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2011-11-05

ビットとアトムのはざまで

コンピュータは万能シミュレータなので、最初は紙ベースの既存のシステムを模倣する形で導入される。既存のシステムには、紙というデバイスの特性から発生した多くの制限事項があるが、最初は、この制限事項をうまくシミュレートすることが、コンピュータシステム導入のポイントとなる。

導入時には、その制限事項がユーザにとって助けになる。これが無くて自由度が高過ぎると、ユーザがそのシステムを理解することが困難になる。

しかし、そうやって導入されたシステムを実際に使っていくうちに、制限事項のシミュレーションは不要であることに、多くのユーザが気がつきはじめる。

やがて、紙(アトム)の制限を抜きにして、コンピュータ(ビット)が本来持っている自由度を生かして再設計されたシステムが作られるようになる。

アトム アトムを模倣するビット ビット
書類 MS-Office Wikiエンジン
手紙 メール twitter
キャビネット ディレクトリ型サーチ ロボット型サーチ

書類は、清書して完成させるより、履歴を残して誰でも修正できる方がいい。通知は、送り元が宛先を指定するより、読み手が選別した方がいい。情報は、事前に人間が整理するより、必要に応じて機械に検索させた方がいい。

後になってみればあたりまえのことだが、「アトムを模倣するビット」の段階を経ることなしに、これが多くの人に受け入れられることはなかった。

このように、

  1. アトム
  2. アトムを模倣するビット
  3. (本来の)ビット

という三段階のモデルで、社会へのコンピュータの導入プロセスをとらえることは、理解や予測に有効だと思う。

いくつかの例外はあるが、およそ次のようなことが言える。

  • 「アトムを模倣するビット」より「ビット」の方が、コンピュータプログラムとしてはシンプルなものになるが、社会への影響力は大きい
  • 「アトムを模倣するビット」は、「アトム」の時代の社会構造を強化する
  • 「(本来の)ビット」は、「アトム」の時代の社会構造を揺るがす
  • 「アトムを模倣するビット」の段階から、「(本来の)ビット」の段階に移行する時に、コンピュータは社会構造にインパクトを与える

「アトム」と「ビット」の間には、もともと大きなギャップがあるが、その間に「アトムを模倣するビット」が入ることで、そのギャップやインパクトはさらに大きなものになる。なぜなら、「アトムを模倣するビット」は「アトム」が前提とし、支えてきた社会の構造を強化するので、「(本来の)ビット」とのギャップが拡大した所へ、それが導入されることになるからだ。

そして、「ビット」は、コンピュータの使い方として素直なので、いったん頭を切り替えてしまえば、「アトムを模倣するビット」より安く使いやすくパワフルだ。

このような移行は、現代社会のさまざまなレベルで同時並行的に起きていると思われるが、今進展している一番大きな変化がこれだ。

アトム アトムを模倣するビット ビット
資本主義 金融資本主義 ソーシャルメディア

つまり、金融や市場の本来の機能は、社会的資源の最適配分のための(分散処理型)情報伝達である。

この機能を、紙幣や帳簿や伝票を使って紙ベースで行なうのが資本主義である。紙ベースで行うので、企業という組織が必要になる。

資本主義を「アトムを模倣するビット」としてコンピュータに乗せたことで、金融資本主義が産まれ、これが、資本主義のメリットと同時にデメリット(格差の拡大や社会の(無駄な)不安定化)を強化した。

しかし、これは、「社会的資源の最適配分のための(分散処理型)情報伝達」の為にコンピュータを使う方法としてはスマートな方法ではない。

「アトム」時代の記憶をゼロクリアすれば、もっとスマートでエレガントな方法でコンピュータを使えるはずだ。

その萌芽が、ソーシャルメディアという形で、今、見えているのだと思う。

(当ブログの関連記事)


一日一チベットリンク河北新報 東北のニュース/「悲しみを頑張る力に」 ダライ・ラマ14世、東北入り

私は脱原発派をやめて原発解体派を名乗ることにした

「除染」はウソくさい言葉だ。放射性物質はどうやっても消えることはない。移動するだけだ。除染でなく「核集め」とでも呼んだ方が正確だと思う。

「核集め」と呼べば、その集めた放射性物質をどうするかという問題が明確になってくる。

同じように「脱原発」も欺瞞をはらんだ言葉だと思う。

仮に「脱原発」派が100%の支持を集めたとして、その時に何が起こるだろうか?

