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2016-01-05

よつばとえいえん

 

 先日、二年半ぶりに発売された『よつばと!』最新刊13巻を読んだ。

 

 

 刊行ペースは遅いが、雰囲気を乱さないように徹底されているのが、この作品の特徴である。

 十年以上前に始まった作品だが、我々は年をとっても、よつばは年をとらないのだ。

 

 この13巻の見どころは、子供特有の「ぐずり」の場面だろう。

 

 今年の正月休みでも「帰らないでー」と駄々をこねる子供たちが全国にあふれていたと思う。

 しかし、当の子供たちは、やがて自分たちがぐずっていたことも忘れるようになる。

 

 はたして、よつばが「ばーちゃん」との別れでどんな言動をとったのか。

 連載スケジュールから解放された『よつばと!』ならではの、演出の巧みさが光るシーンである。

 

 さて、この場面で、よつばが「えいえん」という言葉を口にしている。

 具体的には、第89話の11ページ目。

 

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 思い返せば、我々も子供の頃は「えいえん」を信じ、「えいえん」を恐れたものだった。

 遠足の前日はなかなか眠れなかったし、旅行のときは永遠に帰らないでと願ったものだ。

 子供だけではない、ほとばしる情熱で恋愛をしている人は互いに永遠の約束を交わす。

 大人になるということは「永遠」を信じなくなることかもしれない。

 

 話を少し変える。

 この年末に、年甲斐もなくサリンジャーが読みたくなって、新宿に繰りだしたとき「永遠」という文字を目にした。

 それは黄色い背景に黒い文字で書かれた、キリスト教看板である。

 

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※参考画像(Hyenasclubsより借用)

 

 キリスト教徒にはおなじみの聖書の警句が書かれていて、録音された牧師の説教が延々と流される、クリスマス前後から年末まで続く、繁華街の風物詩だ。

 僕が見たときは、メガネ白人が看板を持っていた。

 この寒空の下、けっこうなことである。

 

 これらの行動がキリスト教普及に役立っているかどうかはさておき、このキリスト看板で引用される「永遠」の語句が出てくる聖書の一節は、次のとおり。

 

信じる者は永遠の命を得ている

 ――新約聖書「ヨハネによる福音書」6章47節

 

 ここでいう「永遠の命」というのは「不老不死」とはちょっと違う。

 

 そもそも、旧約聖書には死者の世界というのが存在しない。

 一神教だから死者の神がいないからである。

 だから、かつてのユダヤ教正統派(サドカイ派)は魂は肉体とともに滅ぶとした。

 しかし、民衆の支持を得ていたファリサイ派は魂が不滅であると説いた。

 いわば、民衆の願望によって、魂は不滅でなければならなかったとされたのだ。

 

 もし、魂が不滅であるならば、死後、魂はどうなるのか?

 その疑問から提案されたのが「陰府」である。

 地中深くに死後の魂が眠っている世界があるというのだ。

 この概念は旧約聖書の初期作品群には書かれていない。

 中東やエジプト、そしてギリシャの神々の影響を受けて、ひょっこりと生まれた概念である。

 

 そこから、キリスト教では「最後の審判」という概念が生まれる。

 キリストが降臨して、すべての魂が裁かれるというものだ。

 そのとき、選ばれたものが「神の国」だか「天の国」だかに行くことができる。

 

 これが【キリスト降臨のときに選ばれし者は天国に行って永遠の命を得ることができる】という考えである。

 キリスト教は「信じれば天国に行ける」という宗教と思っている人も多いだろうが、そう甘いものではない。

 最後の審判であるキリスト降臨がなければ、人間は天国(神の国)に行くことはできないのだ。

 

 このような神学を打ち立てたのが、新約聖書の多数の手紙が収録されている伝道者パウロである。

 このパウロ書簡とされているものの中に、非常に有名な一節がある。

 

わたしたちは「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました

  ――テサロニケの信徒への手紙二 3章10節

 

 「働かざる者食うべからず」の警句は新約聖書が由来である。

 それが生まれた経緯がなかなか面白い。

 

 この「テサロニケの信徒への手紙二」は、その前に書かれた「テサロニケ信徒への手紙一」を補足する目的で書かれている。

 というのは、手紙一でパウロは高らかにこう書いているからだ。

 

主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません

  ――テサロニケの信徒への手紙一 4章15節

 

