アンカテ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-04-15

将棋ソフトに見る「フルオート」と「セミオート」の違い

将棋電王戦が「コンピュータソフトは人間を超えたのか?」と話題となっている。これは「全自動」と「半自動」を区別して考えればわかりやすいと思う。

つまり、アマ高段者がソフトの弱点を補いつつ、要所でソフトの計算能力を効果的に使えば、現時点でもプロを凌駕することは確実だと思う。しかし、人間の介入を一切許さない完全自動モードでコンピュータが上位プロに勝てるかどうかについては、勝ったり負けたりの微妙な状態がしばらく続くと思う。

そして、これは、「プログラムが人間より強い」と考えるよりは、「数学の力をうまく使うとコンピュータはよく働く」と考えるべきではないだろうか。

ソフトが飛躍的に強くなったのは、機械学習という手法が一般化してからだ。つまり、多種多様な駒の配置を、評価点という一元的な数値として一般化する(基準を過去の棋譜から計算で作り出す)数学的手法によって将棋ソフトは急に強くなった。もし、中盤の細かい手筋を「もしこうならこうする」というルールの集積として強くなったとしたら、それは「プログラムの力」と言ってよいと思うが、そういうやり方では、ルールとそのルールを適用するためのルールが増え過ぎて、プログラムが複雑すぎて管理しきれなくなってしまう。

ちょうど検索エンジンの表示順位を決めるのに、「有力ブログは一般人のブログより上にする。企業サイトはさらにその上で、最上位にニュースサイト。ただし、ニッチな話題では例外的にブログを重視する。たとえばこの話題に強いのはこことここで....」などとルールで決めていったら追いつかないと同じことだ。複雑なプログラムは適用範囲を絞りこまないとうまく動かないことが多い。

検索エンジンも「ページランク」という数学の力で飛躍的に実用性を高めた。今では、ほとんどの場合、探したいサイトは、検索結果の1ページ目か2ページ目に入っているだろう。

しかし、結果を最初の一件だけに絞りこむ「I'm feeling lucky」というボタンは、グーグルの登場当時からあったが、今でも「I'm feeling lucky」のままで、完全自動の検索はまだ実現されていない。

コンピュータの計算パワーを、適切な数学と組み合せて使うと、今までになかったような便利なものが生まれてくることがある。しかし、コンピュータに全てをまかせるには、実世界は人間が普通に考えるよりずっと複雑で、人間はみかけより複雑なことをしているのだ。コンピュータはあくまで「半自動モード」で人間が主体となって使うべきだ。

フルオートの将棋ソフトは、今後いびつな形で進化していく可能性がある。

つまり、ソフト特有の強みはどんどん強さを増していくが、ソフト特有の弱点を完全に消すまでの道は遠い。プロが目の色を変えて研究したら、入玉模様の将棋以外にもソフト特有の弱点はこれからも見つかると思う。これに対して、勝負だけにこだわるソフト開発者が出て来たら、意図的に弱点のある古いバージョンを貸して、本番でそこに狭い対策をしたバージョンをぶつける、という騙し合いのような見世物になっていく懸念があると私は考える。塚田泰明九段 VS Puella αの対戦で見られたような極端な強さと弱さの交互に見られる、将棋として不自然な対局になる可能性も高い。

私は、将棋ソフトは「セミオート」での応用を中心に活用していくべきではないかと思う。今思いつく応用としては、

  1. プロによる定跡研究の補助ツール
  2. 将棋自習支援ツール
  3. F1形式の「人間(ドライバー)+機械」による対戦
  4. 対局観戦支援ツール

特に「対局観戦支援ツール」としてうまく使っていけば、将棋ファンの裾野を広げることに活用できると思う。

電王戦の船江五段対ツツカナの対局をニコ生で見ていたら、終局間際に「将棋ってこんなに過酷なゲームだったのか!」というような趣旨のコメントが流れた。たぶん、これまでプロの将棋を見たことの無い人だったのだと思うが、プロが頭脳を極限まで酷使して戦う将棋のタイトル戦は、それはそれは苛烈なもので、格闘技のような凄絶さがある人間ドラマだ。