止めるだけで原発が消えてなくわけじゃない。止めてから解体しなくてはならない。

廃炉や使用済み核燃料の処理は、事故がなくても困難な作業だ。困難というより、どうしたらいいのかわからないと言った方が近い。まして、福島第一のメルトダウンした燃料と壊れた原子炉の処理はとてつもない時間とお金がかかることがハッキリしている。

「除染」が放射性物質の処理という問題を隠しているように、「脱原発」という言葉は、原発解体という真の問題点を隠してしまう言葉だ。

止めることが目標ではなまぬるい。「脱原発」の目標は、日本中の全ての原発を解体することに置くべきだ。

福島第一では、いつになるのかわからないが、とても難しく危険で長期間かかる作業に取り組む人が、これから出て来るはずだ。その人たちが後ろを振り向いた時に、日本中が彼らを応援している、そういう状況をこれから作ることを「脱原発」運動は目指すべきだと思う。

彼らが後ろを振り向いた時にそこに誰もいなかったら、誰がそんなことをしてくれるのだろうか?

他の原発を止めて廃炉にすることは、一番困難な福島第一の後始末へ向けての助走に過ぎない。そこにリソースとノウハウを結集して実績を積んではずみをつけ、さらに日本中の元気玉を集めないと、福島第一の解体はできない。

「自分の不始末でもないのに、どうして自分がそれに協力しなくちゃいけないのだ?」と思う人も多いだろう。しかし、我々がやらなかったら、3.11以降に生まれてくる子供たちの世代が、それをやらなくてはならない。彼らから見たら、原発へのスタンスに関係なく、我々みんなが始末をつけるべき当事者だ。

それと比較したら、今動いている原発を止めるかどうかなんてことは、小さな問題だ。

いや、小さな問題ではないけど、使用済み核燃料の処理と壊れた原子炉の処理は、他の何と比べても途方もなく大きな問題だ。

これを真剣に考えつつなおかつ原発推進と言う人がいたら、その人は自分の同志だと私は思う。本当にそのことを真面目に考えているなら。

だから私は、脱原発派をやめて原発解体派を名乗ることにした。

2011-10-29

戦略的思考と人脈的思考と黒船

この、全く性質が違う二つの事件を見て、共通に思うことがある。

それは「戦略の無さ」だ。

どちらも、こういう危機が起こることは数年前に予想ができたはずのことなのに、その危機に対してどう対応すべきか事前に考えた様子が全く見えない。事前に考えた戦略が不十分だったということではなく、全く戦略が無いまま右往左往しているように私には見えてしまう。

日本の企業は、大きい所も小さい所も、良心的な経営をしている所もそうでない所も、戦略というものがスッポリ抜けている気がする。

そういう企業の経営者は何をしているのかと言うと、人脈を維持しているのではないだろうか。つまり、一般的に経営の中で「戦略」というものが占める位置に「人脈」というものがあるのではないだろうか。

この記事によると、「日経BP社の辣腕副社長だった方が、今年の6月からオリンパスの社外取締役になっている」そうだ。

オリンパスのスキャンダルは、不思議なほど報道が少ない。たとえば、不二家やライブドアが叩かれた時には、面白おかしい空想的なストーリーに基づく報道がたくさんあった。

少なくとも今のところ、こういう形で扱われていないのを見ると、オリンパスの「人脈的思考」は有効であり、「戦略的思考」の不足を補っているのかもしれない。

単に特定の一人の報道機関OBを受けいれた、ということではなく、歴代の経営者が長年にわたって幅広い人脈的つながりを維持してきた結果であり、それは「人脈的思考」とでも呼ぶべき高度で複雑なノウハウなのだと思う。

戦略とは、自分でコントロールできない対象をどう扱うか考えることだ。コントロールできない対象と自社の間に、適切な調停者を用意することができるなら、人脈は戦略の代わりになる。ただし、戦略的に考える人との人脈ではだめだ。それではいざという時に戦略的に切られてしまうので、人脈的に考える人との人脈でないといけない。そういう備えをするには自分も「人脈的思考」をマスターしないといけない。

海外では戦略的思考の持ち主が良い経営者とされるように、日本では人脈的思考ができる人が優秀な経営者だったのだろう。そして、人脈的思考の為には、意図的に戦略的思考を封印しなくてはいけない。だから、戦略に欠けた経営者が多いように見えるのだろう。

