買ってはいけない。読んではいけない。

ひさびさに腹立たしい本を読んだので、ハッキョモードで噴きあがるよ。

不登校は終わらない―「選択」の物語から〈当事者〉の語りへ
貴戸 理恵

おすすめ平均 
修論レベル・・・

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Amazonに「修論レベル」とのレビューがあるが、こんなもの修士論文として通るわけがない(というか「ナニ修士号」をお持ちなのか知らないが)。

抜粋しよう。
はじめに:

これまで不登校は、大まかには二つのナラティヴによって語られてきた。ひとつは、「子どもは学校に行くべきであり、周囲の大人は不登校者を学校に戻すために手を尽くすべき」とするもの。もうひとつは、「子どもは学校に行かなくてもよいのであり、学校の他にフリースクールなどの選択肢を認めるべき」とするものだ。

「これまで」っていつまで?

あとがき:

不登校の意味づけ四類型ですか。ふーん。でもこんなのどれもありますよ。「不登校なんてもう関係ない」ってのもあるし、「やってよかったな」ってのも、「あー不登校さえしなきゃ別の道があったのかも」とも思うし。「だったから」とか「さえしなきゃ」とかそういうこと自体がうざいってのもあるしね」
あっさり言って、やる気なさそうに論文を閉じた。
「――ですよね」
などと言いつつ、私は内心少なからず動揺する。
マジですか。だってもう分析しちゃったよ。「○○さんは△△型!」みたいな分析、やっちゃったよ。「どれもある」って、そんなの今さら言われても困っちゃうよ。大学院にも出しちゃったし関係者にも見せちゃったよ。どーすんだよ、私の論文!

あとがきで、書物の製作過程の失敗談を書くのは勝手だが、そしてそのパフォーマティヴな結果を期待するのは勝手だが――当事者を分類することの暴力性や不可能性(わからなさ)を示唆したいのだろう、そしてあとがきを先に読む読者の「共感」を得たいのだろう――ありえない失敗を晒すのはありえないだろ
これ、修論を出版したことになってるんですけど。この修論は「これまで」の「逸脱か選択か」という観点を超えて、当事者の語りを通してその「本音」にせまる、とかなんとかがコンセプトなんですよねえ。だったら類型論を先行研究としてリファーするのは当然としても、それで分析することはないでしょ(ウソ書いてんのか?)。というか上記の「類型」がそもそもないし(類型として成り立ってない)。

10年以上前に石川洋明氏がこう書いてますから:

石川憲彦氏は……「管理的で排除する学校だけがいやだったんじゃなくて、『おまえはあんなに管理的な学校なんか、行かなくたっていいよ』と声をかける側の持っている、ある種の理想像にも反発したんじゃないか」「学校にいかなくていいといわれれば反発したくなる。『そうじゃない、本当は学校を自分のものにしたい』。そんな裂かれ目のなかにいる、彼らについて何か語ってみたい」と述べる。
石川洋明、1991、「登校拒否」吉田民人(編)『社会学の理論でとく現代のしくみ』(新曜社)

あれ、孫引きになっちゃったよ。とまれ、石川憲彦は文献リストに載っていて、ようするにこういう方向性でいきたい、という方針はわかるのだけど、はっきりいって古いですから。残念。
つか、この程度のフィールドワークにてきとーな方法論をいい加減にくっつけただけの「修論」は日本中にうんざりするぐらいの量ありますから。や、もっとましなのがいっぱいありますから。残念。
新曜社はなんでこんなの出してんの?売れるから?売れる本出したいなら、社員全員新潮社か講談社に就職すればいいんじゃね?子会社になるとか。クルターもドンズロも再版できないなら出版社ごとたためよ。ってこった。
あのお、「教育問題」に関心を持って、こういう本買っちゃうあなた、断言しますが搾取されてますから。残念。


稲葉氏が、「不登校者をサバルタンと捉える」ことを擁護していることにも、違和感を感じるよ*1

いろいろ嫌味を言われそうな、不登校者を〈サバルタン〉と捉えることにも十分な理由がある。(本来「サバルタン」の概念自体が、そういう融通無碍なものなので、変に神秘化したり特権化してありがたがるものではない。)対抗言説としての「明るい不登校」の主体的な選択、という物語では掬い取れないリアリティを多くの不登校者は抱え込んでおり、そのリアリティは往々にして結局のところ語れない――当事者自身にさえ語りえない、語れるようになった時には、既にそのリアリティを過去に対象化していて、既に〈当事者〉ではなくなっているのだから――という指摘は、たしかにもっともである。
しかしながら考えてみるにそのような意味での〈当事者〉=サバルタンの語りの「不可能性」とは、いったいどのようなものであろうか? それはたとえば「パラダイム論」でいうところの「不可共約性incommensurability」と類比的に考えることができるのではないだろうか。ということはつまり、「不可共約性」の概念を強くとりすぎることに対するドナルド・デイヴィドソンの批判のアナロジーが、これに対しては有効になるのではなかろうか。大変に難解だが以下の引用が参考になるだろう;

(大幅に中略)

貴戸のいう「不登校の語りえなさ」とはそのようなものである。「不登校に理由はない、それは語りえない」とは、この「根源性」のレベルにある。それはそのとおりだ。しかしながらそれを裏返せば、この「根源性」とは無意味であるということ、そしてまた「非根源的」なレベルにおいてはいくらでも有意味に語れてしまう、ということでもある。と言うより、有意味な言葉でもって語れるのは「非根源的」なレベルだけだ。その語りを通じて「根源的」なレベルの無意味な「語りえぬもの」を示し、伝えるという課題は、この間大塚英志が強調してきたように、基本的に文学の課題なのではないだろうか。だからこそ「サバルタンスタディーズ」はまずは文学研究として登場してきたのである。

「語りえないもの」は、〈登校/不登校〉のバイナリ・コードの内部に生じるパラドクスに過ぎない。そのパラドクスを当該コードがいかに処理しているか・隠蔽しているかは外的観察にとっては語りえないものでもなんでもない。
これはべつに社会学者の仕事なんかじゃなく、誰でも・何でも、つまり当事者だろうがなんだろうがすでに知っているはずのことだ(ある当事者〔人間?〕が単一のバイナリ・コードである、あるいは単一のバイナリ・コードのみを用いて観察する、などということはほとんどありそうもない)。
いいかえれば、サバルタンがいるはずだ、ある種の「当事者」はサバルタンだ、と観察できる・わかるのは、バイナリ・コードのパラドクスの隠蔽・処理と、同時に隠蔽・処理をそのコードの外で外的に観察しているからであり――あるいは「から」ではなく、そのような内的・外的観察の同時性がそのまますなわち「サバルタンの『発見』(といって語弊があれば『感得』)」という事態そのものの謂いなのであり――「根源的」でも「非根源的」でもない*2

そういえばぼくはむかしASNセンセの「自己物語論」をひてーしんがくだとかいって批判めいたことを言った覚えがあるが、最近になって理解しかけてきたのは、そこでの「語りえないもの」は内的観察にとってのパラドクスであり、外的観察を排除しているわけではない、したがってひてーしんがくだという批判はあたらない、ということなわけですが、しかしASNさんの議論は内的観察にのみ準拠しているわけではなく、かといってカウンセラーによる外的観察にのみ準拠しているわけでもなく、かなり複雑な現場の記述をしようとしているのだということがいまさらわかってきて、ごめんなさい、というか再読再読。

*1:擁護できない、と言いたいのではない。

*2:〈根源的/非根源的〉区別を用いる観察者は、そこで生じるパラドクスを隠蔽・処理している手続きを外的に観察されることになる