ただ、それがわかるには、ある程度将棋のことを知らなくてはいけなくて、だから、将棋観戦というのはこれまで非常に限られた人にしかその面白さが理解されないものだった。

電王戦では、将棋ソフトによる評価値が中継画面に重なって表示されていて、将棋のことを知らずにこれだけを手掛かりに見ていた人も多かったと思う。しかし、そういう人にも船江五段の対局姿勢は、大きな感銘を与えたのではないだろうか。

もし、将棋ソフトの評価値と読み筋をを表示して、プロや高段アマも含めた観戦者がそれにリアルタイムにツッコミを入れて、指摘された読み筋をソフトが取り込みつつ再表示するような仕組みがあれば、将棋対局の中継を、初心者から上級者まで誰もがそれぞれに楽しめるようになるだろう。

もちろん、ツッコミ(表示されてない手の指摘)の大半は、どうしようもない手なので、そういうのはソフトが容赦なく切り落として、ある程度ソフトが価値を認める手だけ取り込むようにすればいい。そして、その指摘そのものをユーザアカウントと一緒に記録しておけば、検討に値する指摘のできるユーザが誰なのか、自動的にソフトが判定できるようになる。

現状では、トップ同士のタイトル戦のレベルでは、ソフトがフルオートで状況を把握できないケースも出て来ると思うが、それを補えるレベル、匹敵するレベルの観戦者は誰なのかということは、数回分の記録を解析すれば容易に把握できる。そういうユーザの指摘をもとにソフト単独の評価を微調整したり複合的に読み筋を見せたりすれば、かなり難しい場面で時間が限られていても、「今この対局で何が起きているか」を多くの観戦者が理解できるようになるだろう。

そういうセミオートでの応用には、多くの可能性がある。また、こういう分野では、純粋な思考アルゴリズムではなくて、ユーザインターフェース(見せ方)やインセンティブの設計(強い人にツッコミを入れさせる、入れやすくすること)が重要であり、これまでとは違うタイプのプログラマーの力も必要になる。それによって、予想外の応用が広がる範囲はかなり高いと思う。

このような、人力、フルオート、セミオートの適切な配置と役割分担は、将棋以外にもいろいろな分野でこれから求められていくことになると思う。


一日一チベットリンクチベット人遊牧民が焼身抗議に身を投じるわけ=人々を苦しめる定住プロジェクト(tonbani) : 中国・新興国・海外ニュース&コラム KINBRICKS NOW(キンブリックス・ナウ)

2013-01-04

イノベーションのメインストリーム化という最強のほこ×たて

ワーク・シフト (孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>)

ワーク・シフト (孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>)

ワークシフトという本を読み始めましたが、評判通りいい本だと思います。これから20〜30年の間に「仕事」というものがどう変わっていくか、広い視野で見通してよくまとめてあると思いました。

しかし、一方で、もし自分が10年後にこの本をもう一度読んで再評価したら、たぶん、それほど納得しないだろうな、とも思いました。

それは、これから10年で自分の考え方や感じ方は、すごく変わるだろうなと予想するからです。

もし、今の自分が2012年をうまく総括したと思う本を見つけて、タイムマシンで10年前の自分に送ったとしたら、10年前の自分には理解できないし納得できないでしょう。その本には、たとえばスマートフォンやタブレット等のモバイルデバイスの普及について書いてあると思いますが、10年前の自分は「アップルや携帯電話のことは後でいいから、それよりマイクロソフトがどうなったか先に教えてよ、てか何でそれが最初に書いてあるの?」と言うでしょう。ソーシャルメディアのことには多少興味を持つかもしれませんが、当時の私は「短文ブログ」としてブログの延長線上でしかとらえられないので、やはり、どこかずれた理解になってしまうと思います。

逆に、10年前の自分にウケるような本を探すなり書くなりして届けたとしたら、それは、今、2013年にいる自分から見たら、嘘や間違いはないけど、どこか焦点がずれたおかしな本になるでしょう。

