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法華狼の日記

3000-01-01 このダイアリーについて

hokke-ookami3000-01-01

日記の主な話題は、アニメやネットや歴史認識についての感想。


記事リストは以下。自作小説、へのへのもへじ、アニメや諸文化や歴史にまつわるデマ、等々。

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2016-09-24

[][]『忍者狩り』

将軍家光は幕藩体制を確立するため、口実をつくっては外様大名をとりつぶしていた。伊予松山の蒲生家も、後継ぎ相続における弱体化がねらわれる。

後継ぎを保証する「お墨付き」があるかぎり幕府は建前として蒲生家を守らなければならない。しかし相続の儀式までに失うと蒲生家は断絶させられる。

そこで蒲生家は「お墨付き」を忍者から守るため、とりつぶされた複数の家の浪人を雇ったが……


七人の侍』に影響されたという、モノクロシネスコ―プで作られた1964年東映作品。

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山内鉄也監督は1966年のカラー特撮映画『怪竜大決戦』が印象深いが、この作品は題材に比してトリック撮影が少なく、外様と忍者の戦いにかりだされる浪人の悲哀をシリアスに描いている。

『七人の侍』が野武士の視点を排したように、『忍者狩り』は庶民の存在を映像から排している*1。もちろん支配者内部の物語というわけではなく、日本の支配体制が確立するなかで体制からはじきだされた者たちの物語と読むべきだろう。


東宝の『七人の侍』ほどに重厚ではなく、大映の『忍びの者』ほどに暑苦しくない。だが、濃すぎない小品として、これはこれで悪くない。

まず、映しだされる白と黒のコントラストが心地よい。忍者の黒装束からしてそうだし、光が当たっている場所が闇に浮かぶタイトルバックもそう。さらに予告映像で見られるように、真っ白い遍路姿に変装した忍者たちと林道で戦ったりする。伊予松山ならではの時代劇描写といえるだろう。黒澤明作品のような厚みこそないが、絵画のような構図が頻出する。

物語はたしかに『七人の侍』を思わせる部分が多く、雇おうとする浪人に切りかかって腕試しする冒頭から、勝ったはずの浪人が葛藤をかかえた結末まで、構造からして似ている。山城新伍演じる浪人が女性の色香にまどわされる場面もある。

しかし尺が1時間半にも満たないこともあって、かなり要素が簡略化されていて、味わいは異なっている。浪人で活躍するのは実質的にひとりで、蒲生家でたよりになるのは家老くらい。その浪人が内通者を暴くために無関係な者も殺したことで、蒲生家から反感を受けたりもする。ゆえに全体としては1962年の『椿三十郎』を思わせる。

忍者らしい城への侵入劇も、あくまで陽動。殺陣の動きは遅くて、ところどころの激しい流血や斬首も後を引かない。因縁をもつ浪人と忍者の、たがいに知恵をめぐらす化かしあいで物語が進んでいく。そして『七人の侍』や『椿三十郎』とは対極に、誰も見ていない場所で孤独な決着がつく。忍者を題材にした物語のひとつの類型として、よくまとまっていた。

もうひとつ良かったのが音楽演出で、あえて楽器の音を耳ざわりに鳴らしつづけ、不穏感をつくりだす。戦闘に入ると、音楽を止めて自然音だけになる。時代劇の枠組みを超えすぎず、同時に現代的な感覚で楽しむことができた。


全体としては東映らしい、簡素で明確な時代劇であった。現在からすると殺陣に面白味や迫真性が欠けるし、省略してなお無駄と思える要素も残っているが、一見の価値はある。

なお、歴史を題材にしたはずなのに史実に反した結末をむかえるが、それは東映時代劇で珍しくないし、結末の予測を難しくする効果もないではない。

*1嫡子城下町をながめる場面で、市街が一枚絵としてすら出てこない。

2016-09-21 上げたのは1日後

[][]『永遠のゼロ』に登場したゼロ戦は映画のためにつくられた小道具ではなかった

『マツコ&有吉の怒り新党』の1コーナー「新・3大◯◯調査会」を見ていたら、馬場ボデーという板金工場がつくった作品が選出されていた。

まず23mの巨大なエッフェル塔模型*1が登場した後、復元されたゼロ戦が登場。馬場憲治代表*2父親が整備士をしていたため資料がそろっていて、細部まで再現できたのだという。

映画を見た時は下記のような感想をもったが、すでに復元された実物大模型を利用していたとなると印象が少し変わる。

『永遠の0』 - 法華狼の日記

実物大のゼロ戦は、こういう作品では何度も制作されてきたものだが、リベットなどのデコボコ加減がすばらしい。


それはそれとして、同じ百田尚樹原作、山崎貴監督で『海賊と呼ばれた男』の予告が数日前に公開されていた。

映画『海賊とよばれた男』公式サイト

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予告を見るかぎり、『ALWAYS 三丁目の夕日』のような市街地と、『永遠の0』のような空戦をあわせて、さらにVFXの表現が細かくなっている様子。白組は『シン・ゴジラ』のゴジラCGを手がけていたはずだが、よくこのクオリティに達したものだという感心はおぼえた。

