カント、フィヒテ、ヘーゲル、女

『思想』2007年4月号に、水田珠枝さんによる論文「平塚らいてう神秘主義(上)」が掲載されている。これは平塚らいてうフェミニズム思想形成を、当時の思潮や、人間関係、本人の人間形成などの点から解明しようとする意欲作である。

この論文を読んでいたら、平塚に影響を与えたであろうドイツ観念論の哲学者たちの女性観が簡潔にまとめられていたので、以下に引用しておきたい。

まずはカント:

・・・女性の性格は劣等であり、しかも女性はその状態から脱却してはならないという。彼は、女性が学問をすることに反対し、女性の哲学は理屈をこねることではなく感じることであるといい、当時の女学者を取り上げて、骨の折れる勉学は女性固有の長所を根絶させてしまうと非難する。また、家族には種の保存という自然が課した目的があり、男女が家族内部で同等に要求をするならば争いが絶えないから、男性が能力において優位にたち、女性を支配しなければならないと彼はいう。(16〜17頁)

次はフィヒテ

彼は、性衝動でも男性と女性とは異質であって、男性は能動的、女性は受動的であるといい、男性においては、能動的性衝動とその充足は自我の本質の発動であり理性にも反しないが、性行為において女性が受動的なのは、女性は一方的に他者の手段だからだというのである。彼はこの問題を「愛」という言葉で解決する。女性にとって性衝動の目的はそれの充足ではなく、男性の性衝動を満足させることなのであって、それは愛とよばれ、女性にだけ生得のものである。(18頁)

次はヘーゲル

すなわち結婚の同意とは、男女が自然的・個別的人格を放棄して一体化し、一人格になることであり、それは愛を基礎とすると同時に、法的・倫理的な結合である。法的人格として家族を代表するのは夫であり、収入を確保し財産を掌握するのも夫であることから、結婚とは家族における男性の支配の確立であり、女性の人格がそのなかに埋没することなのである。・・・(中略)・・・男性の人格は、自分の欲望を追求する個別性と社会的活動における普遍性に分裂し、この分裂は、国家というより高い次元において一体化することになる。しかし女性の領域は家族に限定され、人格の個別性と普遍性という分裂もないし、国政への参加もない。(18〜19頁)

以下、ショーペンハウアーニーチェが続くが、これは著名なので省略。

以前にfont-daさんが書いていたが、女性が哲学史を学ぶということは、古典に出てくるこういう叙述をぐっと耐えながら読むことなのですね。いま振り返ると、私が学生時代の男性教師たちは、こういうところは引っかからずにさらっとスルーして読んだり、講義したりしてたんだなと思う。いまの大学は、そもそも西洋哲学史なんていう授業自体が存在しなくなってきているので、女子学生の精神衛生上はよいことかも。でも間違って大学院入っちゃって原典読むようになったらやっぱりしんどいだろうなあ。

本田由紀編『若者の労働と生活世界』

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

フリーター、ニート、ワーキング・プア。他方では、過重労働、過労死。若者はいま、どのような「労働」のただ中を生きているのか。この本は、社会学的視点から、回答を与えようと試みる。その中でも最後に収められた、湯浅誠と仁平典弘との共著論文「若年ホームレス――「意欲の貧困」が提起する問い」は際立って面白い。

ここで注目したいのは、若者バッシングと、それに対する批判者のあいだには、若者や社会をとらえるうえできわめて大きな相違があったが、そこでの賭金が若者の「働く意欲」である点で、両者は共通の土俵に立っていた、ということである。つまり、若者バッシング論が、若者の意欲の問題――働く気がない――と表象する一方で、その対抗言説の多くは、「本人は働きたがっているが、仕事がないという社会的・構造的問題に起因する」ということを強調していた。この対抗言説が、現在の言説空間において、きわめて重要な論点を提起していたことは疑いえない。しかし、その一方で、その処方箋が、労働市場の参入障壁を下げる、労働力の質を高めるという方向だけに閉じられるとき、そこに見落とされる問題はないのだろうか。(p.330、強調引用者)

「働く意欲」によって両者を分かつ分割線は、そんなに強固なものなのだろうか。生の可能性を縮減されるただなかで、「でも働くしかない」と思うことと、「もう働けない」と思うこと、あるいは「働きたいと思い、体が動くこと」と、「働きたいと思っても、体が動かないこと」とのあいだには、いかなる違いがあるのだろうか。むしろ、縮減される生のあり方自体を直視する視点が、言い換えれば「働く意欲があるが仕事がない」生と「例外」として病理化される生の両方をともに産出する構造自体を、包括的にとらえる視点が必要とされているのではないだろうか。(p.331、強調引用者)

そして、湯浅と仁平は、「人を包み外界からの刺激からその人を保護するバリヤーのようなもの」として「溜め」の機能に注目する。「溜め」は、経済的なもののみならず、人間関係や精神的なものをも含む。多様な人間関係資源に包まれ、ゆとりや自信を保持することもまた、その人の「溜め」になると論じる。この視点は、2人も述べるとおり、アマルティア・センの「基本的ケイパビリティ」からの連想概念である(p.341-342)。この論文は、非常に重要な提起をしていると考えられよう。もとより、この本自体が、今後のフリーター、ニート、過重労働等の問題を考えていくときに広く参照されるものになるだろうと予測する。
5月の新刊のなかで、この分野のものを私は以下の2冊も併せ読んだ。どちらも、重要な問題を提起している。この分野に関心がある人は、必読といえるのではないだろうか。

非正規労働の向かう先 (岩波ブックレット)

非正規労働の向かう先 (岩波ブックレット)

追記:Arisanさんが、本田編本をもとに思考されています。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070524/p1