三島由紀夫の叫びと嘆き

昭和45年11月25日に三島由紀夫は、市ヶ谷で日本人に覚醒を呼びかけ自決しました。
その三島がかつてこう言いました。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このままいったら日本はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済大国が極東の一角に残るであろう。それでもいいと思っている人達と、わたしは口をきく気にもなれなくなっているのである。」

経済危機・新政権の誕生を契機に、日本の立場が溶解していると思っている人は多いはずです。経済は中国依存だと学者たちはいい、政治家は東アジア共同体と騒いでいるときに、失業率は高まり所得は下がり、日本はどうなるのかと思っている人が多いはずです。
三島が言った言葉の中で「富裕な、抜け目がない、ある経済大国が極東の一角に残るであろう。」ということすら残らないのではないかと思い始めているのでしょう。

しかしじつは三島の言う「無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の」というところが重要です。日本が誇りを持って国際社会のなかで生存してゆくには、日本人としての誇りを、これまで歴史を形成してきた過去の日本人の生き方・考え方から持たなければなりません。経済の成功神話が拠り所では、今のように経済力が低下し始めると、たちまち自信喪失し、中国だ東アジアだと経済以外の分野まで依存志向となってしまいます。

国家・民族も人間個人と同じように、隆盛も衰退も必ずあります。要はどう考えどう生きたかではないでしょうか。鎖国で世界の潮流から大きく遅れていたといわれる江戸時代が、文化の爛熟期でした。その江戸時代が身分社会であったにもかかわらず、町人までが石田梅岩石門心学などで教養と誇りが高い状態でした。鎖国していた日本が、当時世界でも比類のないほど識字率が高かったのも、このためだといわれています。この江戸時代に培われた文化の力が、明治維新を導いたのではないでしょうか。次々とアジアが帝国主義に蝕まれてゆくなかで、妥協も主張も行いかつ国内の体制改革まで果たして、独立を維持したのが明治維新です。

国力とは経済力だけではありません。国民の教養と誇りは大きな国力です。

教養とは知識とか倫理と同義ではありません。教養とは誇りに裏打ちされたものだと思います。その教養のないものたちが占める社会に、三島は訣別したのかもしれません。