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法華狼の日記

3000-01-01 このダイアリーについて

hokke-ookami3000-01-01

日記の主な話題は、アニメやネットや歴史認識についての感想。


記事リストは以下。自作小説、へのへのもへじ、アニメや諸文化や歴史にまつわるデマ、等々。

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2016-05-23

[]アニメを見ていたらWindows10へのアップデートが勝手に始まった件

「アップデートするようせまってくる選択を間違ったのが失敗だったらしい」

スパムかな」

「アップデートをキャンセルするボタンを押したら、少ししてパソコンがフリーズした」

ウイルスかな」

「気づかないうちにアップデートするためのデータが5GBもインストールされていた」

悪性腫瘍かな」


6月くらいに余裕をとってアップデートを試してみるつもりではあったが、時間がかかって少なくないソフトが使えなくなるアップデートを勝手に始められるのは困った……

2016-05-21

[][]自民党による18歳選挙権の啓発パンフレット『国に届け』の、薄っぺらく男尊女卑な漫画について

雑なパンフレットをどのように読むかという問題

どれほど自民党が若者を軽く見ているか、このパンフレットでよくわかる。

18歳選挙パンフレット「国に届け」 | 自由民主党

すでに各所で批判されているが*1、縦書きの右開き漫画なのに、左開きビューワーを使っている謎。

アップロードした時に形式をミスしただけかと思ったが、印刷用のPDFファイルも見開きで左開き形式。

https://jimin.ncss.nifty.com/18voice/kuninitodoke/origin/all.pdf

後半のテキストが横書きだから左開きなのかもしれないが、それでも見開きを1頁ずつずらせば対処できるはずだ。

しかたなくPDFファイルを各自の環境で1頁ずつ表示して、ようやく漫画としてまともに読める。


薄い漫画なのに無駄な描写が多すぎる

漫画の内容はというと、遅刻して職員室に呼び出されるような「バカ」な少女の安田アスカが、生徒会長をつとめる「イケメン」な少年の浅倉と共通の話題をさがして、選挙について学ぶというもの*2

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ややラフな絵柄だが、同年代でも体型と顔立ちを描きわけているところはいい。コマ割りの技術も悪くない。

しかし高校生なのに「さんいんナントカって私も行けるんだっけ!?」*3と浅倉に問いかける場面など、とにかく主人公の無知っぷりが強調されている。

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背景の少女ふたりは内心でツッコミを入れているが、正確な情報を指摘しているわけではない。ふたりも選挙についてよく知らないという読みもできてしまう台詞だ。

こうして無知な少女が知的な少年に導かれるという構図のまま漫画が終わる。いかにも自民党らしい男尊女卑な漫画と評されるゆえんである*4


表紙や座談会などの後半をのぞけば実質8頁と短い漫画だが、男女比を整えることは難しくない。たとえば浅倉と会話している佐藤を、優等生の少女にでも設定するだけでいい。

佐藤というキャラクターは、浅倉につきはなされた主人公の疑問に答えたり、優しくフォローする立場だ。しかし結末に3人で選挙へ行くことになっても、主人公が佐藤を見直すこともなければ、邪魔者に思うことすらない*5

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最後まで教え導く立場を分担するだけの無色透明なキャラクターで、ただでさえ薄い頁数を無駄に使ってしまっている。安田が目うつりしたり、三角関係になったりすることはない。

ここで佐藤を少女に設定すれば、主人公がふたりの関係を疑うという発端から、会話に聞き耳をたてて共通の話題を持とうとする動機につなげやすいだろう。そして優しくフォローしてくれる少女に好感度が反転すれば、同じように3人で選挙へ行っても、主人公が男女関係にとらわれたままという結末にはならない。発端が何であれ、知見を広げて選挙そのものへ興味をもつという物語になるはずだ。

設定だけして物語において機能していないのは浅倉もそうだ。生徒会長という立場どころか、母親が議員をしている*6という情報も台詞で語られただけで終わる。ただでさえ頁数が少ないのだから、ここは佐藤も生徒会役員にするべきだろうし、選挙の描写に浅倉の母親もからめるべきところだろう。たとえば浅倉母の政党に投票すると主人公が軽く考えて、そのような判断で投票するべきではないと浅倉に批判される描写くらいはほしい。


