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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

10年まえのレポート(「民族フリー」のヤマト人)。

 大学1年生のとき、なつやすみの宿題が でました。ショーック。原稿用紙 10枚以上。


 わたしは、やまぐち県立図書館に かよって、「沖縄―「少数派」としての苦しみ」というのを かきました。少数派のところには、「マイノリティ」と ふりがなが ふってあります。いまでは、こういうことは しないですね。少数派の ふりがなは、あくまで「しょうすうは」ですから。
 原稿用紙に てがきです。時代を 感じさせます。もくじを みてみます。


一、はじめに
二、皇民化政策について
三、完全に本土に同化した沖縄人の姿
四、復帰後の本土化―「本土並み返還」について
五、沖縄問題に本土日本人はどのように取り組んでいくべきか


 「完全に本土に同化した」というのが誤解を うけそうなので、説明しておきます。これは、ある おきなわ人の本を 批判的に検討したものです。


もし、沖縄が画一的な日本本土の文化、風俗に「浮いている」が故にヤマトンチュから差別を受けたのであれば、非難の眼はヤマトンチュに向けなければならない。
といったことが かいてあります。当然のはなしですね。


 さて、それでは「五、沖縄問題に本土日本人はどのように取り組んでいくべきか」の全文を ごらんください。よみがなを くわえています。


 本土日本人がいかにウチナーンチュを差別し、ウチナーンチュの人権を無視していたかは、明治36年に起こった「人類館事件」にもはっきりと表れている。

勧業博覧会のうちの学術人類館というセクションに、ふたりの沖縄女性が陳列されていた。女たちは高麗煙管(こーれーきせる)とクバの葉の団扇(うちわ)をわきに茅葺(かやぶき)小屋に坐っており、笞(むち)を持った男が「此奴(こいつ)」は、と女たちを呼びつつ説明していたという(大江健三郎(おおえ・けんざぶろう)『沖縄ノート岩波新書、186ページ)

こうしたヤマトンチュによるウチナーンチュへの差別意識が現在において見られることはない。しかし、「画一的なヤマト」と「独自性の強い沖縄」という関係は今でも変わることはない。従って、ヤマトンチュは独自の沖縄文化に対し、その独自性を認め、そしてアイヌ文化などと共に相対化していく必要がある。「多数」が「少数」に対し権力を行使することは許されるべきではない。そして、平和を願う思いの強さは「ヒロシマ」、「ナガサキ」と何ら変わることのない沖縄に軍事基地が存在することに対して、断固として反対していくべきである。そうしなければヤマトはいつまでも「少数派を苦しめる多数派」として非難され得るのであるから。あくまで「沖縄の苦しみは日本の苦しみ」として認識していかなければならない。「本土」という言葉を使って日本から沖縄を切り離して考えるべきでは決してないのである。

 ふしぎなもので、いまと かわらないようなことも かいてありますね。もちろん、いまなら「画一的なヤマト」とは いわないでしょうけれども。


 さて、ただ むかしの文章を ほりかえすだけでは そっけないので、「民族」の名前について かきたいと おもいます。ヤマトという表現に、むかしの わたしから 刺激を もらいました。


 朝鮮人アイヌ人、おきなわ人などではない 多数派の日本人は、「なにじん(何人)」なのでしょうか。日本人? それでは どうも つごうが わるいです。


 日本国籍人という軸を つくるとして、そのなかには、朝鮮人アイヌ人、おきなわ人も ふくまれます(もちろん、朝鮮系の ひとたちには 朝鮮籍や韓国国籍の ひとも います)。「日本国籍を もつひと」という意味での「日本人」と、民族としての「日本人」が おなじ名前では、しばしば はなしが 混乱してしまいます。
 そこで、「ヤマト人」や「和人」という名前を あてがうこともできるでしょう。ですが、わたしを ふくむ 多数派の日本人は、「ヤマト人」や「和人」という表現を 日常的に つかうことなど ありません。なぜでしょうか。


 それは、「民族」という観点を かかえこむ必要が ないからです。端的にいえば、「多数派には名前がない」ということです。それは 自分たちが、民族と国籍というカテゴリーを ごちゃまぜにして とらえていても、とくに問題が 生じないからなのです。とくに問題ではないと 認識しているからなのです。


 「民族」であるとか「エスニック」ということは、自分たち以外の どこか とおいひとたちのはなしであると 「おもえてしまう」のです。そのように、「おもえていられる」のです。

 うえの記事を よんでください。


にほんじん(日本人)、あいぬみんぞく(アイヌ民族)、つちぞく(ツチ族)…。ごらんなさい。ここには、あきらかに序列が もうけられている。その序列を設定しているのは、じん(人)=多数派日本人に ほかならないのだ。
 うえのような序列を 排除するなら、すべて「じん(人)」と よぶ必要があるでしょう。ヤマト人、アイヌ人、ツチ人といった ぐあいです。こうしなければ、相対的に とらえることは できないはずです。


 わたしは なにも、ヤマト人としての自覚を もって 行動しようと いいたいのではありません。だれかが「ヤマト人としての ほこりを」などと いったとしても、なにを どうしたいということなのか、わたしには 理解できません。ここで わたしが いいたいのは、国民国家のなかで、「民族というカテゴリー」から 自由で いられる ひとたちは、特権的な たちばに おかれているということです。特権を たのしんでいるのだということです。


 民族という観点から 自由で いられるという、「民族フリー」の「日本人」の たちばから、「民族は幻想だ」ということは、もしかすると、かんたんなことなのかもしれません。なぜなら、それまで いちどたりとも、民族というカテゴリーを ひきうけたことがないからです。小説や映画の『GO!』で主人公が かたっていたような、民族のアイデンティティの相対化は、ヤマト人にとっては、うまれたときから当然のことだったのです。


 もちろん、なんらかの不安によって「自分さがし」や「ほんとうの わたし」を もとめる ひとは、どこにでも いるでしょう。けれども、民族的な意味で、「わたしとは いったい だれなんだ」と、そのように自問自答する ひとは、ヤマト人には いないのです。


 その現実を うけとめてからこそ、民族というカテゴリーの問題を 意識し、議論し、そして、民族というカテゴリーを くつがえすことが できるはずなのです。
 いかがでしょうか。


「他者」をアイデンティティの政治の隘路(あいろ)に まよいこませる多数派の生活。だれでもなく、属性もないという権力。アイデンティティからの自由。『GO!』の最後で主人公が だした結論のようなものが、じつは多数派日本人が毎日、当然のこととして享受している日常なのだ。この非対称性をみつめる必要がある。
映画『GO!』と『血と骨』 - hituziのブログ 無料体験コース より)


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