10年前の自分と今の自分が、物事を同じように考えないのと同じように、今の自分と2023年の自分も、なかなか物の見方が一致しないでしょう。だから、今の自分が「良い本だ、素晴しい未来予測だ」と思う本を、10年後の自分が認めるとは、とうてい思えないのです。

つまり、今は、「納得できる未来予測」と「当たる未来予測」の乖離が激しい時代であり、そこに時代の本質があるような気がします。

今は、イノベーションというものが、経済や社会を語る上で、欠かせない重要な要素となっています。そして、イノベーションとは、消費者の価値観を変えてしまうものです。イノベーションの役割が大きい社会においては、消費者としての自分の価値観が変化していくことを一番の前提として物事を考える必要があります。

タイムマシンでチートした未来予測があったとしたら、それは将来において既に変わってしまった消費者の価値観を前提に書かれているので、現在の読者には理解不能な本になるはずです。未来の事実を現在の消費者の価値観で書くことは可能かもしれませんが、仮にできたとしても、実感としての未来の生活を表現したものにはなり得ないでしょう。

10年前の私は、携帯電話については典型的なレイトマジョリティーであり、あまり興味もなくてお金も使いませんでした。そういう自分が、スマフォやタブレットの情報を夢中で集めて、少ない小遣いを必死でやりくりして、最新のデバイスを買い集めているとは想像もできないでしょう。「アップルがネットにつながるモバイルデバイスを出して史上最大の時価総額の企業になる」という予測は、説明の仕方によっては受け入れてくれるかもれませんが、「2012年には、他ならぬお前自身が、最強のアップル信者になっているのだ」という話は絶対に納得できないと思います。

アップルはiPhoneによって、私を含む多くの消費者の価値観やライフスタイルを大きく変えてしまったのです。そこにアップルの利益の源泉があるのだと思いますが、その影響をモロに受けた今の自分を10年前の自分が理解することは難しいでしょう。

逆に言えば、「消費者として自分の価値観は、これからも大きく変わり続ける」という予測は、ほぼ間違いなく当たると思います。

現代の経済は、消費者の価値観を変えるようなイノベーションを起こさない限り、企業が大きな利益を得ることは難しくなっていて、お金というものは、それを常に要求するからです。そして、グローバル経済の拡大で、発展途上国からそこに参加する若者の人数は増え続けています。そして、イノベーションのほとんどが次のイノベーションを連鎖的に起こすような性質を持っているからです。

たとえば、スマートフォンを見て、あるいはツィッターを見て、最初に自分がそれをどう使おうとするのか、ということはあまり重要ではありません。

そうではなくて、世界中で一番野心的で一番頭のいい若者が、それを見てどう思うかが重要なのです。私の価値観を変えるのは、そういう若者であって、スマートフォンやツィッターではありません。いつの時代も元気のいい若者はたくさんいますが、イノベーションというのは、そういう若者たちにとって大きな力になるでしょう。そういう若者が世の中の主流に与える影響力が拡大し続けているのです。

もちろん、若者といっても大半は、私とたいして違いがないことしか思いつかないでしょう。そういう人に多くのお金が流れこむことはありません。私には思いつかないような、私が絶対認めたくないような、とんでもないことを考える若者が例外的にいて、その中にさらに例外的に大成功する人がいて、そういう人の所に大きなお金が流れこむのです。

お金の方が、そういう若者を欲していて、何としても探し出す勢いなので、ほぼ確実にそうなります。

これは、パソコンやネットの出現以来、ずっと加速しつつ継続しているトレンドですが、これが、ここ二、三年で、一つの閾値を越えたように感じます。それは、一般の人の人生設計や社会制度のあり方について、このトレンドの影響を無視することができなくなったということです。

たとえば、テレビは人類にとって実に大きな発明で、社会や経済を大きく変えたと思いますが、その変化は個人の一生に対しては無視できるような速度で進行しました。1960年代にテレビ関係の職についた人は、自分が入社時に予想したようなキャリアパスで職業人生を送って、無事定年を迎えたでしょう。

しかし、2000年代にネット関連の仕事についた人が、今予想しているようなキャリアパスで定年まで過ごせる見込みはほとんどありません。彼の人生は、これから起こるイノベーションに大きな影響を受けるでしょう。おそらく彼の人生では、「ワークシフト」に書かれている「専門技能の連続的習得」という、彼の両親の人生にはなかった要素が大きな意味を持つでしょう。

