分裂勘違い君劇場 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2008-04-09

不運と理不尽に襲われたとき、うまく切り抜ける人と、逃げ切れずに酷い目に会う人の違い 09:58  不運と理不尽に襲われたとき、うまく切り抜ける人と、逃げ切れずに酷い目に会う人の違いを含むブックマーク  不運と理不尽に襲われたとき、うまく切り抜ける人と、逃げ切れずに酷い目に会う人の違いのブックマークコメント


不運と理不尽が襲ってきたときに、上手く対処できる人の多くは、不運と理不尽を食らい慣れている。


今までの人生で、あまりにも酷い不運と理不尽に徹底的に痛めつけられ続けてきたために、慣れっこになってしまっているのだ。

ベルセルクのガッツが理不尽なビンタを食らって、目に涙をためて「親父にもぶたれたことがないのに!」などと叫んで抗議するところが想像できるだろうか?


そういうタイプの人は、ドル箱商品や既得権益を持たず、競争にさらされた実力主義の会社の上層部に多い。

そういう実力主義の会社では、地位が上がれば上がるほど襲いかかる不運と理不尽の質も量も大きくなっていく。


客と仕様の凍結に合意し、開発がかなり進んでから、客が前言をひっくり返して、大きな仕様変更を無理矢理迫ってくる。それではスケジュールが大幅に遅れるというと、スケジュールは絶対に変更するわけにはいかないという。徹夜続きで意識がもうろうとする中、部下の1人が支離滅裂で荒唐無稽な被害妄想を抱き始め、仕事を放り出しただけでなく、ストーカーのように延々と電話をかけてくる。意味不明の要求をしてきて、要求が通らないなら自殺するという。もはや幻覚や幻聴まで聞こえるようで、筋道だった説得などまるで効かない。その部下の両親に電話して、なんとか引き取ってくれと言っても、両親も兄弟も他人事のようで、ちっとも動こうとしない。プロジェクトの中核メンバーが、病気になって寝込んでしまう。別のメンバーはいきなり会社を辞めてしまう。高い金を出して買った大手の会社のロードバランサーがバグだらけでサービスが落ちまくる。ロードバランサーの会社のサポートに電話しても、見当違いの頭の悪い回答が返ってくるだけ。ろくに技術力のない安い人間をサポート担当にしているのが丸わかりだ。そして、サービスの復旧を早くしろと、客が真っ赤な顔をして怒鳴り込んでくる。それにわをかけるように営業担当が、無神経なメールを客先に送って、客の不信感を募らせてしまう。それに気を取られている隙に、成果が出なくて年俸を下げられた部下が逆恨みして、他のプロジェクトメンバーに誹謗中傷をふりまいて、プロジェクトの雰囲気が最悪になる。足下をみてくる交渉相手。弱みにつけこんでくる協力会社。ヤクザがサービスに難癖をつけて乗り込んでくることすらある。大きな会社との有望な共同プロジェクトに、突然予想外の強力なライバル企業が、エグい接待などの寝技を使って割り込んでくる。

