28日後… (監督:ダニー・ボイル 2002年イギルス映画)

謎のウィルスによって感染した者たちが凶暴化、人間性を失った彼等の手によって崩壊した世界に残された人々のサバイバルを描いた物語。監督ダニー・ボイルは『トレインスポッティング』一作で終わっちゃった人、というイメージがあったし、この映画も単なるゾンビ映画の亜流だとばかり思っていたから、実は今回初めて観たんだが、なーんだこれ、傑作じゃないですか!
特筆すべきなのはアメリカ製ゾンビとイギリス製ゾンビとの描かれ方の違いだろう。ゾンビそのものというよりも、アメリカとイギリスの”終末観”の違いが如実に出た作品に仕上がっているのだ。ロメロに代表されるアメリカのゾンビがもたらす終末は、ひたすらカオティックであり破壊と腐敗に満ちた地獄であり、その中で生き残ったものは死に物狂いで生存を賭けるが、英監督ダニー・ボイル描くこの『28日後…』の終末は、どこまでも静謐であり、死は清浄で、街並みは忘れ去られた廃墟であり、生き残った者達もそこでか細く生にしがみ付くのだ。ゾンビホラーだというのに物語中盤ではイギリスの美しい田園風景までが盛り込まれ、このシーンでは英の傑作SF映画トゥモロー・ワールド』さえ連想させた。『トゥモロー・ワールド』自体も世界の終末を描いた物語だったが、英国人にとって、終末の光景とは田園風景なのか。田園の光景それ自体が涅槃であり彼岸なのか。そう考えると、英国人というものが持つ死生観というものにまで興味が沸いてくる。
それと合わせて、アメリカと違い厳しく銃が規制されている英社会における、ゾンビとの対決の仕方の違いだろう。これは同じく英のゾンビ映画ショーン・オブ・ザ・デッド』でもそうだったが、生き残った市民は決してすぐ銃を手にしてゾンビとは戦わないのだ。『ショーン〜』では確かボートのオールやビリヤードのキューを使ってゾンビと戦い、その辺が妙なコミカルさを生んでいたが、この『28日後…』でも最初の武器は火炎瓶やバットであり、「銃砲店に向かえ!」とは誰も言わないのである。その中で銃を持って現れるのは軍隊であるが、それもあくまで体制側の存在として描写され、決して手放しで「騎兵隊現る!」などと喜んだりしないのだ。この辺にも米英の日常生活における銃というものに対する思想の違いが見え隠れしていて面白く思えた。
そしてラストは、ゾンビと人間の戦いではなく、極限状況における人間同士の戦いがメインになってくる。この辺にはやはり英国作家ウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』を連想させられた。結局、最も恐ろしいのは、”ゾンビ”という外なるものではなく、”人間のエゴ”という内なるものである、というのが英国人の考え方なのだろうか。ちなみに、『ゾンビ』のリメイク『ドーン・オブ・ザ・デッド』では走るゾンビが注目されていたが、この”走る”という要素では『28日後…』のほうが断然早かったようだ。この『28日後…』には続編として『28週後…』が近日公開が予定されており、こちらも楽しみである。

主人公は僕だった (監督:マーク・フォスター 2006年アメリカ映画)

頭の中で声がする。それも僕の行動をいちいち描写している声が。僕は頭がおかしくなったのか!?しかし調べてゆくとどこかの作家の書いている最中の小説通りに自分が操られているみたいじゃないか。しかもその作家の考えているラストが主人公の死だって!?作家を探し出して結末書くのを止めさせなきゃ!というお話。主人公が『俺たちフィギュアスケーター』のウィル・フェレルということで観てみた。監督は『チョコレート』『ネバーランド』といったそこそこの話題作を撮っているマーク・フォスターだが、先に挙げた両作はどうも生真面目さが先に立って膨らみの少ない物語のように思えた。で、今作なのだが、派手さも無くこじんまりとまとまったものではあるが、そこそこの佳作であるといっていいだろう。
コメディとしては大人し過ぎるのだが、お堅い会計監査官である主人公の四角四面な行動の描写が可笑しいし、その堅物が自由を愛するケーキショップの女店長(マギー・ギンレイホール)に恋をしてしまう部分からさらに滑稽さを増してゆく。主題であるメタフィクションとしての物語より、この主人公と女店長との恋愛の行方がなんだか微笑ましくて楽しい物語になっている。また、主人公を翻弄する小説を書いている女流作家役のエマ・トンプソンの大仰な神経質ぶりも可笑しいし、その秘書役のクイーン・ラティファ、さらになんと主人公の相談役になる教授役としてダスティン・ホフマンが登場、非常に優れた役者で脇を固めた作品になっている。