さらにいえば、主人公が遅刻する導入から、物語における必然性が足りない。いかにも少女漫画らしいパターンとして深く考えずに描いただけのよう。

一応、結末で浅倉や佐藤より早くきており、主人公の成長を演出していると読むことができる。しかし頁数に余裕がないので、すぐ次のコマで別の話題にうつってしまった*7

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そこで語られる判断が「私なりに理念とか志とか調べたもん!」という漠然とした台詞だけなので、「へぇ、えらいね!」などと賞賛されても、あまり成長したように感じられないのであった*8。ここは投票期間に間にあわなくなるという会話を1コマはさんでほしい。


宣伝するべきものが違うから、進研ゼミのような漫画にしても効果がない

そもそも、この漫画において主人公が「バカ」である意味はない。あまりに無知すぎて教えられたり学んだりする情報量が少ないし、さすがに自民党をそのまま推すような具体的な政策論は描かれない。


これが教材宣伝漫画であれば、低かった成績が良くなり、恋愛や趣味などの生活と両立するという展開にこそ意味がある。

つまり選挙啓発漫画として意味のある展開というと、学校という閉じられた空間に生きていた主人公が、開かれた社会に興味を持つといった物語になる。

いっそ学校の成績にしか興味のない優等生を主人公にしてもいいくらいだ。


たとえば、優等生な主人公は、不良が政治パンフレットを真面目な顔で読んでいる姿を見かけて、好奇心から追いかけるという導入はどうだろう。

不良というのは思いこみで、家族をささえるため学業よりアルバイトを優先して、大学進学をあきらめていることを主人公は知る。不良の家庭で夕食をごちそうになりながら、政治が生活に直結する世界を主人公は実感する。そして見下していた不良が先に大人になっていることを痛感して、意味がないと思っていた選挙にも興味をもっていく……という物語はどうだろうか。

この優等生と不良のように対等の関係ならば、男と女、女と男、男同士、女同士、どのような性別でもなりたつだろう。パンフレットに使えるような漫画にできるかはともかく。


漫画の外で、実際の自民党は何をいっているのか

それはさておき、パンフレット後半の、未成年を呼んでの座談会も読んでみた

「核心をつく質問にタジタジの場面も」といいつつ、そこは政党パンフレットなので自民党をフォローする内容なのはしかたないところか。

しかし、牧原秀樹青年局長の発言がなかなか味わいぶかい。たとえばアベノミクスを手放しで賞賛しているのだが*9

消費拡大という点から見ると三重苦の時代です。

 にもかかわらず、現状はアベノミクスが功を奏して、景気は以前より好転してきています。とくに雇用の面では、失業率は大幅に低下、有効求人倍率は過去最高水準。

後戻りせずにこの勢いを維持し、今後どうやって地方に景気の波を波及させていくか、いま抜本的な対策を練っています。

しかしどのような候補者を選ぶべきかという質問に対しては、財源問題を持ちだす。アベノミクスはリフレ政策ではなかったのか*10

日本はいま時代の曲がり角にあります。少子化の一方で、高齢化が加速し、財政の赤字はふくらむ一方です。

わかりやすい主張をすることは大事だけど、面白いことを言ったり、甘いことを言うだけでは無責任ですね。財源の裏付けもないのにあれをやります、これもやりますという政党は注意したほうがいい。それと、むしろ厳しいことを正直に言う候補者に注目してもらいたいですね。



さらに牧原秀樹facebookを見ると、18歳選挙権にからめて教育現場の情報を求めていた。

牧原 秀樹 - 私の甥が行っている小学校で、絵画の演題が「戦争反対」だったそうです。もちろん法案審議中の頃で政治的意図... | Facebook

私の甥が行っている小学校で、絵画の演題が「戦争反対」だったそうです。もちろん法案審議中の頃で政治的意図が明らかな状況でした。偏向的な文言入りの文具を配ったと北海道で問題になっていますが、偏った公立での教育は大問題です。もし、その他の実態をご存知の方がいらっしゃれば教えて下さい。18歳選挙権前に公的な教育現場における偏った政治思想の子どもたちへの押し付けは無くすようにしないといけないと思います。