あらゆる予防策を入念に打っておいたにもかかわらず、それをかいくぐって、どうしょうもない不運と理不尽が次々に襲いかかる。


もちろん、道徳的にはそれらの不運の責任は自分にはない。本来なら、それらの災厄を引き起こした張本人たちに責任があるはずだ。

ロードバランサがバグだらけなのはロードバランサの会社が悪いはずだし、難癖を付けてきたヤクザに道徳的な正しさなどあるはずがない。

詐欺師や強盗に襲われたら、道徳的に悪いのは加害者であって、詐欺師に騙されたり強盗に襲われた被害者に罪があるわけがない。


しかし、自分が道徳的に悪くなかったことを証明したところで、なんら問題は解決されず、会社はどんどんヤバくなる。

だから、高い職位にいる人間は、それらの不運と理不尽を、全て自分で飲み込まなければならない。

当然、経営会議で責任を追及されて、自分が悪くなかったことを証明しようとしても、「それを何とかするのが、おまえの役割だろう!」と言われるだけだ。


そもそも、既得権益を持たない会社だと、会社自体が常に競争に晒され、大量の不運と理不尽に襲われ続ける。

経営陣はそれらを役割分担して処理していく。

しかし、それらの不運と理不尽は、役員だけで処理しきれないほど多い。

だから、会社役員は、それらの処理を担ってくれる人間を重要な地位に就け、地位にふさわしい不運と理不尽を負担してもらう。

こうして、会社の階層がつくられていく。


こういう会社の上層部のポジションは、恐ろしいストレスのかかる激務であり、不眠症、鬱病、自律神経失調症になることも多い。

その一部は、満身創痍になり、酷い心の傷を負いながらもそこからはい上がり、さらに強くしぶとくなる。

ベルセルクのガッツが不運と理不尽に襲われるたびに、それを食らってますます強靱に鍛え上げられていくように、彼らも理不尽を食らってますます強くなっていく。

一方で、そのまま復活できずに、廃人になって脱落していく者もいる。


そんな生活を5年も続けて生き残ると、どんな人間ができあがるか、想像できるだろうか?


こうして、マッチョができあがるのだ。


しかし、「不運と理不尽」という、黒い子宮が産み落とすのは、マッチョだけではない。

ウィンプもまた、同じ子宮から産み落とされる。

マッチョとウィンプは、どちらも「不運と理不尽」という名の黒い子宮から産み落とされた双生児なのだ。


ほとんどの人間は、それほど酷い不運にも理不尽にも見舞われないので、マッチョにもウィンプにもならない。

酷い不運と理不尽に襲われた人間だけが、マッチョorウィンプになる。



マッチョとウィンプは、かなりクリアに区別できる。


何年もの間、不運と理不尽を食らいつづけたマッチョの社会正義に対するスタンスは、概ね以下のようなものになってくる。

優秀な人材に変身するキッカケに出会うか、未熟なまま老いていくか

「誰でも正しいことをすべきだ」ということと、「それを実際にどう実現していくか」ということは、全く別のことなのだ。

世の中で正しいことを実現していくには、世の中が正しいことを前提として行動してはいけないのである。

<<略>>

そもそも、世の中は、正しいか間違っているかの2分法では動いていない。常に、その中間で、様々な妥協をしながら、結果として、正しい方向にどれだけ近づけることができるか、そういうゲームなのである。

<<略>>

上司は、自分より賢いとは限らず、正しいとも限らず、それにもかかわらず、自分は上司のオーソライズのない行動はとれない、という現実を直視するところからはじめないと、プロジェクトは上手く動かせない。

<<略>>

不毛な政治ゲームが少しでも減るように心がけながらも、現実的には、政治ゲームには政治ゲームで対抗しながら、自分の理想を実現していかなければならないことを、肝に銘じて生きていくべきだろう。


つまり、そもそもの前提において、マッチョは社会正義などをアテにして動いたりはしない。

マッチョの認識では、社会とは、不運と理不尽にまみれた、魑魅魍魎の蠢くベルセルクの世界なので、不運と理不尽に出会っても、いちいちヒステリックに社会正義を叫んだりはしない。

マッチョが社会正義を叫ぶのは、それが戦略的に意味がある場合だけだ。

マッチョは自分に責任のない災厄が降りかかってきたときも、あわてず騒がず、淡々と自力で対処する。

それが道徳的に自分の責任なのか、他人の責任なのかを考えるのは後まわしにして、とにかく事態を収拾する。

こうして、問題は解決され、プロジェクトは前進する。


もちろん、マッチョだってきちんと約束を守ってくれるパートナーは大好きだし、理不尽な要求をしない礼儀正しい客とは末永くおつきあいしたいと思う。

いざというときトンズラこく裏切り者の部下より、逃げずに持ち場を守ってくれる信義に厚い部下や同僚や上司を望む。

逆に、難癖を付けてくるヤクザなんて、まっぴらごめんだし、そういう理不尽な目に会わない社会を望む。

しかし、マッチョは、社会正義を望むことと、社会正義が実際に実現されているということが別のことであるということを、骨の髄まで熟知している。

だから、マッチョは、前提とされるべき社会正義などアテにせず、パワーゲームにはパワーゲームで対抗し、自力で社会正義を実現しようとする。

新しい時代の道徳はどのようにして生まれるのか

子供たちは、そういう親たちから学んだ。この世界の本質は、パワーゲームであると。

<<略>>

結局のところ、社会の流動化によって仁義なきパワーゲームが支配せざるを得ない現代という時代においては、理想は、パワーゲームによって現実化するしかないのではないか。

そして、その理想が崇高なものである場合、理想を実現するために創られたその権力構造は、かつての「道徳」と似たものになることが多い。

そうして、学校に限らず、社会の至る所で、多くの大人たちが、パワーゲームによって自分の理想を実現し、多様な道徳構造を創り出していくと、その総和として、より豊穣で、柔軟性を持った新しい時代の道徳構造が出現するのではないのだろうか。



