富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2016-01-14

農暦十二月初五。テレビで朝のバラエティ番組はSMAPSMAPSMAPで、だが解散で四人の独立は困難で元の鞘に収まる可能性も……とか、どのチャンネルも同じ話題のなかテレ朝のモーニングショーが原油価格下落での経済近況や日本の不況の可能性など解説で面白く見てゐたら同局のドラマの番宣で主役のSMAPの草𦿶君生出演は当然、解散騒動については一切触れず語らず。昼まで母と四方山話。先行の葬儀で500人の参列いたゞいたが、それから250回くらゐ葬儀に参列してゐるといふ。「香典は借金」といふ言葉もありとか。昼にJR駅で長野H氏迎へ駅ビルのインド料理屋で昼餉のあと駅南口にある葬儀場へ。大店のK書店社主の葬儀で末席汚す。H氏も親の代からK書店とはお付き合いありで来水。K書店は教科書販売扱ふ大店で(神式の葬儀なので経歴からいろ/\語られるが)お亡くなりになつたG氏は昭和3年生まれ、旧制水戸中学卒業後、戦時下で昭和20年に江田島海軍兵学校に入学。敗戦で郷里に戻れば8月2日の空襲で市街は焼け野原。K書店も焼失してゐたがリュックで本を仕入れて運び路上で本を売り始め西田幾太郎の『善の研究』を最初に売つたといふ。17歳だつたG氏は三男だつたが長男氏は同じ海軍兵学校卒して戦艦大和の主計長だつたが戦死。進学どころか父を助け書店の再建に努めたが2年後に二代目だつた父が急逝、19歳で大店書店の経営担ふことになる、まさに戦中、戦後の激動の人生。アタシが子どもの頃、家の向かひにこの書店あり、まさに文化の泉で地元の大学の先生や文人、子どもまで本といへば、この書店に集まり賑はふ。平成に入ると流通システム大きく変はり地方書店の営業は難しくなり、本店は閉業で今は駅ビルに。この書店でどれだけの本に出会つたことか。岩波と新潮の文庫本、保育社のカラーブックス、岩波新書……欲しい本が「つけ」で買へるのが商店街の強み。葬儀の間いろ/\懐かしむ。H氏を駅に送り水戸芸術館。「3.11以降の建築」といふ企画展(こちら)見る。3.11は建築家にとつて自分たちの造形物があゝも簡単に津波に流され核禍では建物はあつても立ち入り禁止。復興は建築家たちにとつて3.11を超へて何ができるか?といふ大きな挑戦になつたことが、この五十嵐太郎をキューレターとする展示でよくわかる。さらにその結果が津波に負けないやうな頑強な建物ではなく、壊れたらいつでも再生が可能なシンプルな建物とエコロジカルな暮らしであること。日暮れ。路線バスで駅に戻り駅ビルのK書店。額賀せつ子著『芸妓の今昔 水戸と太田の芸妓たち』入手。ポイントカードは?と店員に問はれ新規登録してみるとカードは蔦屋書店なのだつた。晩に母と妹とドルフといふ鉄板焼ステーキ屋に行く。畏友J君の父上に招待されホテルオークラのさゞんかの鉄板焼きがとても美味だつたこと、もう35年くらゐ前のこと突然思ひ出す。妹の車の運転でスーパー銭湯に浸かり帰宅して額賀せつ子『水戸と太田の芸妓たち』読む。これが少なくとも水戸二上りの金太姐さんのことを知る地元の物知りが書いたなら驚かないが著者は戦後、福島の生まれで水戸の看護学校を出た元看護師。看護歴史学会に属し戦時下の看護教育や女性史研究する中で東京の奥座敷といはれた水戸の花街のことに興味を持ち5年かけて調べたといふ。母は金太姐さんや美貌の妓「おもちゃ」姐さんの記憶があるといふ。やはりこの本の中には昭和14年の水戸の芸者衆による大陸慰問団の話で我が祖父の名前もあり。戦後、水戸の三業組合の理事長をするやうな花街に深く出入りする人だつた。水戸の三業地はとても賑はつたが昭和40年代になると、水戸の花街の一角が「特殊浴場禁止除外地区」になつたことで花街はトルコ街となり芸妓はコンパニオンになり艶っぽい花街の歴史も終はる。アタシはまだ夕方になると打ち水をした料亭の前をきれいな芸者衆がお座敷に向かふのを通りがかりに眺めてゐた最後の世代。