パンフレットのQ&Aに「有権者が増えることが最大のメリット、課題はありますがデメリットはありません」*11という記述があるが、これが自民党の考える「課題」の正体だろうか。

牧原秀樹facebookは、台湾で交流した時のポストも味わいぶかい。教育や若者から遠ざけるべきと思うしかない歴史観だ。

牧原 秀樹 - 感動しましたし、考えさせられました。台湾の2日目、戦前生まれの多くの方にお会いしました。日本人として生... | Facebook

戦前生まれの多くの方にお会いしました。日本人として生まれ、素晴らしい教育を受けたのに、228事件ではひどい虐殺もあり、いつの間にか中華民国人にさせられ、独立もできない。未だに日本人の恩師には感謝し、日本で出会った地域の皆様に感謝し、お子様たちと交流もある、とのことでした。慰安婦のことも、あの時代を生きていた私たちからすれば、みんなが必死で、一途で、強制とかではなく、それで生き、家族も養うしかなかった。自分たちのところにも社会団体が来て強制労働と証言させようとしたが、私たちは断固自らの意志だったと否定した、ということを仰っていました。戦争のことはそれを本当に経験した当事者でなければ本当のことは分かりません。フィルターを通さない生のお話を伺う大切さを感じ、日本人としての誇りを感じた日となりました。

あえて事実関係は問わないが、228事件があったというなら、せめて霧社事件*12にもふれるべきだろう。

それに「日本人として生まれ」の後に「独立もできない」と主張したり、「日本人として生まれ、素晴らしい教育を受けた」の後に「慰安婦のことも、あの時代を生きていた私たちからすれば、みんなが必死」と主張するのは、はたして両立するのだろうか。

*1自民党の18歳選挙パンフレット「国に届け」マンガの評判も散々な件 - NAVER まとめ等。

*2:PDFファイル3頁目。

*3:PDFファイル5頁目。

*4:解説漫画で男性が無知な女性に教える構図は、2015年改憲パンフレットという前例がある。憲法改正を解説するという自民党の漫画が解説漫画としてありえない - 法華狼の日記

*5:PDFファイル8頁目。

*6:それとも、これが「女性活躍」アピール描写のつもりだろうか。主人公の母親は顔を出して会話をしているが、期日前投票に行ったという台詞があるだけで、選挙について説明したりはしない。

*7:PDFファイル8頁目。

*8:PDFファイル9頁目。

*9:PDFファイル14頁目。

*10:PDFファイル15頁目。

*11:PDFファイル17頁目。

*12霧社事件(むしゃじけん)とは - コトバンク

2016-05-19

[][]『ルワンダの涙』

1994年、ルワンダ共和国首都キガリに、キリスト教系の公立技術学校があった。

そこではイギリスから来た若い英語教師と、すでに根づいた老神父がつとめていて、周囲にしたわれていた。

しかしある日、大統領が暗殺されたと報じられ、フツ族の青年が英語教師のもとを離れた。

まもなく虐殺がはじまり、公立技術学校に現地人が押しよせる……


マイケル・ケイトン=ジョーンズ監督による2005年のイギリス映画。ルワンダ虐殺にたちあったBBCスタッフの体験談をもとに、BBCが製作した*1

BBC - Shooting Dogs - BBC Films

原題は“Shooting Dogs,”という。これを意識した邦題をつけるなら「犬なら撃てる」といったところか。現場にいながら介入できない国連軍が、死体を食いに集まった犬に対してだけ射撃の許可が出たという、劇中のやりとりを引いたものだ。