 パウロはキリスト降臨(裁きの日)が自分の生きているうちに来ると確信していた。

 しかし、パウロは謙虚にも、その日が来ても死者の魂を優先するから、我々は焦ってはならないと説いたのである。

 なお、パウロはローマ皇帝ネロのキリスト教迫害で殺されたといわれている。

 紀元65年頃であり、今から約2000年前の話だ。

 

 ともあれ、パウロは積極的に「裁きの日は近い」と民衆に説き回った。

 今の言葉でいうと「まもなく世界の終わりが来るが、神に選ばれた者は永遠の命が得ることができる」となるだろうか。

 こうして、パウロが作った教会が信者数を増やしていくが、困ったことが起きた。

 

 キリスト降臨が近いのならば、無理して働かなくてもいいじゃないか、という怠惰な人たちである。

 20世紀末には、ノストラダムスの大予言という、根拠のない終末論が流行したが、そのときも「世界が終わるのならば、真面目に生きるだけ無駄だ」と公言する者たちがいた。

 そんな怠惰な信者ばかりが増えてしまえば、教会の経済はやっていけない。

 初期キリスト教会には国家の後ろ盾がないから、その共有財産は信者自身が稼がないといけないのだ。

 

 だから「働かざる者食うべからず」という警句が生まれた。

 世界の終わりは来る、でもいつ来るかはわからない。

 だから、そのとき救われるのを信じながら、日々働いてがんばろう。

 世界の終わりを待ちわびるだけの怠け者には、食べ物をわけてやる必要はない。

 イエス・キリストは誰にもわけてやれといったが、そんなことをしたら士気が下がるから仕方ないのだ。

 というふうにして、キリスト教徒は2000年、キリスト降臨という名の世界の終わりを待ち望んでいる。

 

 ちなみに、この警句が書かれた「テサロニケ信徒への手紙二」はパウロ自身の手ではなく、後世の偽作であるという説が根強い。

 「働かざる者食うべからず」と怠惰な信者に説教する根拠として、パウロの権威を利用したという説である。

 その真偽の分析はマニアックな内容なので省略するが、ともかく、世界の終わりを待ち望むだけの信徒が増えたことに、初期キリスト教会が危機感を覚えたのは事実であろう。

 

 話を「よつばと!」に戻す。

 我々は子供のころ、永遠を信じるのと同じように、世界の終わりを恐れていたものだ。

 これは、宗教観に関係なく、人間ならば誰もが持っているものだと思う。

 心理学だと「集合的無意識」となるだろうか。

 同じように、我々は安易に神にすがりついたものだ。

「おやつを我慢しますから、お母さんに怒られないようにしてください」

 子供の考える世界とはそのようなものである。

 

 古代のユダヤ人が願った「永遠の命」はどうであろう。

 ユダヤ人の支配者は次々と変わった。

 アッシリア、バビロニア、ペルシャ、マケドニア、エジプト、シリア、そしてローマ帝国である。

 支配者が代わるごとに、彼らは略奪されるだけでなく、自分たちが守ってきた先祖代々の風習を禁止される恐怖におびえた。

 自分の文化を守ることが、人間にとっての正義であるからだ。

 だが、自分たちはあまりにも無力で、神に祈ることしかできない。

 その背景から、キリスト教がいう「最後の審判」とか「主の日」とか「キリスト降臨」という概念が生まれた。

 つまり、時代に左右されない絶対正義を信じたかったのである。

 

 「よつばと!」はのらりくらりと新たな物語を紡いでいく。

 たぶん、未完成であることが、もっとも大事なものであるかもしれない。

 「小岩井よつば」という少女には、もともとモデルがいたかもしれないが、連載から十年たったとなれば参考にすることはできない。

 それでも、漫画の中のよつばは少しばかり成長しながらも、我々に永遠の日常を見せてくれる。

 

 永遠を望む背景には終末観がある。

 思春期に誰もが「世界の終わり」を妄想しただろうが、それもみずからの「永遠」を願っていたからだ。

 仏教にも末法思想がある。鎌倉時代には、現在につながる新たな仏教が日本でも生まれた。

 今回はキリスト教を中心に語ったが、同じような内容は日本仏教でも語れるのかもしれない。

2015-11-26

追憶の名古屋

 

 仕事で名古屋に出張中である。せっかくの機会なので「飲みに行くぞ!」という同僚の誘いを断り、追憶に浸りながら、名古屋散策をしてみた。

 

 かつて、僕は名古屋に来た。クズ時代の頃である。どれぐらいクズだったかというと、

 

