儒教的放伐論、日中比較

朱子学読書会で講師いわく。

 古代中国で名君とされる堯、舜、禹の三人だが、いずれも臣下に王の位を禅譲している。しかし、禹以降(夏王朝)から世襲となったため、時に暴君が出てくるようになり、臣下による君主打倒を正当化する放伐論が起こってくる。


孟子は、「悪王は王ならず」との論法で放伐の正当性を主張する。


齊宣王問曰、湯放桀、武王伐紂、有諸、孟子對曰、於傳有之、曰、臣弑其君可乎、曰、賊仁者謂之賊、賊義者謂之殘、殘賊之人謂之一夫、聞誅一夫紂矣、未聞弑君也。

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斉の宣王が質問した。

斉宣王「殷の湯王が夏の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を討伐したというのは、事実でしょうか?」

孟子「本当にあったと伝えられています。」

斉宣王「武王は紂王の家臣でした。臣がその君主を殺してもよいのですか?」

孟子「仁をだめにする者、この者を「賊」と呼び。義をだめにする者を「残」と呼びます。残賊の者は、もはや君主ではなく、ただの一人の男です。紂という一人のただの男を武王が誅殺したとは聞いていますが、臣が君主を殺したとは聞いていません。」

孟子・梁恵王下」


 長尾龍一は、これを「一夫 + 仁義 =君」、「君 − 仁義 =一夫」との等式で表している。(「古代中国思想ノート」(長尾龍一信山社叢書)

 孟子の論は、忠君を重視する日本では危険視され、孟子の書を乗せた中国から日本行きの船は途中で沈むと言われていた。

 日本的忠君絶対主義から、吉田松陰孟子に激しく反発している。

 経書を読むの第一義は、聖賢におもねらぬこと要なり。…君と父とは其の義一なり。我君を愚なり昏なりとして、生国を去って他に往き、君を求めるは、わが父を頑愚として家を出て隣家の翁を父とするに斉し…。


 君につかえてあはざる時は、諫死するも可なり、幽囚するも可なり、其の身は功業も名誉も無き如くなれども、人臣の道を失わず、永く後世の模範となる。

 これ大忠と云うなり。漢土にあっては君道自ずから別なり。

「講孟剳記」


 同じ日本の儒者でも、伊藤仁斎は、放伐の是非を民衆の判断にゆだねている。

 俗、すなわち、是れ道なり。俗のほかに、所謂、道はなし。故曰く、湯武放伐、衆心に順う。衆心の帰する所、俗の成すところなり。

 儒教では男系血統主義が根本原理だが、政治権力者に於いては血統相続が絶対視されない。島田虔次は以下のように説明している。

 儒教には「父子天合」に対して「君臣義合」というテーゼがある。「礼記」曲礼篇に、父が間違った行いをした場合、子は「三たび諫めて聴かざれば、すなわち号泣して之に従う」、しかし君に対して臣は「三たび諫めて聴かざれば、すなわち之を逃(さ)る」とある。

 つまり父親には絶対服従だが、君には条件的服従、君がだめなら捨ててよいとなる。島田は、続ける。

 儒教的世界は、いわば国家と家族(個人)との二つの中心を有する楕円である。修身斉家治国平天下は、この楕円をあくまで楕円たらしめようする理想主義であって、それをいずれか一方の中心へ収斂させて円にしようとするのではない。

 ゆえに、かつての日本の「忠孝一致」は、儒教の正統原理からの逸脱となる。


朱子学陽明学」(島田虔次、岩波新書

 楕円か。本音と建前の二分論は得意技だが、「楕円」は、この国ではなかなか根付かない思考だろう。