この映画そのものはフィクションだが、実際に起きた事件を題材にして、虐殺現場を撮影場所に使って、撮影スタッフにも虐殺被害者が多く参加している。


ホテル・ルワンダ』が状況に対する英雄的行為を描いた劇映画とすれば、『ルワンダの涙』は状況そのものを克明に描写した劇映画といえる。

個人の英雄劇ではないので、娯楽らしい高揚感は抑えられている。物語のまとまりは少し足りないが、隣人が信用できなくなる恐怖という一面ではすぐれていると感じた。

基本的には、公立技術学校を舞台にして、たちあった外国人の視点で描いていく。現地人の視点は切りすてており、いわゆる群像劇とは違うのだが、それでも多角的に虐殺そのものを見つめている。BBCの虐殺目撃者が共同脚本を担当して、あくまで外国人が監督しているという限界を、制作者が自覚しているつくりだ。

主な視点を担当するのは、現地語を話せない英語教師と、現地語に通じている神父*2。状況に精力的にかかわろうとする若者と、一歩引いた立場で会話をつづける老人。ふたりの現地への距離感が、状況の進展とともに異なる顛末をむかえる。


虐殺がつづくにつれて外国人も攻撃を受けるようになり、それでも必要にせまられて青年教師は街を探索する。古ぼけたトラックで誰もいなくなった街を疾走する。

あくまでドキュメンタリータッチのドラマだが、構造としてはホラー映画を思わせる。学校のフェンス越しに集まっているフツ族。誰もいなくなった街。あちこちに見える虐殺の痕跡。建物の陰に隠れた何かの影。なかなか暴力を正面から映さず、それが観客の恐怖をよびおこす。

生存者の英雄劇ではないので、技術学校に逃げてきた人々はもちろん、青年教師と老神父が生きのびるかどうかもわからない。街で出会う人々が虐殺に加担しているかどうかもわからない。混迷した状況を切りぬけるサスペンス映画としても完成されている。


そして事態が進行するにつれて、虐殺を起こしたフツ族と、虐殺されたツチ族、それぞれの人格も見えてくる。

たとえば『ホテル・ルワンダ』では主人公個人での共同体管理をせまられた。この作品では、学校の避難民は代表者の合議で生活を決めており、同席した神父は助言する立場にとどまる。名も無き避難民でも、それぞれに思考する個人であることを描いていた。

一方、最初に紹介したようにフツ族の好青年も登場して、消化しがたい存在感を残す。その家族を英語教師に紹介する場面が、公式プレビューで見ることができる。

D

青年が英語教師から離れ、鉈を手にとったのは、ツチ族の襲撃をおそれたためだった。隣人が信用できず、大切な人の身を守るために武器を手にして、それが虐殺につながったという一面が示唆される。再登場した時、青年は虐殺に使ったのであろう鉈を背後に隠す。外国人に警戒されないためかもしれないし、どこかで自分の行為を恥じているからかもしれない。いずれにせよ、そこにいたのは怪物ではない人間だったのだ。

青年の家族にいたっては、すでに虐殺が始まった後も家にいて、少なくとも外国人には敵意を見せない。自家製のひどくまずいバナナビールを、初対面と同じように英語教師へすすめる。


この物語に登場する人々は、状況を大きく変えることはできないが、状況を構成する一要素であることも確かだ。

組織としての宗教が手を引いても、個人の信仰が道しるべとなりうる。その道しるべにしたがった行動で小さな輝きが灯されることもある。

すべてが終わった後、あの出来事は何だったのだろうと人々はふりかえる。忘れることができない歴史として、1994年のルワンダが描かれた。

*1:劇中で、虐殺の進行を世界へ訴えようとして、現地にいたBBCに連絡をとろうとする場面がある。報道が無力なまま撤退してしまう結末のための手順とは理解するが、BBC作品でBBCに期待する台詞が出てきたことには、いらだちをおぼえてしまったのも正直な感想ではあった。

*2:この対比を確かめるため、できれば吹き替えで鑑賞することをすすめる。英語のみを吹き替え、現地語は字幕であらわすことで、教師と神父のルワンダとの距離感がそのまま体感できる。

