マタイ受難曲

J.S.バッハ マタイ受難曲 BWV244 [DVD]

J.S.バッハ マタイ受難曲 BWV244 [DVD]

  • アーティスト: シュライアー(ペーター),シュラム(エルンスト=ゲロルト),ニムスゲルン(ジークムント),ドナート(ヘレン),ハマリ(ユリア),ミュンヘン少年合唱団,ミュンヘン・バッハ合唱団
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2006/06/21
  • メディア: DVD
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 カール・リヒターが指揮した、バッハ作曲「マタイ受難曲」はCDがたしか三種類ある。以前は最後の録音を愛聴していたが、昨年にDVD映像を入手したので、これを見ている。値段はちょっと高いが、映像のクオリティは悪くないし、これから「マタイ受難曲」を聴きたい人にはお勧めだと思う。

 聴いて思うのは、「イエスは『神の子羊』であり、人間の罪をあがなうために、十字架につけられた」というキリスト論の言語が、いかにも古いということ。古いけれど、バッハの音楽と「マタイ受難曲」のドラマが凄すぎるので、つい聴いてしまう。

 このキリスト論言語を、現代人のセンスに合った、もっとわかりやすい形に言い換えたら、どうなるんだろう……ということを最近考える。「罪をあがなった」という言い方は、信仰告白の一つのフォーマットとして大事にするとして、もうちょっと自分自身にとっても、自分の周囲にいる人にとっても、すっきりする言い方はないだろうか。そこに、いまの自分とキリスト教の接点があるかなと思う。私の場合、どうもすっきりしないので、キリスト教を学んでいるという思いが強いです。

 復活祭前の時期、ここ毎年は、「マタイ受難曲」を聴くと共に、イエスがなぜ殺されたのかを考えている。言い換えると、「イエス様は十字架で人類の罪をあがなった、万歳!」という信仰を告白する前に、なぜかれのような存在が、人間の歴史から抹殺されることになったのか、その暴力がいったい何に由来するのかを、反省してみるということです。

 歴史のなかに、イエスのような活動をして、時の権力者と正面からぶつかり、公然と殺された者(例・キング牧師)、あるいは秘密裏に殺された「匿名のイエス」が数多くいる。

 聖なる人を殺す、その権力とは何なのか。その権力が働くような仕組みに乗っかり、甘い汁を吸う者は誰なんだろうか、と問い詰めていくと、この私にも責任があるかな……と思わざるを得ない。イエスを裏切ったユダは、ある意味でこの私。かれを十字架刑で抹殺したローマ帝国の支配体制・権力機構は、ある意味でいまの先進国の社会体制だという視点を手放さずに、福音書を読みたい。

 「マタイ受難曲」のガイドブックとしては、音楽学者の礒山雅さんの『マタイ受難曲』がある。10年ちょっと前の刊行ですが、音楽学歴史学からのバッハ研究の成果が盛り込まれており、「何でこんな奇妙な歌詞なのだろう」「どうして、ユダのアリアは明るい長調で書かれているのか」といった、マタイを聴く日本人が持つ疑問に答えてくれます。目から鱗を幾つも落としてくれる名著です。

 もう一つ、「マタイ受難曲」のファンに勧めたいのは、聖書学者の佐藤研さんの『悲劇と福音』。これは四つの福音書の受難物語の人間学的な意義を、アリストテレス詩学』の悲劇論を援用しながら、解読しようというもの。抹香臭いキリスト教本ではないので、非クリスチャンの人には読みやすいだろうと思う。

マタイ受難曲

マタイ受難曲

アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)

アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)

モテ、萌え、への予告

以前に紹介したシュレーディンガーの本に、彼の「自伝」が入っているのだが、その中に以下の文章がある。

・・・なぜなら私は女性に関することがらを書き落としており、それはこの自伝の不備であると同時に、また必要なことだと思ったからである。その理由は、女性に関する話はうわさ話になるからであり、それは特に興味のあることでもないからである。それにこのようなことがらについて男は心底から誠実に語ることはなかろうし、その必要もないからである。(56頁)

うーん、どうですか、諸氏? これ、「俺はモテたのだよ」と言っている文章ではないのか?

わが世界観 (ちくま学芸文庫)

わが世界観 (ちくま学芸文庫)

今日ひさびさにリアル書店に行ったので、いろいろ物色したが、うわさの本田透喪男の哲学史』があったので、ぱらぱら立ち読みしました。

喪男の哲学史 (現代新書ピース)

喪男の哲学史 (現代新書ピース)

いや、これは怪作ですね。私はけっこう気に入りました。そのうちにちゃんと読んで批評したいと思います(商業書評するには古すぎ)。

ここのところ、モテについて考えていて、そのうちにこのブログでも投稿しようと思っています。私は「モテ/非モテ」の二元論に反対します(たぶん)。しかし萌え論争だけじゃなくて、モテ論争にまで脚を突っ込んでこの先どうなっていくのだろう>自分。

参考:mojimojiさんのスレとそこでのコメント
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070403/p1

シュライエルマッハーの怒濤の生命論

一昨日もシュライエルマッハーについて紹介したが、今日もその続き。(一昨日のはこれ:http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070402/1175515159

独白 (岩波文庫)

独白 (岩波文庫)

最後のほうのページから引用する。

まずこれが完成され、次にあれが完成されなければならないなどと言うな! お前の気の向くままに、お前の気の向く時に、軽い足取りで進んで行け。お前がかつて為したことはすべてお前の内に残っていて、お前が帰って来たとき、それを再び見いだすのだからだ。

お前がいま何事かを始める場合、それがどうなるかなどと心配するな! それがお前以外のものになることは決してない。お前が欲しうるものは、またお前の生命に属するものであるからだ。行為において中庸を得ようなどとはゆめ思うな! 絶えず清新に生きて行け。お前が用いずにお前の内に蔵(しま)い込んでおく力以外には、いかなる力も失われることはないのだ。

お前が後にあのことを欲しえんがために、いまこのことを欲するな!(←kanjinai註:これ誤訳では?)自由な精神よ、もしお前のうちにあるある一つのものが他のものに使役されるといったようなことがあるならば、自ら愧(は)じよ! お前のうちにおいてはいかなるものも手段であってはならない。一つのものはまさに他のものと等しい価値をもっている。それゆえに、お前が何に成ろうとも、それをそのもの自身のために成らしめよ! お前が欲しないものを欲しなくてはならないなどということは馬鹿げた欺瞞だ! (136〜137頁)

はい、ここまで読んで、「あれ、ニーチェ?」と思った人は読書家さんです。ここだけ切り取ってしまえば、ニーチェと言われても分からないかもしれない。しかしシュライエルマッハーのこの本が出版されたのは1800年。ニーチェが生誕したのが1844年です。

これは、シュライエルマッハーが、老年に差し掛かったことを自覚しつつ、一方において老年を肯定しつつ、同時に、青年に向けてはっぱをかけてアジっている箇所。「美は乱調にあり」的な生命論が、とうとうと語られている。このあともっと続くのですよ。

生命論、生命の哲学というのは、宿命的に、このような怒濤の流れに乗ってしか発露してこないのかもしれない。平衡と静謐へと向かう哲学とはまったく逆の情念がないと、生命論は語れないんだろうか。しかし生命論は、世界史的にもまだまだ成熟してない。だから、もっとこれから可能性があるはず。怒濤の生命論と、平衡の生命論の2種類を開拓していければ面白いと思う。