「サラダボウル③」

首都ワシントンDCの中の、それこそホワイト・ハウスから数ブロック離れたところにあったのがボクの行っていた大学であった。

……「ベトナム戦争が」どう言い訳しても “敗北”に終わり、その憂鬱と屈折が社会のいろんなところにべったりと張り付いているような……そんな時代だった。

アメリカを形容するのによく使われる“メルティング・ポット(坩堝)”という言葉があるが、そんなにいろんな人種・文化・風俗が溶け合っているわけでもない。精々“サラダボウル”ぐらいなものよっていう人も多い。
この首都にあるこの大学の学生達は世界各国から来ていて、それがやはり“サラダボウル”になっていた。

(「サラダボウル」①②で、もうすでにサラダの素材を10ほど紹介したが、ここではまた5つ紹介したい。)


アメリカン・インディアン


その頃の『ワシントン・ポスト』紙に次のような記事が掲載されていた。
<ほぼノース・カロライナとサウス・カロライナ全域の土地へのアメリカ政府から発効された借用書が当時の酋長の子孫が見つけ出して来た。記載されている返還の期限はとっくに超えている。直ちに返還されるべきとの訴訟を連邦政府に行う準備に入っている>
新聞を読んでのけぞった。この土地というのが日本列島の面積にほぼ等しいではないか!

その数日後のこと。上記の返還問題とはまったく関係なく、キャフテリアの入り口でアメリカン・インディアンに遭遇した。
身の丈は優に2メートルあったと思う。髪は鴉の濡れ羽色で真っ黒。それを三つ編みしている。額には皮のバンダナ。上着はバックスキンでイラストがされている。ズボンは同じくバックスキンだが両側の縫い目には皮を細く切ったストリングスがあしらってある。靴は定番のモカシン。

どーだ!とばかりにインディアンの服装なのだが、顔つきもそのまま“どーだ!”で1ミリも愛嬌はない。
生き物としての圧倒的な存在感で屹立していた。彼から立ち上るオーラだけで周囲を睥睨(へいげい)していた。

その頃は、毎週末にDCにある『スミソニアン博物館群』に行くのが定番になっていた。そのなかで先住民の人形の展示があったのだが、その人形が今息をして動いている。
(今は『国立アメリカン・インディアン博物館』がスミソニアンのグループに加わったようだが……)

彼がこの大学の学生だったのか、単なる訪問者だったのかは解らない。それから彼と二度と会っていないから……。


●副頭取とシャーロット


アメリカの大学では、午前中から2〜3時位までは学部生の授業、
1時頃から夕方6時頃までは修士課程の授業、そして、夕方5時から夜10時くらいまでが博士課程にプログラムされている。きっちりと折り目正しくということでもなく、上記のように糊代があるのだけれども。
その授業は夜7時くらいからで、ドクター・コースのものだった。隣の席に座った男がどう見ても50代。

「はじめまして。頑張りますね。本職はなんですか?」
「このDCの△△銀行の副頭取をやっているんだが……」
「はあ……そのような人がなんでまた?」
「まあ、錆取りというか……ホビーの一つかな……」
「随分と高尚な趣味ですね」

われわれの前の席には陸軍の制服を着た将官が制帽をきっちりと机の隅において授業を熱心に聞いている。

その横にはジーンズとTシャツのシャーロット。彼女はまだ19歳。ハイスクールで何度かスキップ(飛び級)して、今はドクター・コースだという。

「このアメリカで博士号取得の最短レコードって19歳って聞いたけど……」
「ええ。それが私の兄よ」

とウインクした。

このような年齢もバックグラウンドも異なった人々が一つの教室で同じ授業を聞いている———ハナから“何年生”という観念がない。こういうのが「複雑系」で、それこそがアメリカを創ってきたんだなって思う。

そのシャーロットのこと。
聞けば彼女の父親は石油メジャーの役員だという。彼女はそんなことはおくびにも出さずに、相変わらず小汚い格好で学校に来ている。一度彼女のフォルクスワーゲンを見かけたが、ボンネットのロックが壊れていて、それを紐で縛っていた。
サウジアラビアの石油相の妹は毎朝運転手付きのロールスロイスで大学に来ていたのだが……。

