コミュニケーション弱者のアイデンティティ・ポリティクス。

だいだい、軽度の非コミュなら、一般の社会でも普通のカオして生活してるんだけどなぁ。ただ、"ぶっちゃけた"関係を他人と築けないというだけで、ひととおりの振る舞いはできるから、逆に目立たないのかもしれないけど。個人的印象では結構な割合で潜伏してると思うンだよねぇ。だけど、性質上、ジェンダーばばぁのように「全国の非コミュたちよ、決起せよ!」とかにはならないんだろーなぁ・・・。

↑この記事へのはてブコメントで「えーぼくは昔から「万国のコミュニケーション弱者よ、決起せよ!」って言ってたよ。」と書いたんだけど、自分のHD内を「コミュニケーション弱者」で検索しても見つからなかった。
あれーどこで書いたんだっけな……
絶対書いたはずなんだけど。
見つかった過去日記をいちおうコピペ。

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8月11日(金)

■御盆休み真っただ中ですね。みなさんいかがヴァケーションでしょうか。この休み期間を利用して、ちょっと頭の体操をしてみましょう。せっかくインタアネットに接続しているわけですから、ここいらで少しインタラクティヴなホームページをめざしてみましょう。クイズをだしますので、なんらかの形でレスポンスをしてみて下さい。たんにクイズ(問題)に解答するだけでもかまいませんし、とにかく自分なりの応答を可視的に出力することを目指しましょう。

■さて問題。現代日本、こんな御時世ですので、「社会」というものにも変化が訪れます。たとえば、今の日本では、企業であれ学校であれ、家族であれサークルであれ、いかなる場所においても「コミュニケーション能力」が要求されるとよく言われます。企業で知識や技術が要求されるのは当然のことではありますが、それ以前に「人間として最低限のコミュニケーション能力」がなければ、組織における情報伝達・創発が効率良く行われず、結果として使い物にならない、というわけです。

■えーと要するに、今よのなかでは、『コミュニケーションのできる人間』と、『コミュニケーションのできない人間以下の奴』とに、とりあえず二分され、『人間』だけで社会を運用して行きましょう、ということになっているわけですね。

■はい、クイズ。じゃー人間以下のぼくたちは、いったいどーしたらいいのでしょう? 飢え死にすればいい? うーん、正しい答えではありますが、ぼくたち黙って死ぬと思う? 最後っぺっていうか、いちおーキレるんじゃない? ふざけんな!ってね。好きでコミュニケーション弱者に生まれてきたわけじゃねーぞってね。そんなぼくたちは、こんなですから、確かにオーガナイズされにくく、強力な反社会集団にはなりにくい。せいぜい身近にいるムカつく奴を刺すとか、精神薄弱の子供の首を切断するとかが限度でしょう。その程度のリスクならば、社会全体で受け持っても割に合うんじゃないかという解答が、もっとも正しいかもしれない。

■ただ、ぼくがここで期待している解答は、もっとミクロな観点からのものです。子供の首が切り落とされる確率、サリンがまかれる確率は、社会全体では確率統計学的に予測可能なものかもしれない。ところが、自分が、あるいは自分の身近にいる人間がやられる確率は、予測不可能なタイプのものではないか。要するに、社会全体では「やられる」確率が0.5%程度だとしても、自分がやられるかやられないかはそれこそ0か1かの50%の問題として予期していなければならないわけですから。

■解答例としては他に、「普通にあいさつして、普通に会話をすればよい」というアドヴァイス型がありますね。でもこれはダメ。「普通にあいさつできない、普通に会話をできない」奴をコミュニケーション弱者=人間以下の奴と、ここでは定義していますから。

■ぼくが(1個のコミュニケーション弱者として)いつも思うのは、文句をいったり陰口を叩く前に「メソッドを示しやがれ!」ということね。挨拶できなくて苦しんでいる奴に向かって「挨拶しろ」というのは、足の無い人に「走れ!」というようなものでしょう。目の見えない人を、視覚を必要とする職種に採用しないのは差別ではない、というかもしれない。しかし、目が見えないにもかかわらずその仕事がしたい人に対して、差別じゃないから排除しますといった瞬間に、とてつもなく大きな悲しみが訪れるのではないだろうか。ぼくたちは、差別と闘うことを否定はしない。でも、ぼくたちは「差別」以上のとてつもなく大きな悲しみにこれから直面しようとしているのではないだろうか。

■えー、とりあえず、以上がクイズです。ではまた、御盆明けに。

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6月27日(水)   コミュニケーション弱者差別に抗して

今日のニュース番組で、小さな扱いだけれど、小泉・石原会談が話題にのぼっていた。このニュースが多くの「主権者」にとってより現実感をもったものとして―――ハイパーリアルな、「強度」のみを持った現実感として(なんて、つまらない社会学者の言葉を反復するのは反吐が出るようなことだけれど)―――放映され、受容されたことは、「外国人」を排斥することででっちあげられる極右的な近代国家と―――また、これと切り離すことのできないことであるが―――「民営化」の名のもとで世界資本主義を駆動する「想像の共同体」が、「想像」を絶する力を得ていることを明らかにした。ベネディクト・アンダーソンがいくら近代国家は「想像の共同体」に過ぎないといったところで、共同体の強度が弱まることはない。しかし、今なにが現実に生じているのかを認識することなしに、資本への対抗も国家への抵抗もありえない。