あるいは、私は、これから「節電」に関するイノベーションが大きく進むと予想しています。全ての電源スイッチがそれぞれCPUやセンサーを持ってネットにつながることは確実ですから、そこに大小さまざまなイノベーションが起こることは間違いありません。凡庸な私に思いつくことは、家庭内で無駄な電気を使っているスイッチは全部自動的に切られるということくらいですが、「元気な若者」たちが競争で、もっとすごいアイディアでドラスティックな節電の方法を考え出していくことでしょう。

長期的なエネルギー政策を考える上で、「元気な若者が何かとんでもないことをしでかして」削減される電力消費の減少分を考慮すべきである、ということは、私にとっては当然のことと思うのですが、一方で、「では具体的に何がどうなって減るのか内訳を出せ」と言われたら、「それは私ではなく将来のイノベーターの考えることであって私にはわかりません」と答えるしかありません。

今はまだ、具体的な見通しのないまま長期的なエネルギー計画をたてるのは無責任だというのが一般的な考え方ということになっています。イノベーションを未来予測に組み込んではいけないことになっているからです。

しかし、ある時点で、イノベーションというものは、社会や経済を考える上での基礎的な原理とみなされるようになって、見通しのない電力消費の削減を元にエネルギー需給計画をたてることがあたり前になると私は思います。

このような意味で、イノベーションが社会の通奏低音となりメインストリーム化しつつあるのだと私は思います。

しかし、仮にイノベーションが常識になるとしても、「消費者の価値観や常識を変える」というイノベーションの本質は変わりません。「予想できないことだけが確実に予想できることだ」というような、ほこ×たて的な常識の転換が起きているのです。



一日一チベットリンクチベットが迫害されてるので、行った時の写真をうpする : はれぞう

2012-11-28

非常用発電機を移設しなかったのは単純で明白な重過失

大規模なプラントは多くの機能が相互に複雑にからみあっているものだ。だから、包括的、システム的な観点が重要で、一箇所だけに注目してモノを言ってもたいてい的外れになる。また、理論と実際は違うので、長い経験で蓄積された工学的な視点がないと、その分野の専門家であっても適切な批判はできないものだと思う。

しかし、原発の冷却機能が停止した時の挙動は、例外的に単純だ。

使用済み燃料が発する崩壊熱の熱量は、原子核の反応なので、攪乱要素がほとんどなく相当な精度で事前に予測できる。つまり、全電源遮断から何分でメルトダウンするかは、難しいことをあれこれ考える必要がなく、単純な方程式で確実に予想できることだ。

ということは、原発の発電機が止まるというのは、直感に反して大変な事態であり、これにかかわる問題は、他の何を置いても早急に対処すべきことである。

福島第一は、地震や津波がないアメリカの設計を流用したので、非常用発電機が低い位置に設置されていて、その問題は、事前に指摘されていた。

この人が特別慧眼だったということではなく(告発した勇気は多いに評価すべきものだが)、多少の知識があれば誰にでもわかることである。

それで、問題は、この「わかっていてもやめられない」という組織の病弊は直っているのかどうか。

こういう技術的な正論をしつこく言う人は、「空気が読めない」としてどこでも嫌われる。私はソフトウエア技術者として、嫌われないように細心の注意を払ってきたからよくわかる。空気が読めないコンピュータや空気が読めない原発の代弁をしたら、たいてい、工学的な問題ではなく技術者の人間性の問題にされてしまう。「空気が読めないのはオレじゃなくてコンピュータだよ。プログラムは書いた通りにしか動いてくれないんだよ」という言葉を飲みこんだことが何度もあったから、黙ってしまう技術者を責める気にはならない。

だから、日本の原発にはこういう問題が(当然もっと複雑で素人には見えない問題が)他にもたくさん残っていると思う。戦艦大和から地デジまで、ずっと同じことをやっているので、これが簡単に変えられるとは思えない。

原発以外は、失敗を重ねながら、長い時間をかけて少しづつ組織やマネジメントを改良していけばいいと思うのだが、原発もそうするしかないのだろうか?