そんなシャーロットに金曜日の夕方に会ったが、声を掛けられても誰か解らなかった。パーティに出るのだろう、ドレスアップして化粧もキチンとしていたから、全く気がつかなかった。
ケイジャン(白色人種)の彼女たちはトルソーというかプロポーションがいいので、ドレスを着ると本当に似合う。もともとが彼らの文化から生まれて来た民族衣装なので似合って当たり前なのだが……。


● ドクター・グルーブ


アメリカの大学には「アドバイサー」という制度がある。(留学生だけなのかも知れないが……)このグルーブ教授がボクのアドバイサーであった。彼には本当に世話になった。アパートの選定、家具の購入、はては食品の買い込み。勿論、大学へのレジストレーション、履修のプランなどなども。

大型スーパーマーケット(いまでは日本でも珍しくはないが、その頃は日本にはなく初体験であった)で食品を仕入れていたとき、ケチャップをカゴに入れようとしたら、

「ちょっと待った。ここにユニット・プライシングの表示がある。これによるとこちらのプライベート・ブランドのものの方がオンスあたりの単価が安い」

と言って、そちらにしろと言う。ほとんどオバさんと一緒に買い物をしている風情であった。

まもなく彼がゲイだということが解り、妻が汚い物でも見るようになった。こちらはゲイならではの彼の細やかな気配りには感謝していたが、それに対しても彼女は気に入らない様子であった。

日本人がアメリカに行ってさまざまなカルチャーショックを経験するが、この性愛の少数派というのか、多様性というべきなのか……もその一つ。
(現在ではGLBT=ゲイ、レズ、バイ、トランスジェンダーと一括りで呼ばれる)
大学の掲示板に<全学のゲイよ、集結せよ!>なんてのを見ると、虚を衝かれて落ち着かない。自分は“ストレート”なのに。

グルーブ教授の第一秘書ゲハルトもゲイであったが、その彼とついにはDC内で一緒に暮らすようになってしまった。
彼がビジネス・スクールの学部長になる野心を棚卸しにした時であった。


●デベイキ


そのグルーブ教授の第二秘書がデベイキであった。ボク自身と家族の直接的な面倒見は彼がやってくれていた。レバノンベイルートの出身。Ph.Dを目指して博士課程を履修しているが、パート・タイマーとして学内で働いている。すでにアメリカ人女性と結婚してバージニア州の北の方に娘と3人で暮らしていた。

デ・ベイキと中黒を入れるのが正しいのだと思う。ド・ゴール、フォン・カラヤンダ・ヴィンチのように……。彼もそれなりに 由緒正しき一族の出なのだろう。
なんにしても気のいい奴で多少おっちょこちょいのところはあるが、とても温かいハートの持ち主であった。よく大学界隈のレストランでランチをして、バカ話とかシモネタ話で互いに大笑いしていた。自宅に招いて日本食を供したこともある。

かつては“中東のパリ”と呼ばれていたベイルートも、1975年からの「レバノン内戦」以降は見る影もなくなっていった。(多くの日本企業もここに“中東支店”を置いていたが、逃げ出してしまっていた。)
キリスト教6派、イスラム教5派がくんずほぐれつの闘争を繰り返し、そこへ外国のフランス、イギリス、ロシア、アメリカ、PLO、シリア、イランなどが陰に陽に絡んでいて、“永遠に解けない知恵の輪”のようになってしまっていた。

ランチで「レバノン内戦」の話になると、いつもの陽気な男の顔が一瞬にして悲痛な色に染まり、

「もうボクはアメリカ人になっていくだけだから……その事だけに今は集中したいんだ」

とぼそっと呟いていた。

日本に帰国して、3年目くらいだったか……例のグルーブ教授が韓国の帰路東京に立ち寄った。彼のための歓迎会が催された。横に座っている彼に……

「ところで、デベイキは元気ですか?」
「悪いニュースがある」
「え?何かあったの?」
「キミがワシントンからいなくなってから間もなく、彼はベイルートに里帰りをしたんだ。矢も盾も堪らなくなったんだね、母国のことが。そう、ご両親も居たしね」
「で……」
ベイルート市内の友人を訪ねたのね。そして、そのドアを開けたときに……」
「開けたときに……?」
「そのドアにプラスチック爆弾が仕掛けられていて……」
「!……」
「ドアもろとも吹っ飛んでしまったんだよ」
「で、彼は?」
「彼の人生もそこで吹っ飛んでしまった……」