(1)大阪の兄貴の家から逃げ出して、無一文になって、

(2)即日でできる派遣の仕事を探したら、トヨタ車体のライン工になって、

(3)研修ののち、トヨタ車体いなべ工場で働くものの、一週間で逃げ出して、

(4)名古屋に着いて無一文になって、錦(という繁華街)のキャバクラで働くものの、一週間たたずに逃げ出して、

(5)東京の元職場に土下座をして戻るものの、半年ぐらいで逃げ出す

 

 ちなみに、これは概略というものであって、詳細を語れば、シャレにならないクズになるので省略。

(武勇伝のつもりで書いたのではない)

 

 さて、(4)のキャバクラで働くようになった経緯は、名古屋テレビ塔の下にあるセントラルパークの「もちの木広場」という吹き抜けのレンガ作りの場所でオッサンに声をかけられたからだ。

 ツイッターではホームレスのオッサンと書いたが、よく思い出してみると、日雇い労働者を募集するために声をかけていた人だった。

「兄ちゃん、昨日もここでおったけど、なにしとるん? 仕事せんか?」

 そのオッサンに「あー僕、こういう経緯で名古屋に来たんですけど」と、自分の来歴をしゃべっていると、オッサンはあきれかえって、こう言ったのだ。

「じゃあ、風俗関係の仕事せえや。寮ついてるところあるから」

 なるほどそうかと納得したものの、さすがに風俗はレベルが高すぎるので、キャバクラの仕事を無料求人誌で見つけて、とりあえず行ってみて即採用された。

 寮つきとは言われたものの、すぐに部屋を貸すわけにはいかないと言われたので、しばらく野宿だった。たぶん、ネットカフェに泊まるお金もなかったはずだ。

 そこで、一緒に入った同僚が、なかなか面白かった。

「おまえ、フィリピン人と結婚せんか? 籍入れるだけで、一緒に暮らさんでええから。そうすれば、20万円もらえるで」

 つまり、20万円で戸籍を売れ、というような話である。こういう誘いは底辺じゃないと味わえない。

 さすがにその誘いは断ったものの、僕にキャバクラ仕事ができるはずもなく、またもや逃げ出した。

 僕にとって名古屋とはそういう街である。

(ちなみに、僕は名古屋弁というのがわからないので、関西弁っぽく書いている。実際の口調とは異なる)

 

 そんな僕が今回ひそかに行きたかったのは「オアシス21」

 バスターミナルに、店や広場がある空間である。

 以前は自分のクズさには似合わないと足を向けなかったのだ。

 

 この「オアシス21」の屋上は「水の宇宙船」という水のしたたる散歩道。

 タダで行けるわりには良い場所である。名古屋に行ったらぜひ。

 ただし、名古屋城は見えない。

 エレベーターと階段で行けるが、エレベーターは事実上カップル限定であろう。男一匹で来る愚か者は階段を使わなければならない。良い運動になる。

 

 その下では、ちっちゃいスケートリンクがあって、今日はその特設ステージでアイドルがコンサートをしていた。

 毎週木曜日の19:00〜19:50までのライブで、なんと今日が初日だという。

 このライブ、別にチケットを買わなくても見ることはできる。横からも後ろからも。

 じゃあ、チケットを買って見ている人はバカなのか? バカである。その証拠にサイリウムを振り回し、ヲタ芸に励んでいる。

 そのアイドルの歌声やパフォーマンスは、ステージの外からでも十分に味わえる。つまり、チケットを購入するのは、そのアイドルを見るためではなく、一緒に踊るため、そして応援するためのものなのだ。なかなか面白いビジネスモデルである。

 客は30人ぐらいだろうか。熱心に叫んでいた。PPPHとかやってた。

 調べてみると「dela」という名古屋アイドルユニットのようだ。

 僕が見たかぎり8人組と見えたが、ウェブサイトによると9人組らしい。

 ともあれ、一週間に一度の定期的パフォーマンスの機会があるのは良いことであろう。

 言うまでもなく、ユニゾンで歌っているので歌唱力もクソもないのだが、ダンスはがんばっていた。これを学芸会レベルという人は目がおかしい。

 ライブが終わると、別場所に移動して物販かサイン会かをやっていた。

 名古屋のアイドルヲタクは、これから2月まで、週に一回のライブが楽しめるわけだ。良い話ではないか。

 

