リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』を見た。

センス・オブ・コミック
2013年に公開された『マン・オブ・スティール』の続編。ヘンリー・カヴィルエイミー・アダムスダイアン・レインら、続投のキャストに加え、ベン・アフレックジェシー・アイゼンバーグジェレミー・アイアンズガル・ガドットらが参入。監督は引き続きザック・スナイダー


メトロポリスで突如始まった異星人による死闘。その破壊力はいともたやすく地球を破壊してしまうほどの力であった。その光景を目の当たりにし、部下も友人もなくした実業家のブルース・ウェイン(ベン・アフレック)は異星人=スーパーマン(ヘンリー・カヴィル)を脅威として認識し、ブルースのもう一つの顔であるバットマンとして見過ごすわけにはいかなくなった。そしてスーパーマンを救世主ではなく脅威として認識させてしまう事件が再び起こった。世間に広がるスーパーマンへの疑問。そこへ、彼の動向を伺うレックス・ルーサー(ジェシー・アイゼンバーグ)という若い実業家が現れ・・・・

※ネタバレ



各キャラクターに対し単独作品を用意し、さらに彼らが集合する作品内においても周到な準備を忘れなかったことによって漫画的表現や飛躍を可能にしたのが『アベンジャーズ』であった。つまりこれは理想的な漫画の映画化と言えるのであろうが、それに対し真逆のアプローチ、つまり映画の漫画化を推し進めると、この『バットマンvsスーパーマン』になるのではなかろうか。映画の漫画化とは何かというと、本作の場合ショットや情報の積み重ねとその流れによる効果より平面的なキメ画が重視されているということであり、細かい説明や準備は省かれたまま、情報の記号だけで押し進んでゆく。その情報量を「僕の知ってるカッコいい映像」で押し切る力は確かに凄いのかもしれないし、原作を知らないと理解不能な部分さえ構わずにブチ込んでくるのはある意味画期的なのだが、それを手放しで褒めるということはできない。幼きブルース・ウェインが恐怖を体験し、そして怒りが鋼鉄の蝙蝠を羽ばたかせるまでのプロセスを繋げて見せる冒頭に関しては、『ウォッチメン』のオープニングクレジットを超えて良い意味での漫画的表現を完成させてはいるし、前作の大破壊シーンをほとんどテロかの如き視点で語るのも冴えた方法だ。しかしその後はあまりにも情報がゴチャゴチャしているために、芯の部分では一本通っていてもそれがかなり伝わりづらくなっているのではないかと思う。



例えばバットマンとスーパーマンの対峙や根底の価値観、相反する部分と理解し合う部分の配置は問題ないにしても、語り方に難がある。つまり父と母の存在がそれにあたるのだが、本作からの仕切り直しとなるバットマンはいい。これはまず、バットマンの物語においては父と母、そして自身の存在と敵対する存在への憎悪というドラマに一貫性があるからである。またベン・アフレックの顔が醸し出す説得力にも凄みがあり、光の消えた目の奥に燃える黒い怒りと肉体が、これまでとは違うバットマン像を作り上げている。
問題なのがスーパーマンである。『マン・オブ・スティール』の続編となる物語なのだから、スーパーマン関連の事柄が多く含まれるのは当然であり事実そうはなっているものの、ドラマの濃度は明らかにバットマンの方が濃く、スーパーマン側の物語はテーマに対する描写が中途半端で、明らかに弱い。それなのに映画全体としてはスーパーマンが中心に存在しており、バットマンの直進性は中心たるスーパーマンにとって道路脇から石を投げられた程度に過ぎず、その食い違った衝突に興奮が生まれる術はない。いくら芯の部分ではつながっていようと、クロスのさせ方がうまくない。
またスーパーマンにとっての軸となるべきロイス・レーンとのシーンも悉く良くない。ロマンスとしても陰謀追跡劇としても中途半端だ。超人世界において、戦闘で活躍させる必要はないにしても、足手まといにさせる必要は更にない。だから彼女については前半で中東の陰謀などという、なくても成立するような陰謀劇を用意するのではなくしっかりとロマンスで見せておけば、終盤でも場にそぐわない愁嘆場と水に潜るなどという不要なシーンを入れずに済んだのではないか。ここでもまた、スーパーマン側の弱さが際立つ。
レックス・ルーサーについては、一見『ダークナイト』のジョーカーに似ているようにも見える。しかし彼が違うのは肥大化し尊大となった承認欲求という面を持っているからで、その点においてマーク・ザッカーバーグことジェシー・アイゼンバーグをキャスティングしたのはなるほどというところだし、また面白いのは手の動きだ。彼はよく、手を置く、手をやる、というような動作を繰り返す。これは決して友好の印ではない。その手は相手を押さえつけ威圧するという自分勝手な主張の方法であり、相手を見下す、もしくは相手より優位に立ちたいという欲望の証拠である。ここでまたジョーカーとの違いというのは、ジョーカーの場合、手を浮遊させた状態にあっては相手の重力をこそ奪い反転させることが出来てしまうものの、ルーサーはそういう状況において、例えばスピーチをしなければならないときにはむしろ、自分が浮遊してしまうところにある。そしてルーサーは、手を触れさせず支配下に置けない相手に対しては、排除という極めて幼稚な形で世界に対する自らの特権性を保とうとするのだ。スーパーマンがしたある行動に対して、ビルの屋上で恍惚とした表情を浮かべる瞬間にこそ彼の特異性がある。



演出面でいうと、バットマンとスーパーマンの位置関係が常に上下で示されるというのは悪くない。バットマンは下へ下へと潜り込む男であって、それはレックス・コープ社の秘密を盗む時であろうと肉体の鍛錬であろうと、常に下へ下への男だ。対してスーパーマンは上へ上へと行く。バットマンが下へと潜る際もビルに取り残された少女を救うため上へ。肉体の鍛錬に対し精神の旅に出ても雪山の頂上へと彼は参る。したがって対決の際も上へと放り投げるスーパーマンに対して、バットマンは常に下へ下へ落とそうとする。結果的に、バットマン磔刑されたキリストを聖骸布に包むが如く、スーパーマンを下へと降ろさなければならなかったのだが、そのことにより新たなる正義は誕生した。違うステージに居ながらも、実のところ浮遊のイメージで繋がっていた彼らは、そうやって初めて同じ正義を見つめることが出来たのではないか。



さて、ここまで不可思議に突き抜けた作品に対して長々と賛とも非とも纏まらぬ感想を書きてきたものの、ある一点については、僕は手放しで称賛したいと思っている。それはワンダーウーマンについてだ。ワンダーウーマン。一体そのワンダーさはどういうことなのだというくらいに彼女の存在が素晴らしい。なぜその恰好なのか。なぜその写真なのか。なぜその音楽なのか。全体のトーンにそぐわないとは思わなかったのだろうか。だが、そこがいい。彼女が手をクロスさせて戦場に降り立った瞬間の「なんか来た」感は言いようのない魅力に満ちており、まさにワンダー。それがジャスティス。こういうことをやってのけるその力強さに、僕は拍手してしまうのであった。