亡国のイージス / 高橋悠治「ATAK006」

BGM : 高橋悠治「ATAK006」

ATAK006

ATAK006

1曲目の「Gs-Portrait」の、口内に音がくぐもり、その何割かの力がそがれたあとに、つばで粘つく口の端で更なる不明瞭さが混ざり、ようやく形を為したそれ自体がノイジーでもある呟きが、詩を朗読し、声でもあり音でもあるそれは、隙間だらけのノイズとパーカッションの合間を縫いながら、うねうねと続くと、ああこういう風に喋りたい、日常の会話がこんな風でありたい、と思うのでした。試聴コーナーでこの1曲目にやられて、買いました。

隙間がある、というのは、時間を聴く、ということなのかもしれません。高橋悠治の音楽は、私たちが時間に覚醒するようにある、と思うわけです。ただ隙間があればいいというわけではないわけですから、そのことだけをことさらにいうのはおかしいのでしょうけれど。実際、すごくポップでユーモアにあふれた部分も、あるのです。そこかしこに。ただ、隙間は隙間としてなければならない、ということでしょうか。

T8「それとライラックを日向に Und Flieder In Die Sonne」もかなり好きです。詩の朗読に弱いのかな?T9の1963年に作られたという作品も楽しかったですね。

ATAKの公式HPはこちらです。

阪本順治監督の「亡国のイージス」を見ました。北朝鮮の元工作員と、自衛隊を軍とみなさない国家に対して蜂起を企てる自衛官たちが最新鋭のイージス艦をジャック、化学兵器を搭載したミサイルを東京に撃ち込むと脅迫する、という話です。正直なところでいうと、政治的には微妙な気持ちになる箇所がいくつかありました。しかし、やはり素晴らしいと感じるのは、それぞれの立場を生きる人間たちが、記号化された立場の中に納まるのではなく、人間的な膨らみを持って存在しているからです。

阪本順治といえば、「KT」というポリティカルサスペンスもありました。金大中の誘拐事件を題材に取った作品で、自衛官佐藤浩市は命に従い、金大中暗殺を命じられた大韓民国の諜報員たち(KCIA)に協力する。自衛隊は関与露呈を恐れ途中から手を引こうとする。しかし佐藤浩市は引かず、「たった一人の戦争」を続けていく。もう一人の主人公、KCIAを指揮するキム・ガプスは、このミッションに成功しないと、自分だけではなく家族の命も危うい立場にある。二人は強引に誘拐を成功させるが…という話でした。

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以下、「亡国のイージス」と「KT」、ともにネタばれです。

この佐藤浩市も、自衛隊がたんなる傀儡(くぐつ)に過ぎないことを潔しとしない人物でした。しかし「KT」の佐藤浩市が一人でも戦い続けようとするのは、自衛隊が軍として立ち上がるように訴えた三島由紀夫の思想に共鳴していたからではなく、自ら立つことが生き方だったからではないかと思います(この映画の佐藤浩市の行動を、政治的文脈に求めるのは難しいと思います)。自衛隊という自分の属する組織と生き方との間にぶれを感じながら、組織の命令を遂行しようとし、その組織に裏切られてしまう。けれど生き方としてそれでも戦い抜こうとする。自らが自らに命じるところを行う。その意味では、佐藤浩市もキム・ガプスも、更に金大中ボディガードをする筒井道隆も、権力に対して個人の出来る限りを尽くすという点で、同じタイプの人間なのではないかと感じます。ただ、それぞれの拠って立つ場の違いが、人々の間に埋めがたい断絶と争いを生じさせるのです。

亡国のイージス」も、「KT」同様に複数の立場の人間たちがぶつかり合うことで成立する作品です。複数の立場の人間が、それぞれ譲れないものを抱いた個人として、人間的な存在感を持って対峙している。そこには誰が正しいとか間違っている、というのを越えた肯定があるように思います。また、そこに阪本順治の卓越した演出があると感じます。

北朝鮮工作員だった中井貴一の妹、チェ・ミンソが、勝地涼演じる自衛隊特殊工作員と対決するシーンが、まずは思い出されます。それまでも幾度か銃口を向け合った二人が海の中で白兵戦を繰り広げるのですけれど、息が切れて海面に向かった勝地涼チェ・ミンソが両腕で捕まえ、再び海の中へ引きずり込もうとするのです。そのシーンは、あたかもキスシーンのように男女の顔と顔が重なっていく。殺し合いです。もちろんキスシーンではありません。にもかかわらず、幾度も交し合った視線(銃口)が、二人の男女を最終的に肉体的に結びつける展開には、やはり恋愛に近い強い引力が働いていると思うのです。そのとき、二人の肉体は人間として強く豊かさを帯びます。若い男女の肉体的接近が持つ緊張感が、殺しあう二人の関係に一種の困惑を与えるからです。一方が悪で、一方が正義とかではない、二人のぶつかり合う肉体がただあるわけです(それは阪本順治のデビュー作「どついたるねん」から続く一貫したモチーフです)。動き出した船のスクリューに巻き込まれて…という激しい死に方も含めてチェ・ミンソは、出番は少ないものの印象的でした。

チェ・ミンソだと、傷ついた腕を誰にも言わず一人で手当てしているシーンも記憶に残っています。戦闘マシーンの緊張した雰囲気を全身に漂わせる、鍛えられた体ながら、女の子の骨格でもあります。肉体を示す。同時に、個人としての強い意志を黙って一人で治療する姿で示す。短いショットで人間的な膨らみと、絶対に勝地涼とは相容れないだろう彼女の立ち位置とを示すわけです。それが、後の対決に生きていきます。

