを示して、その後のタイポグラフィの世界で思う存分遊んでください。(『欧文書体』57ページ)

この事例から私は一見目立たず些細な違いに過ぎないと思われる表記であればあるほど、実はその表記法の選択と決定には迷うもので、そういう場面でこそ目立たないが実は大きな力を発揮しているのがルールであるという一種の逆説的なルールの真実というか重要性を学んだ気がした。

話が前後して恐縮だが、そんなわけで、私は小林氏の「間違い」で、『シカゴ・マニュアル』の存在を強く印象づけられ、その後、すでに何度か言及した「ページネーションのための基本マニュアル」の素性を調べていくうちに、実は「ページネーションのための基本マニュアル」の制作に鈴木一誌氏を駆り立てた大きな要因が『シカゴ・マニュアル』との出会いであったことを知ることになったのだった。

『ページと力』の「3 ページネーション」では「『シカゴ・マニュアル』との出会い」にそれこそしっかりとページが割かれている。鈴木氏は『シカゴ・マニュアル』の意義を分かりやすくこう述べる。

『シカゴ・マニュアル』には、イタリックで組まれた文章の末尾の約物を、イタリックのままにするべきか、立体(ローマン)にもどすべきかなど、組版に関する指針がこと細かく記されている。目次の前に前書きが来るべきか、来ないほうがいいか、来るとしたらどうすべきか、あるいは献辞はどこに載せるべきか、キャプションの付け方、図版の出典の書き方まで、表記をどうするか委細をつくして書いてある。砂漠のまんなかに住んでいても、この一冊を先生にすれば、人に笑われない本ができる可能性がアメリカ合衆国にはあった。(161頁〜162頁)

それに比べて日本の組版の現状は……。それなら自分で作るしかない!というわけだった。

ちなみに、アメリカでは組版には『シカゴ・マニュアル』を、図表やグラフ表現には通称『タフテ』(Edward Tufte, The Visual Display of Quantitative Information, Graphics Press, 1983)を参照するのが通例となっているようだ(160頁)。


Edward Tufte: Books - The Visual Display of Quantitative Information

イギリスには通称「オックスフォード・ルール」ないしは「ハーツ・ルール(Hart's Rules)」が存在する。具体的には、39版を数えるHart's Rules for Compositors and Readers at the University Press Oxford(Oxford University Press, First edition published 1893)のことであり、これには第38版の邦訳『オックスフォード大学出版局の表記法と組版原則』(小池光三訳、1983年)がある。


オックスフォード大学出版局の表記法と組版原則

それが大幅に改訂、拡張され、「21世紀のハーツ・ルール」と銘打たれて2002年に出たのが小林章氏も参照した『Oxford Guide to Style』(R. M. Ritter, The Oxford Guide to Style, Oxford University Press, 2002)である。『シカゴ・マニュアル』に匹敵する規模の大型本である。

そういうわけで、鈴木一誌氏は、スラヴォイ・ジジェクのような思想家が高度なパフォーマンスでひと暴れできるためにも、日本に『シカゴ・マニュアル』や『オックスフォード・ガイド』に匹敵するような出版や印刷の世界の情報アーキテクチャーの構築が急務であると、10年前に訴えて、自分でその足場になるもの「ページネーションのための基本マニュアル」を制作していたということに、改めて感心した。そして私にとってはいわばこの空白の10年間に日本の出版・印刷界のそのあたりの常識はどう進化したのかしていないのかちゃんと知っておきたいと思う。