一方で、ウィンプは純粋まっすぐな正義の人だ。

彼らは不運や理不尽に襲われると、自分が悪くなかったこと、相手が悪かったことを証明して、だから私には責任がないという。

そして、それは道徳的にも社会的にも正しいことも多い。

道徳的にも社会的にも正しいが、しかし、問題は解決されないままだ。プロジェクトは悲惨なままだ。


また、ウィンプの多くは不運と理不尽のリスクに対して鈍感だ。

ウィンプは不運や理不尽のせいでプロジェクトが失敗しても、それは自分の責任ではないと考えるからだ。

不運は私のせいではないし、理不尽も私が責任を取るべきことではないから、私の知ったことではない。

悪いのは常に加害者であって、その責任を被害者がとるなんて、バカげている。

ウィンプはそう主張する。

彼らは「人々が道徳的に正しいことをすべきだ」ということと、「人々は実際に道徳的に正しいことをする」ということの間にある巨大な溝にはまり、酷い目にあって「その溝を埋めるべきだ」と泣き叫び、観衆は「そうだそうだ」とうなずき、彼らは人々の同情を集めることに成功する。


一方、マッチョはほとんど無意識のうちに不運と理不尽のリスクを警戒する。

なぜなら、不運と理不尽のリスクマネージメントも含めて、自分の責任だと考えるからだ。


マッチョの多くがパラノイアのようにありとあらゆる不運と理不尽の可能性を事前にリストアップし、対策を立て、戦略的にマネージメントするのに対し、ウィンプの多くは不運と理不尽を戦略的にマネージメントするという発想が欠けていることが多い。

不運と理不尽は、自分の責任ではないから、そんなことを気にしてもしょうがないとでも思うのだろうか?


だからウィンプは、ろくな対策もしないまま不運と理不尽に襲われる。しかも、あまりの不運と理不尽さに押しつぶされ、ショックで脳が麻痺してしまい、効果的な具体策が考えられなくなってしまう。そして、効果的に逃げることもできず、立ちつくしたままボコボコにやられてしまう。

そして、

「ぼくは何も悪いことをしてないのに、社会が/会社が/上司が一方的に悪いせいで、こんなに酷い目にあった。」

という論調のエントリを書いて、人々に同情されて喜んだりする。

そのエントリの内容自体は正しい。

不運と理不尽は、ウィンプの責任ではないからだ。悪いのは加害者であって、被害者ではないからだ。


もちろん、マッチョも油断して世の中の悪意に噛みつかれ、手傷を負うこともある。

しかし、なんだかんだで最後は自力で辻褄を合わせるし、たとえその過程で酷い目にあったとしても、マッチョはそのようなエントリを書くことはまずありえない。

ましてや、それに同情してもらって手放しに喜ぶのは、ウィンプ以外の何者でもあり得ない。


このように、マッチョとウィンプは、けっこうクリアに区別できる。



マッチョとウィンプは、一卵性双生児なのだろうか?

それとも二卵性なのだろうか?


つまり、バイオロジカルには同じ人間が、環境の違いで異なった性質を持つようになったのか、それとも、生まれつき違う種類の人間なのだろうか?


おそらくは、両方のケースがあるのだと思う。

一卵性のマッチョやウィンプも、二卵性のマッチョやウィンプも、両方ともいるのだ。


元々は同じ人間であった一卵性のマッチョとウィンプを、別の性質を持った人間に変えてしまうプロセスは、行動心理学におけるオペラント条件付けによって説明できるだろう。


不運と理不尽に見舞われた人間が、「上司が愚かな指示をだしたのが悪かったんだ。企画の連中が無理な仕様変更を言いだしたから失敗したんだ。ロードバランサーの会社のサポートが悪かったから復旧が遅れてしまったんだ。部下が無責任に仕事を放り投げて逃げてしまったから、どうしょうもなかったんだ。だからボクはこんなに酷い目にあってしまった。ぼくはこんなに可哀想なんだ。。。」

と「自分が悪くなかった理由と可哀想な自分」を主張したとき、それに対して強化刺激(reinforcer)が与えられるか、それとも嫌悪刺激(punisher)が与えられるかで、マッチョになるか、ウィンプになるかが決まる。


