白鵬の父ムンフバトさん(64)は2500年の歴史を持つモンゴル相撲の大横綱だ。勝っておごらぬ謙虚さと礼儀正しさはこの父譲り。伸びしろは大きい。エンフボルド首相もモンゴル場所のような千秋楽を楽しんだ。日本の土俵で活躍するチンギス・ハンの末裔(まつえい)は34人。直行便で4時間半とモンゴルは近い。
なんかもうめちゃくちゃ。コラム子、内モンゴルの歴史とか知っているのだろうか。
議論がまったく整理されていない。
ぶくまで見かけた⇒アンカーの下線を安易に消すのはやめませう
これは、れいの、闇黒さん? にしては、なんかすっきりとしない理屈のように思えるが。
アンカー下線はblockquoteのインデントなんかと同じという理屈にはならないの。
デフォのスタイルは、WAIの問題でしょ。
ってことは、HTMLとCSSがきちんとなっていれば従属的な問題というだけのことではないのだろうか。
ぶくまから⇒Cプログラミングの秘訣
よくわからん。記法については、私たちの世代はK&Rでしょというだけでは? っていうか、このあたりは、整理するプログラムに任せたらいいのでは。
おまけ⇒はてなブックマーク - ウィトゲンシュタインに学ぶプログラム言語の本質
なんか、これ、ものすごいこと書いてある。
ぶくまがいくつか付いていたが。
⇒古典ギリシア語入門 2004年度版
そんなに教本はいらないと思う。その分、活用形とか覚えたほうがいいでしょと思うけど、忘れた私がいうのはなんだが。
ぶくまのページだが、コイネーと古典ギリシア語の違いが明確になってないので、聖書を読みたい人には別の指針があったほうがいいでしょう。これを言うとなんだけど、聖書の翻訳はどれも決定的というのはないなと思っている。英訳も含めて。どうしても教義の影響を受けてしまう。今だに気になるのはロマ書。これは一度私訳を出したい気もするがそんな力はもう私にはないか。
基本的に日本人のレベルでギリシア語を学ぶというのは古典を対訳で読む補助くらいなものでしょ。
余談だが。
私みたいな若い頃2年くらしか古典+コイネーのギリシア語を学んだことのない人間でも、アテネの町とかそれなりに親しみ深く思えた。あの文字に慣れておくといいのでしょうね。現代ギリシア語はスラビックの影響を受けてだいぶ変わっているみたいだけどっていうか現代ギリシア人って以下略理由筆禍予防。
これ⇒304 Not Modified: 目を合わせて会話ができない人達
タイトルにそそられて読むと、Eye Contactの話ではなく、比喩であった。ブログのエントリに直接応答しないとかいうことだろうか、よくわからん、というか、そのことはさして関心ない。
Eye Contactについて、ときたま考えるので、そういう話を日本人がするのかなと思ったのだが、違う、と。
日本人は文化的な特性からEye Contactをしない。
さらに、私など、shy manはEye Contactなどするはずもない。
ただ、私はこれの訓練を受けたことがあるというか、それ以外にも、英会話に付属する部分があるので。
で、と。
とか書き出してやばげなので急激に書く気が萎えた。
モテテクにEye Contactってあるだろうか。どうなんでしょうね。
追記
モテテクにあるそうだby栗先生
⇒「俺」のターン - アイコンタクトはモテクにあります
ちょっと違う気もするけど、ま、そういうことで(ちなみに、違いは、最初の3秒で相手を捕まえてあと2、3秒ホールドさせることなんだけど……)。
現代の状況に合わせた国家論というのはどっかで展開されているのだろうか。
よくわからん。
ネットを見回して、たぶん、自分より若いんだろうなという人たちの国家論議論は、あまりマルクス・レーニン主義をふまえてないような気がする。そのあたりの奇妙な欠落感というのはなんだろ。
ふと、本質論と機能論の差かとも思った。
例えば、味噌とはなにか、味噌とはしょっぱいものである。って言えば、面白くない、ほぼ間違った機能論だが、国家とは暴力の独占体であるとかがそれと同じっていう感性は働かないのだろうか。ってか、レーニンとか読まれてないのだろう循環以下略。
先日、国家論関係で、吉本隆明の共同幻想論と廣松渉幻想の共同体というのは、どういう差異があったのか、きちんとした考察というのも読んだことがないな。どっちも、ヘーゲリアンがベースでガチに展開しているので差異の抽出は難しいものでもないのだろうが。
確か吉本隆明は廣松渉をマッハ主義と批判してことがあったように思ったが、あれは大森荘蔵への批判からの援用だったか。
ぼんやり昔のことを思い出すと、廣松渉は性の問題を扱ってなかったように思うので、そのあたりがよりヘーゲル的といえばそうなのだが、おかげでエンゲルスのような短絡に近いものにはなったのだろう。ヘーゲルってよく読むと意外に性=家族を捉えている人でもあると思うが、勉強しなおすのは難儀だな。
ヘーゲル・マルクスにも限らないのだが、彼らの時間概念、自然概念というのは、時間でもなければ自然でもないので、よりプロパーな歴史で見ていくとそれってありえないってばさではある。あれは、一種の説明装置としての時間・自然なんで、現実の歴史とかとはほとんど関係ない。ある意味で、言語起源論のようなパロディでもある。言語の起源とか言語の歴史とか考えるだけアホ臭いのだが、これらは西洋の文脈では説明装置として展開されているのであって、実際の歴史とか人類史とはまるで関係ない。
ま、国家論に戻って、いわゆる概念的な遊びに近いような議論は率直に言って関心がもてないほど自分がぼんくらになりつつあるんで、例えば、韓国と北朝鮮民主主義人民共和国が同一の民族国家なのか、というケースの内部ですっきりモデル化された国家論とかが読んでみたい気がする。
追記・ヘーゲル学習2点
「ヘーゲル『精神現象学』入門講談社選書メチエ: 本」
「ヘーゲルの歴史意識講談社学術文庫: 本」