そして、そういう「人脈的思考」が通用しない事態のことを「黒船」と呼んでいるのではないだろうか。

戦略的思考による経営と人脈的思考による経営とどちらが優れているとは一概には言えない。ただ、戦略的思考の限界について戦略的に考えることはできるが、人脈的思考の限界について人脈的に考えることはできない。

自分が日常的に使っている方法論の限界について考えるために、その慣れ親しんだ思考方法から脱却しなければいけない、という点において人脈的思考には問題がある。

これからも「黒船」がどんどんやってくるけど、この黒船にどう対処するかということは、「人脈的思考」でなく「戦略的思考」で考えなくてはいけないと私は思う。


一日一チベットリンクチベット亡命政府の新首相にハーバード大のサンゲ氏 国際ニュース : AFPBB News

2011-10-22

自分と違う決断をした人に敬意を持てるようになれたらいいな

近所に住む友人が放射能が怖くて引っ越して行って、自分はここにそのまま残り、その友人と20年後に再開したとする。

その時、自分や家族に何の健康被害も無ければこちらの勝ちで、私はニヤニヤしながら彼を見下して「あの時は大変だったでしょう」とか言うだろう。

自分や家族の誰かが病気になっていたらこちらの負けで、その負けを繕うための言い訳をあれこれ考えるだろう。

どちらになったとしても悲しいことだ。

道は違ったとしても、お互い一生懸命考え迷いに迷った上での決断なのだから、「あの時は大変だった、でもお互いよく頑張ったね」と素直に再開を祝いたい。

違う道を選んだ人にも敬意を持てる、そういう人間に私はなりたい。

今の自分にはやせがまんして口先だけで何か言う自分しか想像できない。でも、なんとかして、どちらのケースでも自分と友人を共に肯定できるようになりたい。

彼が引っ越して行くことで、私の放射能に対する恐怖は倍増する。もちろん、私は情報強者だから、この私が調べた情報が正しいはずで、だから私は怖がる必要なんかなくて恐怖なんてないはずだけど、いかにあいつは馬鹿だと思っても、現実にいくつもあるリスクを乗り越えて大きな決断をした人が身近にいたという事実の衝撃は大きく、そういう不安を呼びおこした彼を私は憎むだろう。そして、その憎悪はきっと二人の再開の時に暗い影を落とすだろう。

私は、よほどのことが無ければ、その憎悪をおさえこんで紳士的にふるまえる人間ではあるけど、その憎悪や不安を持たないでいられる人間ではない。

でも、どうして情報の解釈が違う時に、憎悪や不安を持つ必要があるのだ。

その憎悪や不安は情報の解釈や伝達に役に立つのだろうか?

確認すべきことは、自分がその時点でベストを尽くしたかどうかである。引っ越す前の友人には、参考意見として自分の解釈を伝えたい。彼の考えもよく聞いておきたい。そのことにはベストを尽くしたい。でも、その上で彼と見解が一致しなかったとしても、お互いにベストを尽くしてそれぞれが最善と思える選択をしたのだから、それでいいではないか。

彼がどうしようが、もともと不安はある。その、もともとあった不安は仕方ないとして、彼が引っ越したことで不安が増えてしまうのはおかしい。

その不安の増量分はなんとかしたいし、ましてそれで彼に対して悪い感情を持たないようにしたい。そういう人間に私はなりたい。

微量放射線というのは微妙な問題で、引っ越すという話にならなくても、食材をどうするかみたいな所にも、多くの見解の相違があって、それがいちいち微妙な亀裂を産む。

誰かが自分と違う選択をしたことで、不安が増したように思えたとしても、その不安はたぶん、もともと自分の中にあったものだから、その誰かのせいにはしない方がいいと思う。

もちろん、明らかに間違ったことを信じている人がいたら、それについては教えてあげるべきだけど、自分が持っているその不安について意識していた方が、たいていコミュニケーションがうまくいく。






一日一チベットリンク白雪姫と七人の小坊主達 増え続ける焼身自殺者

2011-07-18

日本教と原子力問題

原子力問題の中核には日本教という問題があると思う。

  • 山本七平の「空気」
  • 阿部謹也の「世間」
  • 河合隼雄の「中空構造」
  • 岸田秀の「内的自己と外的自己の乖離」
  • 井沢元彦の「言霊」

この人たちをはじめ、多くの人が日本人の精神構造とそこから来る社会の構造に、何か独特の要素があることを指摘してきた。このエントリでは、それらを総称して「日本教問題」と呼びたい。