一日一チベットリンクチベット族、また抗議の焼身自殺…今月21人に : 国際 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

2012-11-27

原発稼動するしないではなくて事故の責任明確化を争点にしてほしい

食中毒でも責任者は処罰されるんだから、原発事故の責任を取る人がいないのはおかしい。

責任を取らなくていいならやることを変えられるとは思えないので、それを前提にするなら、現実的な比較は、脱原発か次の原発事故かどちらを選択するのかという話だと思う。

どちらにしても経済は滅茶苦茶になるが、事故で滅茶苦茶になるのは経済だけではないので、その比較なら脱原発の方がまだマシだと思う。

私は、3.11後しばらくは、「自分は数年後餓死するのかもしれない」と考えていた。原発を止めたら経済が破綻して、自分の仕事はなくなり、文字通り食えなくなるかもしれないと思った。それでも原発は止めるしかないだろうと思った。議論するまでもなくやがてそうなると思っていたが、幸か不幸か、その予想ははずれた。自分が普通と思うことが、世の中からとんでもなくズレていた、ということは何度も経験があるが、今回は特にそれを痛切に感じた。

しかし脱原発も空論だが、「責任者が処罰されてないのに次の事故を起こさない」というのはもっと空論だと私は思う。そういうことを真面目に言う人は、大きな組織で働いた経験がないのではないか。

手続きでなく結果の責任を責任者に取らせなければ、組織は必ず内輪の論理や惰性で動くものだ。

福島第一の事故は最悪の事故ではない。いくつかの幸運が重なって、あのレベルですんだのだ。次は悪い方の偶然が重なるのかもしれない。そして、今のままでは次の事故は必ず起きるだろう。

だから、次の選挙では、「事故の責任者を明確にして処罰する」ということを公約にして、その具体的な手順や方法を争点にして競ってほしいと思う。



一日一チベットリンクダライ・ラマが国会内で講演 安倍氏にスカーフ 中国は案の定反発 - MSN産経ニュース

2012-08-26

異端エリート層を育てる「異端中間層」の厚み

私が、いじめがなくても学校からもう逃げ出した方がいいというエントリで一番言いたかったことは、「人と同じ道を歩む」ことに与えられてきた暗黙のインセンティブを意識しよう、ということです。

図にするとこんな感じです。

f:id:essa:20120826214813p:image

大量生産の製造業が経済の推進力で、それが社会のパラダイムを支配していた時代には、この「正統派中間層」を手厚く支援して、そこに周辺の人を引きこむことは正しい戦略です。

この丸から大きくはずれた人は余分な苦労を強いられますが、日本全体の経済力が向上すれば、その恩恵が回ってくる側面もありますから、国の政策としては間違ってなかったと言えるでしょう。

問題なのは、これが意識的、明示的に国策として行なわれたのではなく、たまたま国民性と経済のニーズが一致したことで、誰もが意識しないうちになんとなく、自然にそうなったということです。無意識的に行なわれたので、かえってその分だけ強力に推進されたのかもしれません。

うまく行っているうちはいいですが、環境条件が変わった時に、舵を切り直すことができません。傾斜配分にはトレードオフがあるはずですが、そのマイナス面を意識するのが難しい。

実際、今は、組織力や地道な改善よりは、リーダーのビジョンや価値観の組みかえが企業の命運を決する時代です。情報の流通速度が速いので、過去の成功例があっというまにレッドオーシャンになります。