既得権益を持たない実力主義の会社では、「自分が悪くなかった理由と可哀想な自分をアピールする」というオペラント行動は、「経営会議or他の同僚によって袋だたきにされる」という嫌悪刺激によって、弱化される。このため、そういう行動の自発頻度が減っていき、その人間は、結局、あらゆる不運と理不尽を自分で飲み込んで、なんとか辻褄を合わせなければならなくなり、それを続けているうちに、やがて押しつぶされて廃人になるか、全ての不運と理不尽を自力で切り抜けてマッチョになってしまう。

実力主義の会社は、とても効率の良いマッチョ製造機だ。鬱病で使い物にならなくなった産業廃棄人材も少しだけ出すのが難点だが。


一方で、ブログで「自分が悪くなかった理由と可哀想な自分をアピールする」というオペラント行動をすると、「みんなに共感され、同情される」という強化刺激(reinforcer)を与えられる。これにより、そのオペラント行動が強化(reinforce)されて自発頻度が上がっていき、やがてウィンプになる。

はてなブックマークは、非常に効率の良いウィンプ製造機だ。こちらは廃棄物を出さない。



それでは、二卵性の場合は、どうなのだろうか?

こちらはもっと簡単だ。

もともとウィンプの人間は、不運と理不尽に襲われると「自分が悪くなかった理由と可哀想な自分をアピールする」という行動をする。これは生まれつきそうなので、環境によって変わったりはしない。

また、もともとマッチョの人間も同様。不運と理不尽に襲われると、そこから脱出する具体策を自力で考える。環境は関係ない。彼は生まれつきそういう人間なのだ。


もし大半のウィンプとマッチョが一卵性双生児なら、ネットが普及すればするほど、どんどんウィンプが増えていく。

これは、ある意味、とてもやさしい、母性的な社会だ。

不運と理不尽に襲われた被害者にはいかなる責任も求めない、シンプルな純粋正義の価値観に覆われた社会だ。

弱い人間を弱いまま受け入れてくれる、人に優しい社会だ。

父性原理的なマッチョな価値観が支配する社会よりは、はるかに人に優しい社会だろう。

我が子を千尋の谷に突き落として育てるような、無茶な親のいない社会だ。


ただ、ネットによって、世の中でウィンプ的価値観が支配的になることを、手放しに喜んでばかりもいられない側面もある。


現在、外資やベンチャーを中心に、実力主義の会社がどんどん増えてきている。

そういう実力主義の会社の上層部はとてもマッチョ濃度が高い。


こういう会社の採用面接では、ウィンプは敏感に検出され、不採用になることが多い。

採用面接の時、マッチョな面接官は、応募者の過去の行動を狭く深く詳細に聞き出す。そうするとウィンプは、過去うまくいかなかった事柄について語るとき、「不運や理不尽に見舞われたから仕方がなかったのだ」というようなニュアンスが、言葉の端々に現れがちだ。

リスクに対して敏感なマッチョがそれを見落とすはずはない。

普段はウィンプ的な行動をとっている人間が、面接の時だけマッチョのフリをしても、そうそう騙し通せるものではない。

たとえ面接官を騙して採用されても、マッチョだらけの組織の中にウィンプが入り込んだりすれば、ひたすら悲劇が待ち受けているだけだ。


さらに困ったことに、マッチョ濃度の高い会社とウィンプ濃度の高い会社が競合すると、マッチョ濃度の高い会社が生き残ることが多い。

こうして、自然淘汰的プロセスによって、世の中の多くの実力主義の会社は、マッチョだらけになってしまう。*1

これにより、ますますウィンプの就職先が無くなっていく。

そして、マッチョ濃度が高い社会ほど、グローバル市場経済においては強い。

神のいないこの世界では、不運と理不尽があふれかえっているのが、素の姿だからだ。


こういう状況では、政府がウィンプに有利な「人に優しい社会」を作って行くのには、どうしても限界がある。

それを作ろうとしても、グローバル市場経済からのウィンプ排除の淘汰圧に押しつぶされてしまうからだ。

不幸にも、世界はそのようにできている。


そして、そのような世界で、不運と理不尽に襲われたとき、マッチョになる道を選ぶか、ウィンプになる道を選ぶか、それはあなたの自由だ。

神のいないこの地上では、一切は許されている。

マッチョでもウィンプでも、あなたの好きな方を選ぶといいだろう。

*1:finalvent氏の指摘にもあるように、いったんマッチョだらけの飽和点に達した後には、もっと複雑なゲーム理論が作用するので、話はそんなに単純ではないのだが。

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