縞模様のパジャマの少年

縞模様のパジャマの少年 (2008) The Boy in the Striped Pyjamas


強制収容所に隣接する家に住む一家。
父は軍人で収容所の看守。
探検物語が好きな5歳の息子に、父は厳格な家庭教師をあてがい、現実を見ろと教育する。
家庭教師の語る現実とは、すべてのユダヤ人は悪で自分たちは正しい、というもの。
でもその前に息子は、収容所から一家に派遣されこき使われるユダヤ人元医師の温和さを知っていた。家の裏地を探検し、鉄条網を発見、その向こう側にいた同い年の子供と友達になる。
どう見ても、残酷な高慢さを持っているのは、父親や、出入りする部下の軍人たちのほう。
ユダヤ人をとても悪とは思えなかった。
やがて、それまで収容所の実態を知らなかった母親も少しずつ事実に気づくようになるけれど…。


ナチ党員=悪、それ以外=善、の単純な図式のタイプの映画。
善と悪のあいだの曖昧な人間性を信奉する、当事者性が大好きなかたがたには、その単純さが不評になると予想する。


でもね、単純な図式に例えるからこそ、寓話として善悪についての考察を掘り下げることができるのだと思うよ。


ナチの蛮行を描いた映画ではたいてい、協調性が悪として描かれる。
国に併わせる。時代に併わせる。周囲に併わせる。友人や恋人や家族に併わせる。それが悪。
「協調性は基本的に悪をもたらすけれど、まあたまには良くも悪くない場合もなくはない」程度のスタンス。


ナチ絡みの映画ではたいてい、ナチに異を唱えなかった一般の国民もホロコーストの首謀者と扱われる。この映画で言うなら特に教師。
日本産の太平洋戦争絡みの映画ではそれ、逆になるよね。
「協調性は善いもの。いつも善いもの。それで被害に遭ったら完璧に被害者」。
一般国民を悪と描いたものをほとんど知らない。
戦争責任を問われるのは、いつも政府や軍部や天皇ばかり。
国民たちがそうでなければ日本は戦争を引き起こせなかったのに。


当事者は善でも悪でもなかった。そういう時代の流れで、協力するしかなかったなんて。
いや、それこそが悪だと、たいていのナチもの映画は示唆する。


歴史好きのかたがたは、例えばなしが苦手だと思う。
細かい時代交渉に基づいたディティールを大切にする。
構造というか、本質というか、イデアというか、事象の核心を見る気がない。
リアリティが大好き。現実が大好き。


でも、リアリティとは、人間たちの思い込みの積み重ねによって成り立ったもの。
セックスがジェンダーである。つまり、構築された性差こそが身体性と認識される。それ以前に、人間として触れる現実、人間が人間を自認することが、文化的社会的に構築されたものにすぎない。
この映画は、父の語る現実と、息子が触れる現実の対比によって、その社会で現実と認識されるものは決して現実ではないことを示唆している。(と、やりすぎの解釈をしてみるw)


ディティールにばかりこだわった映画は、リアリティを高める一方、個別のカテゴリーの枠組を強化する。
その問題の独自性が強調され、他の問題との共通性を見出ださない。寓話として成り立たせようとはしない。当事者性の利権を手放さない。


何故、『刑法175条』を観て良いと思ったかたの多数は、『悪魔のいけにえ』を観ないのか。
何故、『橋のない川』を読んで感激したかたの多数は、『フランケンシュタイン』を読まないのか。
何故、『レント』は、経済的またはセクシュアリティ的な弱者を讃えながら何故、犬の虐殺を肯定するのか。
当事者性の枠組に縛られた現実認識をしている故のこと。
当事者性の枠組に縛られることで現実というものの虚構性を認識をしない故のこと。
現実という、とても範囲の狭い虚構にしか興味を示さない故のこと。


この映画の前に『HACHI 約束の犬』、『ボルト』を、この映画の後に『ボルト』をもう一回観てきた。


犬の映画は、極端。
犬を知っているかたがたが撮ったか、犬を知らないかたがたが撮ったか、よくわかる。


反戦を訴える『トゥルーへの手紙』。その反戦の中身は、アメリカのラブラドールを救うためにイラクを殲滅しろというものだった。イラクに住む犬は完全無視ですか。ひどい。
犬を人間の生活を引き立てるための道具としてしか見ていない『マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと』。
そんな、犬をただのモノとして扱う、ろくでもない映画がある。
どちらもアメリカ映画。
動物は人間のために造られたものだというユダヤ教キリスト教的な考えが、人間中心的な態度に通じていると判断するかもしれない。


けれども、実は、犬をモノ扱いする映画が多いのは、日本映画。
犬が全く写らない『いぬのえいが』。
犬が若いヘテロ恋愛の添え物にすぎない『マリリンに逢いたい』。
無料で出回っている『犬の十戒』を盗んで、金儲けに使った『犬と私の10の約束』。
基本的に人間を描こうとし、犬を描こうとしない。犬を見たことがないのでしょう。
ああいう映画は、『縞模様のパジャマの少年』の父親のようだと思う。
フェンスの向こうにいるのは、ナチの現実では人間ではない。そして、当事者性に縛られた人間は人間しか認識しない。自分の人間の「現実」しか認識しない。
その枠の中での細かい善悪しか見ない。
もっと崇高なものがすぐ隣にいるというのに。


『HACHI 約束の犬』と『ボルト』は、どちらも素晴らしかった。
ボールを噛むハチ。ニンジンのおもちゃを噛むボルト。製作者は、犬のそういう姿が感動的な現実だということを知っている。犬を知っている。
フェンスの向こうのユダヤ人少年と友達になれるのは、『いぬのえいが』ではなく、『HACHI 約束の犬』です。



2009/08/17 追記


ROMっている某所で、「ハーヴェイ・ミルク」の再上映しますよって情報提供が連続している。
セクマイものっていったら、シネマヴェーラで『フランケンシュタインの花嫁』、やるんだけどなあ。
監督はオープンリーゲイのジェイムズ・ホエール。フランケンシュタインの怪物の受難には被差別者の痛みが重ねられて描かれている。フランケンシュタインは原作からしてそうだけど。
その情報はそこには出ないだろうし、出したとしても興味を示されないだろうし、タイトルを見ただけで無視するかたも多く、無関係と扱われるんだろうなあ。
露骨にセクマイと言われないと興味を持たない、セクマイマニア、もとい、当事者性信奉。
とりあえず、ただ、呆然と眺める。


アクティビズムの最大の障害のひとつであろう、マジョリティの問題への無関心さ、気づかなさの原因は、マジョリティの当事者性信奉にあると思う。なのに、アクティビズムは当事者性を打ち出しがち。
『モーリス』と『恋のミニスカ ウエポン』と『ブラザーベア』と『テキサス・チェーンソー・ビギニング』は同じ話なんだよ。
そこまでいうのは乱暴すぎるけど、分野が違うけどみんな、内なる思い込みを乗り越えてマイノリティの自分を見つける物語。
でも、『モーリス』を好きなかたはまず、『テキサス・チェーンソー・ビギニング』に興味を示さないだろうなあ。
差別問題Aに興味あるかたが、差別問題Bに興味を示すことは、少ないんだろうなあ。
差別問題Bの考察を、差別問題Aに当て嵌めるなんて、滅多にないことだろうなあ。
(全くないとは言ってないよ)
とりあえず、ただ、呆然と眺める。