こういう時には、中間層よりリーダー層の役割が大きく、独創性、創造的破壊といった異端的才能が求められています。図にするとこうなるでしょう。

f:id:essa:20120827091327p:image

史上最も独創的なリーダであるスティーブ・ジョブズに率いられたアップルの株式総額が、史上最高となったことが、この象徴ではないかと思います。

アップル時価総額、史上最高の49兆円:日本経済新聞

教育や社会的投資もこのエリアに重点を移すべきであり、そのことは少しづつ認識されつつあると思いますが、ここで二点問題があります。

  1. 異端の才能は正統派の才能より事前に評価することが難しい
  2. 正統派中間層から異端中間層への反発が激しい

その結果、これから国を担うべき「異端エリート層」へのキャリアパスが下の図のように、一方向に制限されてしまっているのではないでしょうか。

f:id:essa:20120826214811p:image

つまり、価値観や方法論が確立した正統派の領域で結果を残せた優秀な人は、道をはずれ「やんちゃ」なことをしても許される、しかし、目に見える結果を残せない人が違う道を行くことには、社会全体から極めて強い圧力がかかる、ということです。

「異端エリート層」を直接的に支援しようとすると、実質的には「正統派エリートの異端派への横滑り支援」となってしまうかもしれません。

また、正統派中間層にはわかりやすい市場価値がありますが、異端派の場合は、中間層では意味がなくて、人より飛び抜けたエリートにならないと評価が得られない。

ですから、私は、今後の教育や投資のインセンティブの中心を、次のように「国力の中心」から意識的にずらして「異端派中間層」をメインのターゲットとすることが必要だと思います。

f:id:essa:20120827113150p:image

つまり、「成功したジョブズが欲しいなら失敗したジョブズを受け入れよう」ということです。「失敗したジョブズ」はあの性格の悪さや独善性を考えると、ちょっと一緒に仕事をしたくないタイプですが、実際のジョブズもアップルに復帰して成功する前は典型的な「失敗したジョブズ」でした。

「この失敗したジョブズは将来本当に成功するのか?」と問うのではなく、「この失敗したジョブズは他のジョブズと違うのか?」と問うのです。失敗したとしても人と違う失敗であり本気の失敗であれば、社会全体としては必ず将来見返りがあります。

現代の経済活動は、広義の知識への依存を深めています。知識の生産というものは、本質的に予測不可能で試行錯誤が不可欠なものです。予測できるのであれば、それは創造ではなくてコピーです。確実な成果を求めると新しい知識は得られません。

「異端派中間層」への支援は、「正統派中間層」へのそれと違って、大半が何も生まないムダ金になるのですが、当たった時に見返りは大きく、波及効果も大きいので、トータルとしての収支はプラスになります。イノベーションの本質を押さえていれば、そういう知識の性質に基いた国家戦略は可能ではないかと思います。

具体的にどういう政策が最適なのか、教育改革なのか投資ファンドの育成なのかコンテンツ振興なのかセーフティネットの充実なのか、これら全部が重要なのか、それは私にはわかりません。そういう知識や能力はありません。

でも、プラスの政策を進める前に、これまでの「正統派中間層」への直接的な支援を見直すことが必須だろうとは思います。あるいは、具体的な政策の変更より、意識改革の方が急務なのかもしれません。

「異端エリート層」が厚みを持って育たない限りは、日本に利益率の高い産業は育たず、近い将来食料が買えなくなって飢え死にする、その為には、歯を食いしばってでも無駄飯食らいの「異端中間層」を社会全体で養う、という覚悟が必要です。この層に人を呼び込めるかどうかが国力を決定すると私は思います。

そして、個人のレベルでは、「正統派中間層」向けインセンティブへの、自分の期待を意識して再評価する必要があると思います。

つまり、「いい子にしていればいい子にしていることそのものによって自分は評価され見返りを得られる」と考えている自分を発見することです。これは、不変の真理ではなくて、日本が特定の環境条件にあったことによって成立した一つの流行りでしかありません。

正統派の人材が活躍する場が一切無くなるということではありません。しかし、インセンティブ(の有形無形の原資)が消えた分だけその領域の競争も厳しくなるので、値っからの正統派でないと成功するのが難しくなるでしょう。今までは、本当は異端派であっても猫をかぶって正統派のフリをして、インセンティブのおこぼれにあずかる方が個人としては合理的な戦略でしたが、それがなくなると私は予想します。

これからは、無意識に行なってきた意思決定を意識的に調整していかないと、残念な思いをすることがだんだんと増えてくると思います。


一日一チベットリンク焼身続くチベットにテーマパーク建設?  WEDGE Infinity(ウェッジ)