2016-05-17

[][][]『アクト・オブ・キリング《オリジナル全長版》』

1965年インドネシアで、軍部に誘導された人々が、西側諸国に支援されて大量虐殺を起こした。

ある者は、ハリウッド映画を奪う共産主義者に対して、ハリウッド映画を真似た方法で殺していった。

やがて軍事独裁は終わったが、責任者は社会の中枢にいすわり、実行者は英雄として堂々と暮らしている。

そこで虐殺者は誇りある歴史を記録するため、ホラー映画のように流血に満ちた再現ドラマを演じはじめた……


デンマークノルウェーイギリスの共同製作による、2013年のドキュメンタリー映画。忘れられない大量虐殺の記憶をほりおこす。

映画「アクト・オブ・キリング」|公式サイト 2014年4月 シアター・イメージフォーラム他 全国順次公開

映画作家ジョシュア・オッペンハイマーは人権団体の依頼で虐殺の被害者を取材していたが、当局から被害者への接触を禁止され、対象を加害者に変更。彼らが嬉々として過去の行為を再現して見せたのをきっかけに、「では、あなたたち自身で、カメラの前で演じてみませんか」と持ちかけてみた。

上映版に45分ほどのシーンを追加して、2時間46分におよぶ全長版が、GYAO!で5月31日まで無料配信中。

アクト・オブ・キリング《オリジナル全長版》|GYAO!|映画

基本的に加害者の視点に限定しながら*1、インドネシアの日常生活と、キッチュ劇中劇コントラストで、映像作品として平板になることを防いでいる。題材が刺激的なこともあるが、飽きることなく最後まで集中して見ることができた。

そして同じ加害者にある温度差を映しとり、いまも虐殺を正当化しようとする社会の中で、ひとりの「プレマン」*2が心をゆらすまでを描ききった。


多重の枠組みで同じ出来事を映す、いわば“映画の映画”というべき趣向も興味深いものだった。

映画撮影の舞台裏、実際に再現された映像、鑑賞しながらの反省や論評、当時の反共国策映画、現在の国営放送……どれも虐殺を正当化しながら、重ねあわせると小さなズレが生まれる。そのささいな矛盾が、実際は加害者にも擁護しえない過去であることを浮き上がらせていく。

共産主義者の虐殺への嫌悪や色欲への羨望が語られたかと思えば、それ以上のことを実行していた虐殺者があらわれる。苦痛をあたえたことを正当化する発言があれば、苦痛をあたえずに殺したと正当化する発言もある。再現の手早さに対して当時に気づかなかったのも当然だと自己弁護する人間へ、同じ建物で気づかなかったはずはないと実行者が反論する。選挙に立候補した虐殺者にいたっては、「実業家労働者党」という立場から「労働者の権利のために戦います」と演説する*3

同時に、こうした枠組みで役割りを演じる被写体は、カメラを意識しているはずである。つまり虐殺者は、そこでの自身の発言が建前として成立していると考えている。そのことが、単純に虐殺の事実を隠したり、表層だけ懺悔したりするより、ずっと大きな価値観の断絶を浮き彫りにする。虐殺を正面から再現しているのに、それが現在でもプロパガンダとして通用してしまう社会。劇中劇の過去が、現在の現実と同化する恐怖。

*1:中盤で、虐殺者の隣人が被害者遺族と明かされる場面も、隣人が撮影スタッフとして加害者たちに体験を教える姿と、虐殺の被害者役として見せる演技のみが映しだされる。数人の虐殺者にかこまれて、11歳から12歳ごろの悲痛な体験を語る隣人の姿は、まさに善悪が逆転した社会の縮図だった。また、国営放送のキャスターが虐殺者を賞賛する一方で、それを演出するスタッフが辛辣に酷評する短い場面もある。そこに限らず映画の端々で、虐殺の実行者が社会から嫌悪されつつあることも見える。

*2:「自由な人」を意味する言葉らしい。当時は役人や軍人と違って束縛されず虐殺を実行できて、現在では華僑の商店など立場が弱い人々から金銭をまきあげている。おそらく日本のヤクザに近いが、ずっと堂々と統治者のようにふるまっている。後述の政治家に立候補した虐殺者も「プレマン」。

*3:1時間21分ごろ。