チェ・ミンソが治療するシーンには、中井貴一も登場しました。中井とチェ・ミンソは兄妹なのですが、中井は無言で見つめ、去っていくだけです。この二人が戦闘の上司と部下以外の関係で姿を現すシーンは、このシーンと、チェ・ミンソが戦いに敗れて死んだあとの回想シーンの2つしかありません。その回想シーンも、野球場を無言で連れ立って歩くだけのショットです。しかし、続けて中井貴一が、子供のころチェ・ミンソとともに撮った写真を無言で燃やすシーンが出てくると、冷静な憎悪が固まって出来たかのような中井貴一が人間的な膨らみをいきなり持つ。なぜなら、それまで目的に向かって真直に進むだけに見えた中井が、唯一このシーンだけ、戦闘以外のこともする人間であることを示すからです。

その上で中井貴一真田広之と対決をするからこそ、この映画は阪本順治の映画になるのだと思います。グソウと呼ばれるたった1リットルで東京を滅ぼせる毒ガスを取り合い、真田と中井が対決するシーン。マストを舞台に、上下運動を生かしたアクションが繰り広げられ、そして上下運動の終点=甲板で必然的に決着がつきます。グソウの入ったカプセルを受け止めてようとして墜落死した自衛官、壮絶な争いの末に真田に射殺された中井、そしてどうにか生き延びた真田の三者が俯瞰で映し出され、血にぬれた甲板の上に、やはり血だらけの3つの肉体が横たわっています。俯瞰のショットは、上下動のアクションと呼応関係を結び、決着点である甲板をフィックスで見下ろすことで、アクションを鮮やかに切断し、その結果を唐突に浮かび上がらせます。一つには俯瞰ショットの客観性による三者の立ち位置の違いであり、もう一つには血に濡れた三者の肉感的な生々しい近さです。その相反する2つが同時に1つのショットの中に現れています。最小限のショット数で多数の登場人物一人一人に人間的な膨らみをあたえるのは、こうした画面にみなぎる複合的な豊かさを演出しうる阪本順治の力だと思います。そして混乱なく物語を構築する構成力も含め、やはり、今もっとも注目すべき監督の一人であることは間違いないと思います。

主人公が真田広之であったことも良かったのかもしれません。銃口を向けられてもひるまず、殺して排除するのではなく体を張って説得し、自分の信念を貫いて人も船も守り抜こうとする真田広之は、言ってしまえば専守防衛を絵に描いたように見えて、政治的に帯びてしまう含意は重くなりがちなのですけれど、しかしその運動能力において、重さを振り払いもするのです。

逆に、戦場(運動の場)から遠くはなれた司令室では、別種の戦いを佐藤浩市が繰り広げています。自衛隊内の特殊機関を指揮する彼の使命は、隔てられた場所で、状況を的確に把握し、指示を出し、効果的に敵を排することです。そこで問われるのは情報の運動神経とでも言うべきものです。どう解釈し、どう分析し、どう指示するか、ですね。

佐藤浩市は、蜂起を起こさないために、独断で事前に工作員を潜入させ、敵によるイージス艦の制圧を回避しようとしていました。そして、場合によっては爆破させてでも、先制攻撃で敵を止めようとしていた。その意味では、中井貴一イージス艦を乗っ取る主犯の一人、副艦長役の寺尾聡同様、戦争としてこの事態に臨んでいたといえます。先を制さなければ勝てないと見極めていたわけです。その(情報の運動神経ならではの)合理性と、立ち位置の矛盾(先制攻撃をすることで、被害を最小限にしようとするのは、自衛隊の本則には反する)は、彼に個人として戦うことを選ばせます。命令に従うのではなく、あくまで自分の判断で戦おうとする。そして、佐藤浩市が個人として戦うからこそあげえた、人間的な熱を帯びた訴えによって、イージス艦への特殊焼夷弾投下は回避されるのです。

組織の内部にいながら、組織の人間ではなく、個人であろうとする。その意味では「KT」と「亡国のイージス」の佐藤浩市は共通点を持っています。中井貴一もまた、北朝鮮の元工作員なわけですが、北朝鮮を転覆しようとする個人として、作戦を指揮しています。彼に共感を示す自衛官、寺尾聡も、自らの信念に従い、組織内にあって反逆を企てるわけです。人間的であることの正しさを無謀なまでに貫こうとする真田広之も、組織の人間とは言いづらいように思います。彼らは、その意味では、まったく違う立場で、違う方法を選びながら、やはり同種の人間だったのかもしれません。または、正しく阪本順治の映画の人物だった、と言えるのかもしれません。

原田芳雄が日本国首相というのは(この映画を何十年後かに見直す人にとっては違和感があるかもしれませんが)現時点では間違いなく適役です。あと、岸部一徳松岡俊介はそれぞれ小さい役ですが、出てくるとやはり存在感があります(贔屓にしてます)。役者は総じていいのですが、もう一人、印象に残ったのは安藤政信ですね。無口な青年工作員を演じているのですが、真田との対決でナイフが足の付け根に深々と突き刺さり、歩けなくなると、支える中井貴一の肩を振り払い、迷いなく銃で自害します。安藤の、ナイフが刺さったあと、起き上がろうとして起き上がれない壊れた体の動きが素晴らしかったのです。必死に起き上がろうとする肉体がなければ、自害はたんなる自己犠牲の記号になりかねません。必死の意思が運動として視覚的に示されるからこそ、自害にいたる流れが「映画」になるのだと思うのです。