個人の日記サイトで愚痴を書くとたいてい嫌がられるし、ぼくだって訪問者を増やしたいと思って続けているのだから、あまりネガティブなことは書きたくないと思っている。けれど、ぼくが一貫してテーマにしていることでここ最近書いていなかったことがあって、それはやっぱり書いておくべきじゃないかと、強く思った。だから言います。いいかい?よく聞いて。

何度も書いていることなので、「なんだまたか」と思う人もいると思うのだけど、ぼくが派遣で通ってる会社の人のなかで、いまいちポイントをおさえていないと思える人が何人かいるので、もう一度はっきりと述べておきたい。それは、第一に、今現在、資本の運動はコミュニケーション弱者に対する差別という形で進行しているということであり、第二に、コミュニケーション弱者への差別は、コミュニケーション上の誤った帰責のプロセスとして生じている、ということだ。

まず大前提として、会社組織としての仕事の運用はコミュニケーション能力に依存するという了解がある。ここでいう「コミュニケーション能力」は、外国人との英会話スキルだとか、営業担当のような口からでまかせを吐けるような技能のことではない。普段から自分の隣にいて、まったく了解不可能ではないけれども完全にその「内面」を理解することができないようなものに対する「恐れ」を抱かないような能力のことだ。

「コミュニケーション弱者」という語彙は、実のところそれ自体が、コミュニケーションプロセスの帰責が可能にしている語彙である。いわゆるアイデンティティポリティクスの一環として、「コミュニケーション弱者」という日の当たらない存在に尊厳を付与するという機能を、この語彙が持っているのは事実だ。コミュニケーション弱者たちの感じているキツさ、辛さを表象することができるだろう。コミュニケーション弱者がコミュニケートできないのは、コミュニケートが嫌いだからでもなければコミュニケートしようという意欲がないからでもない(「嫌い」だとか「意欲」だとかいった因果帰属は、いずれも遠近法的な錯視による帰属上の概念、類型的語彙で納得しているだけの振る舞いだ)。コミュニケーション弱者たちは、コミュニケートできないこと、あるいはコミュニケートがせき止められるというプロセスが帰責されることに、莫大なコスト負担を強いられる。この不正を理性的な討議にのせることができれば、アイデンティティポリティクスはとりあえず成功ということになるだろう。

しかし我々はその「先の」問題を念頭に置かなければならない。なぜ「プロセス」にすぎないものが「主体」に帰属されるのか。なぜ資本の運動は「主体」への帰属を経由しつつ剰余価値をもつことになるのか。

モリス・バーマンがレインを引きながら分裂病患者を分析しているように、≪患者を捉えているのは、遺伝子とか脳の化学作用とかが引き起こす神秘的な「病気」ではなく、何年にもわたって続いているプロセスでありパターンである≫(『デカルトからベイトソンへ』、[257‐258])。患者は、メタコミュニケーション能力の障害をその核にもっており、通常は了解不可能な回りくどいやり方で―――それでいてきわめて明快に―――コメントする。ベイトソンの仮説は、このような回りくどいメタコミュニケーションは、現在も進行中の精神的外傷的状況を表現するものであり、複数の論理階型が衝突しあっているという、形式論理的構造を持っているのではないか、というものだ。

先日の小学校での殺傷事件が代表するように(本当は代表=表象しない。評論家が「現代社会の病理」という神秘的な語彙で表象しているにすぎない。それはコミュニケーションでありコメントそのものなのだ)、コミュニケーションプロセスの「個人」への帰責は、「刺す」とか「切る」とかいった物質的な形でコミュニケーションを・コメントを流出させる。それは程度問題ではなく、つまり過剰な帰責と普通の帰責とがあるのではなく、帰責という現象そのものがはらんだ矛盾だ。

この矛盾を考えていない企業や教育機関や、各種の「公的」組織は、いずれ物質的な形での矛盾にさらされるだろう。つまり、不景気だとか不登校だとかリストラだとかといったシンボル的・記号的な操作ではなく、もっとあからさまに、家族を狙った殺人や暴力や、「刺す」とか「切る」とかいったことが大量に発生することになるだろう。

なんか「コミュニケーション」で検索してたらアタマオカシイ記事がぼろぼろ出てきてワロタ。

  • 2000年の自分の日記:

1月28日(日)

■今日は TOEIC の試験日。結果から言うと、前回より若干点数落下。当初の意図は、「3ヶ月の勉強でどれだけ点数が上がるか」、という実験だったのに、「なぜ勉強すればするほど点数が下がるのか」という問題に次元が移ってきた。

■確かに最近は(以前からだが、ますます)意識が明瞭である時間が少なくなってきている。ぼくには、それが発話されたものであれ書かれたものであれ、「言葉」を「言語」として認識する能力が、著しく欠けている。だから大学の授業のような、発話の「現前性」に依存したコミュニケーション形態に直面するといつも、発狂して叫び声をあげ、自分の頭部を爆破させたいという欲求に駆られる。今回の試験でも、ぼくの目の前に置かれた問題用紙に染み込んだ奇妙な形のインクの広がりが、いったい何を目的に、何に向けて構成されたものであるのか、理解するのにとても苦労した。ぼくは叫び声をあげて問題用紙を切り裂いて発狂してしまいたくなる欲求に何度も襲われた。

■この苦しみからぼくはいったいいつになったら開放されるのだろうか。やはり存在そのものを消してしまう以外に方法はないのだろうか。

ほかにもいろいろ出てきて面白かった。
過去の自分はとてもいいことを言っている。誰でもそうかもしれないけど。