返す言葉を失ってしまった。頭をいきなり大きなハンマーで殴りつけられたようなショックであった。テロなどというものは自分とは全く無縁なものだとそのときまで思っていたのに、急に生々しい現実に動転し震撼した。

あんなにもアメリカ人になることに一生懸命だったのに……なぜベイルートへ……あんなにいい奴だったのに。神様はいい奴の順に手招きするんだな。……やっぱり。

デベイキ、キミが犠牲になったあの「内戦」の後も、……あれからこんなに経っているのに、世界はちっとも前に進んでいない。キミが眉と眉の間に抱えていた鬱屈もさらに昂じたとしても、解消されないままだよ。
キミが写真で見せてくれた娘さんも、今ではキミの孫と一緒に幸せに暮らしているのかな?

Rest in peace.

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「建国200年祭」でなんとはなく国中がウキウキしていた1976年から2年に満たない期間をアメリカ東部のバージニア州で過ごした。ワシントンDCのその大学でMBAを修めるという目的だった。
ペンタゴン」の近くのアパートに住まい、JFケネディが眠る「アーリントン墓地」を横目に見て、ポトマック河を渡り、突き当たりの「リンカーン記念堂」を右に折れると「ホワイトハウス」がある。そこから徒歩10分ばかりのところにあるのがこの大学であった。

そこで出会った学生を中心に、「サラダボウル」とか「複雑系」を軸に思い出すままに書き進めて、振り返ると15名。それぞれのバイオグラフィをと思ったが、ただのグラフィティにしかなっていないかなと思う。

United States of Americaを考えるときに、もうひとつ考える事は<アメリカ人になろうと思ってここにやって来た人たち>もしくはその子孫の国であるということ。日本を含め多くの国の人々はそこで生まれ落ち、気がつくとそこの国民であった……だと思う。ここの人たちは異なる。自分の意志で生まれ育ったところを捨て、<アメリカ人になりに来た>人々なのである。人類史上なかなかない“実験国家”といえる。
ここに書き記さなかった人たちも含めて、外国人留学生の何%かは自分の未来にチップを張って「アメリカ人」になって行っていると思う。

講義とか勉強については何も書いてこなかったが、とにかく苛酷であった。山のように出るリーディング・アサイメント(予習)を消化するだけで寝る暇がなくなる。
同じく企業派遣で来ていたN氏はセメスター(学期)とセメスターとの間のブレイク(2週間ほどの休み)になると顔がふっくらしてきて、セメスターに突入すると痩せてくる。ファイナル・イグザム(期末最終試験)のころにはゾンビのようになる。それは自分を映している鏡だとも思っていた。

———だとしても、だからこそ……かな、日本の大学では到底味わう事ができない多様な価値観、“複雑系”、カオス、能力・才能本位制、アイデンティティの確立などなどを学んだ濃厚な期間であった。

それにしても……。
文化人類学者のマーガレット・ミードが『国民性の研究』という本の冒頭で、

「合衆国の広大な広がり、つまり複雑で多様な景観だの、南部山岳の窪地から不毛のニューイングランド岬、平原の人里離れた小屋といった多様な場所に多様に存在するさまざまな民族習慣を見渡してみると、アメリカ人を一般化して論ずることは、ほとんど不可能のように思える」

と記している。だからここに書いたことも、“東海岸のワシントンDCでは”と括弧付きなのかも知れない。とりわけ、外国人留学生にフォーカスしていることだし。

そんな意味でいえば、後年西海岸のロスアンジェルスからアメリカを望めたのは幸運であった。


(完)

※これにて「サラダボウル」①②③を完結する。