この日本教問題がある為に、他の国や他の社会と比較して、日本人は以下のことが苦手になる。

  • 自由闊達な議論
  • 危機的状況でのトップダウンの意思決定
  • 科学的な論理に基く客観的な状況判断

原子力のような巨大技術を扱う時に、これが深刻な問題となる。

そして、一番まずいのが、こういう日本独特の社会構造を分析することを拒む構造が日本教問題そのものの中に、深く埋めこまれていること。

それを象徴するのが、マル激の小出裕章さんへの次のインタビューだ。

D

この中で小出さんは、学生時代のことを聞かれて次のように答えている。

(原子力発電所は都会には引き受けられないほどのリスクがあるという) その答を知ってしまった以上は私にとっても選択は一つしかなくて、これはとても認めることができない。止めさせようと思った。で、人生の選択を180度転換しまして、原子力を止めさせるということに、とにかく私の力をそそごうと思うようになったわけです。(中略)

原子力工学科というのは、もともと原子力発電をやろうとするまあ牙城ですよね。そこで私は、原子力発電をやめさせようとしたわけで、教員たちと毎日のように論争をしました。で、たいてい私が勝ちました。そうすると、彼らが何と言ったかと言うと、「自分には妻もいるし子もいる」と言った。

‪PART1:原子力のこれまでとこれからを問う(ゲスト:小出裕章氏)‬‏

この小出さんと教員の違いは象徴的だと思う。

ここでの小出さんの考え方には以下のような特徴がある。

  • 科学的な真理は、人間の世界の上にある絶対的な真理であって、人間にはそれをくつがえすことはできない
  • 科学的な真理の呼ぶ声に対して、人間は、どのような犠牲を払っても従うべきである
  • 科学的な真理に対して、人間は個人として直接つながることができる

それに対して、小出さんの指導教官たちは、おそらく次のように考えている

  • 共同体の持つ価値は、科学や学問の上にある絶対的な価値であって、人間にはそれをくつがえすことはできない
  • 共同体からの求めに対して、人間は、どのような犠牲を払ってもしたがうべきである
  • 共同体の求めることが何かということは、個人に対して共同体を通して伝えられるので、個人の独断でそれを判断すべきではない

つまり、御用学者にとって、科学は重要だが絶対的な価値を持つものではない。それが「原子力村」の意向と違う結論を主張している場合は、共同体の価値の方を優先しなければならない。

これは、良心の問題でなく、一種の信仰の問題として考えるべきだと私は思う。

日本人離れした生き方を貫いた小出さんと比較することで、それは明解に見えてくる。

いくら優秀で理想に燃えていても、20才の学部生が、回りの影響でなく自分自身の判断で、何かをハッキリと決断するということは、日本人にはなかなかできないことだと思う。ここで小出さんは、「誰が言うかということには何の意味もない。何をどのように言うかが全て」という科学の原則に忠実に従っている。そして、それによって自分の人生の進路を大きく変えてしまった。

「科学的な真理に対して、人間は個人として直接つながることができる」というのは、キリスト教の宗教改革にルーツを持つ、プロテスタント的な信念だ。ルネッサンスによって、神の言葉は科学的真理に代わったが、その絶対的な真理に個人が(言葉の力を駆使することで)直接つながれるというのは、プロテスタント的発想だと思う。

このような絶対性を否定するのが日本教だ。日本教では、共同体の価値に絶対性を置いているが、それを絶対性として明言しないことに日本教の本質がある。

小出さんに対して「いくら優秀でも、君のような若造が独断で結論を出すことは傲慢だ。科学的真理は共同体的価値を超えることはできない」などと、明確に意義を唱え、諭した人はいなかったと思う。

日本人は、こういう時、「君の言うことは正しい。しかし、そうは言ってもねえ」と言って、そこで口をつぐむ。

ここに、日本教の問題の困難さがある。

日本教は「共同体的価値を絶対化して、それを他の価値の上に置く」という考え方ではない。全てを相対化して、切所における判断基準は言語化しない、してはいけない、というのが日本教だ。

だから、「そうは言ってもねえ」と言って、そこで口をつぐむのが、正統的な日本教信者だと思う。

相対性に対する絶対的信仰を持ち、それによって深く自分の生き方を規定しているのだが、その事実を頑として認めず、「自分は状況に応じて常に適切に判断している」と信じこむのが日本教信仰である。