 ちなみに、僕は近くのマクドナルドで、チーズバーガー2個とポテトSとホットコーヒーSを買って、ステージに近いテーブルに座って、パクパク食べながら見ていた。

 オアシス21には、テーブルが多く置いてあって、勉強したりしている人も少なくなかった。彼らはアイドルライブにも負けずに、勉強したりおしゃべりをしていた。

 うちの街にもこういうスペースがあったらいいなと思うのだが、わざわざ出かけるほどではないだろう。これからどんどん寒くなるし。

 学生時代だったら、ここで小説一本書いただろうと思う。地方アイドルのライブを聴きながら、マクドナルドのチーズバーガーをかじって書いた小説。読む価値はなさそうだが、書く分には楽しそうだ。

 

 ということを、栄(という名古屋の中心街)のネットカフェで書き連ねてみた。

 

 

2015-09-14

はがない最終巻が俺の二次創作に比べてクソだった理由を、各ヒロイン別に検証してみる

 

 

 前巻から1年2カ月の期間をおいて発刊された、シリーズ最終巻『僕は友達が少ない11』は、不満というより呆れ返る内容だった。

 

(1)幸村と付き合うようになった小鷹に、星奈はあっさりと引き下がり、

(2)友情にこだわっていた夜空は、星奈との友情を特に発展させず、

(3)カノジョを持った小鷹と理科との友達関係は日常に埋没し、

 

 小鷹が高校卒業するまでのエピソードが特に盛り上がりもなく羅列されているだけなのだ。これは小説ではない。

 

 はがない最終巻の各章タイトルには、卒業式までのカウントダウンがある。

 まるで夏休みの日記をまとめて書く子供と同じ心境である。

 小鷹を卒業させるべく、原作者は1年3カ月分の行事を設定し、それを律儀に時系列順にまとめて書いた。

 結果として、達成感に満たされた原作者と、途方に暮れた読者が残った。

 

 ところで、最終巻が出るまでの1年2カ月の間に、僕は隣人部の結末を描いた二次創作を書いた。僕なりに『はがない』シリーズにケリをつけたかったのだ。

 

・僕達の友情は儚い

http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=5798186(pxiv)

http://d.hatena.ne.jp/esu-kei/20141123/p1(はてなダイアリー内・全13回)

  

 原作最終巻が出たことで、その二次創作はお役御免だと思ったのだが、原作のあんまりな出来に驚き、改めて自分の二次創作を読み返すと、原作最終巻よりもマシだと感じた。

 少なくとも、僕が書いた二次創作のほうが、読者の満足がいく『はがない』シリーズの結末ではないかと。

 

 今回は、原作最終巻と僕の二次創作での各ヒロインの行動を比較することで、原作最終巻がいかにクソだったかを検証してみる。

 個人的見解全開の記事なので、ご了承を。

 

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2015-09-13

はがない二次創作のタイトルを以前のものに戻しました

 

 

 2014年11月、僕は作者が「隣人部の結末」を書きそうにないので、『僕は友達が少ない10』(ラノベ)の続きを書いた二次創作を公開しました。

 

 さて、2015年8月、作者がやっと、最終巻である11巻を発表したことで、僕の二次創作はお役御免になるかと思いましたが……。

 

 何が「いい青春だった!」だよ、バーカ!

 

 あまりにもヒドイ内容だったので、自分の二次創作を改めて評価した次第です。

 

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2015-08-27

エンドレス・サマー(4) (涼宮ハルヒコの退屈II)

 

【これまでのあらすじ】

 

 小学生のイツキに告白したという35歳ロリコン男性(フリーター)のフジさんは、キョン子たちに熱弁する。

 やがて来る戦争について。偽りの少女美を描いた物語が氾濫していることについて。

 しかし、それは世間知らずな女子高生のキョン子にも、あまりにもうすっぺらい発言ばかりだった。

 たまらずに反論するキョン子たちに、35歳のフジさんは見苦しい答えを連発する。

「大人には大人の事情があるんだよ!」

「オレ、なにか間違ったこと言ってる?」

 そんな性犯罪者予備軍のクズ発言に気を奪われたあまり、不覚にもキョン子は自分が良く知る少年の眼差しを意識することはなかった。

 そして、その少年がさらなる厄介事をキョン子たちにもたらしたのだが――

 

 

【エンドレス・サマー 目次】

 

(1)「キョン子ちゃんに社会勉強させなくちゃ」

(2)「ロリコンには二種類しかないのよ」

(3)「国を守ると叫ぶより、まず自分の街を守れ!」

(4)「団長と部長ってちがうの?」

(5)「SOS団の団長がすべきことは、ただひとつだ!」

(6)「どうして、あたしと仲良くなったの?」

 

 

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