全話視聴計画『牙狼 -紅蓮ノ月-』(第二十三・二十四話)

第二十三話 嶐鑼
 蘆屋道満が嶐鑼を復活させ、合体する。多くの顔と手を持った姿であり、様々な観音像にヒントを得た雰囲気であった。
 源頼信は民を結界のある光宮に避難させようとするが、藤原道長は民を蔑んでいるため光宮の中に入れようとしない。それでも頼信が民を無理に避難させると、道長はそれを自分の手柄であるかのように振る舞う。
第二十四話 討月
 延々と戦闘が続き、それだけで終わる。戦闘場面をこよなく愛する者にだけ媚びた様な最終回であった。
 ネット上ではこれについて大きな不満の声も見られた。
 しかし私は、後日談を省いた事には重要な効果があったと思われる。
 闇のみを追い求めた道満が裁きを受けたのに、その対極として卑劣な形で光のみを追い求めた道長が何の裁きも受けずに済むという、そのカタルシスの無さこそが、今回のシリーズが指摘した世の中の問題を有効に告発しているからである。
 本作では、道長が光を追い求める事の皺寄せとして行われている悪政によって、多くの人々は陰我を抱え、火羅になっていき、魔戒騎士に斬られていった。
 中盤ではその構造に疑問を持った反体制運動家の袴垂も誕生したが、袴垂は途中から人を斬れない掟の魔戒騎士になったせいで、道長に直接手出しが出来ない立場となってしまった。
 こうして光だけの奇形的存在である道長の地位は盤石となり、これからも間接的に多くの人間を火羅にしていく事になった。そしてその構造は、少なくとも道外流牙の時代まで変わらないのである。
 現実世界でも、追い詰められた庶民が麻薬やカルト宗教に頼ってしまう事がある。そういう人々を単なる堕落としてその道を選んだ連中と同一視し、社会の構造を変えずに彼等だけを排除するというのは、短絡的であり、またそれ故に半永久的な戦いを強いられる事になる。
 そうであるのに、社会を変えずにその犠牲者ばかりを排除してきたのが、『牙狼』シリーズの魔戒騎士なのである。
 「そんな事で本当にいいのか? 多少の犠牲を払ってでも世の中を変えた方がいいのではないか?」という革命的な批判は、ラテス・シグマ・リングらによって様々な形で表明されてきたが、本作ではそれが結実した形となった。
 「もっとストーリーに重きを置いて欲しかった」という立場の人からは、第十六話を無駄な回とする意見もあったが、私はこれにも上述の件と同様の理由から異を唱えておきたい。
 生きるために仕方なく悪に染まる庶民を見下す現実世界の権力者を象徴化したのが藤原道長ならば、それを更に戯画化したのが橘正宗だったのである。
 光を病的に求めたのが道長であったとするならば、異性を病的に求めたのが橘正宗である。そして本人には悪気がないが、彼の行動のせいで悲しんだある人物が火羅になり、魔戒騎士に斬られていた。そしてその魔戒騎士は掟のせいで橘正宗に手出しが出来なかったのである。
 これこそ、全二十四話の描いた世界を凝縮・要約した話であり、ある意味で「総集編」である。