そして、空気の読めない存在に対した時、日本人は征夷大将軍や検非違使などの令外の官を置く。犯罪者や異民族は、朝廷の中の空気を読めない存在で、「そうは言ってもねえ」の先にある沈黙によって、行動をおさえこむことができない。だからそれを無視することはできないが、そこに担当者を置くということは、その存在を認めることになるので、それもできない。

そこで、役職が無いけど役割がある「令外の官」という不思議な制度ができた。

「英語読み」とか「技官」とか「SE」は現代における令外の官であり、まつろわぬ放射能と戦い続ける吉田所長は現代の征夷大将軍だろう。

「令外の官」は、絶対性の言語で議論し決断することを許された人たちだ。彼らはその自由とひきかえに、官位と栄達をあきらめなくてはならない。

そして、日本教の構造を論理的に解き明かそうとする人も令外の官になってしまう。日本教問題についての本は学問とはされずエッセイに分類される。学問の世界でも政治の世界でも、中枢で影響力を持てるのは、「そうは言ってもねえ」という言葉に無言で従う人だ。

太平洋戦争も地デジも原子力発電も、この構造によって維持されてきた。内部にもおかしいと思う人はたくさんいたのだろうが、多くは「おかしいとは思う。だけどねえ」と沈黙し、論理的に納得するまで引き下がらない人は、令外の官となり巧妙にガス抜きされ、決定権から遠ざけれられてきたのだ。

反原発運動には、二つの危険がある。

ひとつは、令外の官というかたちで決定力を持たないままガス抜きされてしまうこと、もうひとつは、それが異論を許さない新しい空気となって暴走することだ。

私は、日本人がこの日本教問題を克服するのは、なみたいていのことではないと思う。

いやむしろ、これを克服できると思うのが錯覚で、その錯覚がよりこの問題を深刻にする。「そうは言ってもねえ」と沈黙する人を説得しようとする時、どちらも自分の役割にとらわれてしまうからだ。

論理と沈黙が対した時、その両側に私がいる。そんな感覚が必要なのだと思う。



一日一チベットリンクasahi.com(朝日新聞社):米大統領、宗教・文化保護を支持 ダライ・ラマと会談 - 国際

2011-07-04

神話的自傷行為の当事者としての原発問題

原発に関する議論はこうなりがちだ。

  • A: 常識的に考えて原発はダメだろ
  • B: いや常識的に考えて原発でいくしかないだろ
  • A: そりゃおまえの常識がおかしい
  • B: いや、おまえの常識の方が常識じゃない

議論の座標軸を共有できない人と議論しなくてはいけなくなるのが現代なのだが、特にこの問題はそれが顕著に現れてくると思う。

何が常識であるか、ここでどの常識をベースに考えるべきか。それが原発問題の本当の論点だと思う。

私にとって、原発は何より第一に科学的な問題だ。

つまり、毒物質と毒原子核の違いを認識しろということだ。

サリンでもVXガスでも、大抵の毒物や危険物は、分子が毒を持っている状態である。つまり毒分子である。毒分子は、電子を引っぺがして組み替えると、毒じゃない普通にそのへんにある物質になる。電子を引っぺがす手段はいろいろあって、頑張れば大抵の毒分子を無毒化できるし、難しくても集中的に研究すれば、従来の技術の延長、組み替えで対処できる。

それに対して、放射性物質は、毒分子ではなく毒原子核だ。これはその回りにある電子をどういじっても毒が消えない。

分子と原子核は、どちらも電子顕微鏡でも見えない非常に小さなものだが、実は両者の大きさは随分違う。分子を東京ドームの大きさとすると、原子核はパチンコ玉くらいになる。パチンコ玉の大きさ・重量のものを引きのばして、東京ドームの大きさのスカスカにしたものとパチンコ玉そのままのものと、破壊する大変さがどれくらい違うかという話だ。

毒分子を壊すのはスカスカの東京ドームを壊すことに相当し、毒原子核を壊すのはそのままのパチンコ玉を壊すことに当たる。

現在の人類の技術は、東京ドームくらいのスカスカのものには手が出るが、その重量がパチンコ玉に集中してしまうと手が出せない。これは単に今すぐできないというだけでなく、当分できない。ちょっとやそっとではできない。毒原子核を壊して放射性物質を始末できるようになるのは、ドラエモンを作るよりずっと難しい夢物語なのだ。

科学の問題として原発を考えると、放射性物質の扱いにくさは、他の毒物と比べて東京ドームとパチンコ玉の違いくらいの差があるという話になる。

ただ、科学が言えるのはここまでで、だから原発をやめるとか続けるとかの疑問には科学は答えられない。

東京ドームとパチンコ玉の違いは、同時に効率の違いでもあって、火力発電と原子力発電の効率の違いも、この東京ドームとパチンコ玉の違いになる。原子力発電は、それくらい扱いにくいものであると同時に、それくらい効率がよいものである。

私が「原発は科学の問題である」と言うのは、「科学的に考えれば原発を止めるという結論になる」という意味ではない。東京ドームとパチンコ玉というたとえ話で今説明した、毒分子と毒原子核の違いについて(その効率の違いについて)、原発について議論する人は理解しておくべきであるということだ。そこを理解してから議論に臨むべきだということだ。

私は困難さの方に着目して止めるべきだと考えるが、同じ科学的な観点から効率の良さの方を重く見る人もいるだろう。あるいは、困難であると理解していても、これをやるしかない、やるべきだという主張もあり得ると思う。

ただ、放射性物質が毒原子核であることを理解せず、ただの毒分子と思っている人には「出直して来い」と言いたくなる。そこを理解してない人と議論するのは時間の無駄だと感じる。

このように「原発について何を言ってもいいけど、最低○○は押さえておいてほしい」というふうに感じている人は多いと思う。ただ、その○○はいろいろあるだろう。

「内部被爆と外部被爆の違い」かもしれないし「原発無しでは成り立たない地域の問題」かもしれないし「各発電方式別の発電コスト」かもしれないし「福島第一の時代から今までどれだけ原子力の技術は進歩しているか」かもしれないし「政財官を巻きこんだ利権の問題」かもしれないし「日本の経済や財政の状況」かもしれない。

みんなそれぞれ自分の○○を持っていて、「その○○を基盤としないから議論が噛み合わないんだ」と思っている。

「常識的に考えて、○○くらいは勉強してからモノを言えよ」と思っている人はたくさんいるけど、その常識がみんな違う。

だから、原発に関する議論は、それぞれが自分の○○を共有するように訴えかけ、それを共有する人をどれだけ獲得するかの議論になる。

「原発に関する議論は、それぞれが自分の○○を共有するように訴えかけ、それを共有する人をどれだけ獲得するかの議論になる」ということをより多くの人と共有したい、というのが実はこのエントリの第二の主題である。

そういう議論の性質を共有できていれば、無駄な議論を避けられるケースがけっこうあるような気がする。

それで私の○○がもう一つあって、それが第三の主題なのだが、これが実に表現しにくい。表現しにくいが無理に書いてみる。

原発も放射性廃棄物処理場も、ひとたび事故を起こすと、毒原子核をばらまき、人の住めない土地を生む。そういう事故の後始末をできる技術を開発できるのは、相当後だ。つまり、原発は一つ間違うと国土を削る。そしてそれが実際に起きた。

ここまでは、科学についての知識から導かれる論理的な結論なのだが、ここまで考えると、私は削られていく日本の国土そのものに同一化してしまい、削られる国土の痛みを自分の身体の痛みとして感じてしまうのだ。

削られる国土に同一化すると同時に、そういう事態を引き起こした日本の社会そのものとも同一化している。だから、その時、削っているのも削られているのも私自身なのだ。

自分の身体が痛いのは確かだが、では痛いのはどこか?と聞かれたら、「福島県浜通りとその周辺」としか言えない。

4月下旬から6月上旬まで、私はそういう痛みを感じていて、ブログも(書きたかったけど)書けなかったし、仕事も進まなくて、何人かの人に迷惑をかけてしまった。のたうち回ったりはしないが、寝こんだことは数回あって、何事もはかどらなかった。

痛くて何もできないが、その痛みを引き起こしているのは他ならぬ自分自身であって、どうしたらいいのかわからない。

言わば「神話的自傷行為の当事者としての原発問題」という観点、というか、観点というようなのんびりしたものではなくて、現在進行中の切実な問題である。

その痛みを、実はみんなも感じているのではないか?という話だ。

これを「ちっとも痛くない」と否認すると原発推進派になり、「やってるのは自分じゃない」と否認すると反原発派になる。

否認をやめて痛みを感じ直すということが、この問題について考えるための出発点になるのではないかと思っている。