*1:2016年9月現在、googleストリートビューを見ると、台座だけ完成した姿が映っている。

*2:アスリートやスプレー絵画で世界的な賞をとったりと、さまざまなジャンルで活躍している有名人だという。

2016-09-20

[][]『聲の形

母子家庭の石田将也が小学生のころ、聴覚に障碍をもつ西宮硝子がクラスに転校してきた。

硝子を異物として排除する先頭に立った将也は、標的が消えていくと自分が対象になってしまう。

やがて高校生になった将也は、母が西宮家にしはらった和解金を働いて返そうとして、手話もおぼえた。

そして再会した硝子と関係を修復しようとする将也だが、自分の過去や他人の顔を直視することができない……


2016年9月17日に公開されたアニメ映画山田尚子監督、吉田玲子脚本、京都アニメーション制作という『けいおん!』と同じスタッフ構成で、2時間超で映像化している。

映画『聲の形』公式サイト

原作漫画は、プロトタイプリメイクの短編ふたつは未読。週刊連載された全7巻は、以前に購入して放置していた1巻だけ、映画の鑑賞後に初めて目を通した。


ゆえに映画だけの感想となるが、これは聴覚障碍者を描いた物語ではない。異物を排除する動きを主導した少年が、その責任をすべて負わされて居場所をなくした後の物語だ。

西宮硝子は、どのような敵意や悪意が向けられても、感謝や謝罪を返そうとする。聖女のような障碍者の位置づけは、意外なほど平凡で時代錯誤といっていい。

商業アニメにおける聴覚障碍は、たとえば大地丙太郎監督による2004年のオリジナル作品『まかせてイルか!』*1というすぐれた先行作品がある。

まかせてイルか!-irukaya.com-

あくまでバイタリティあるマイノリティという類型ではあったが、その力強さは生きぬくために獲得されたものとも示していた。その意図を監督もツイートしている。

そうしてさまざまな人々がくらす社会をコメディチックに描きつつ、社会的な弱者に負担が集中する問題を実直に描いてみせた。それが制作会社の作品に字幕が収録される慣例にもむすびついた。


だから『聲の形』を評価するならば、障碍の実態が描かれているためではない。あくまで聖女のような障碍者は起点であり、聖人ではありえない主人公の回復劇が主軸だ。

たぶん映画関係者も自覚的なのだろう。公式サイトのイントロダクションを読んでも、あらすじ説明から硝子の設定はまったくわからない。聴覚にまつわる記述は「伝えたい“こえ”がある。聞きたい“こえ”がある。」という抽象的なキャッチコピーのみ。

イントロダクション | 映画『聲の形』公式サイト

原作では1巻かけて描いた小学校でのイジメも、映画は冒頭で短く処理している*2他者に向けた悪意が主人公に返っていることを、まったく同じ風景で反復していく。

イジメにはしる心理描写が少ないのは尺の制約もあるだろうが、ところどころイジメの結果をふくらませている。特に補聴器を引き抜いたことによる流血は、原作より刺激的に見せている。

大人たちの嫌悪感も弱められ、子供たちだけで傷つけ迷っていく物語が抽出された。クラスの異物へ責任を負わせる教師は問題を放置しただけに後退し、イジメ発覚前の西宮母とのトラブルも描かれない。


映像作品としても、聴覚にまつわる描写は、予想より無頓着なところがあった。

たとえば、打ち上げ花火の描写で、光と音が同調してしまっている。硝子も響くような音は感じる場面なのだから、光から音のイメージを感じる描写ではなく、光から遅れて音が聞こえる音響演出にしてほしかった。

逆に視覚的な演出は強調されているようだ。将也が他人の顔を直視できない問題は、第4話から出てくる原作と違って冒頭から執拗に描写され、精神に起因する視覚障碍の域に達している。

将也が盲をひらかれる場面も、実在感ある雑踏を見せつつ、ざわめきよりも華々しいBGMが先に鳴る。京都アニメーションらしく手抜きせず群集を手描きで動かして、描写としては印象深いが、映画らしい音の厚みは感じなかった。


そうして将也という少年の迷走を描く物語として見れば、それなり以上に奥行きある構成になっている。

少しずつ再生していった人間関係が、甘く過去に向きあっていたため破綻するという展開もきちんとある。ひたすら将也に赦しを与えていく硝子も、それだけで救いをもたらすことはない。

おそらく原作の見せるべき部分をきちんと引きだした作品なのだろう。硝子が本心では将也を嫌っているような逸脱はしないが、1巻を見比べた範囲では理解できる改変におさめている。単独で見ても、印象的な冒険こそないが*3、映像のどこにも隙はない*4


ただやはり、硝子のありようが特異であることは、たったひとことでいいから、どこか劇中で示してほしかった。

たとえば、周囲に感謝や謝罪ばかり返す性格は、そうしなければ社会から排除される恐れから生まれた可能性を登場人物の誰かが指摘してもいい。山田監督のインタビューにも、他人を気にしているという原作者の見解がふれられていた。

「聲の形」山田尚子監督に聞く。気をつかったり同情したり、何なら可哀想だと思ったりするのは大間違いだ - エキレビ!(1/3)

原作者の大今先生からは、周りのことをすごく気にして、自分はこうあるべきだということをすごく考える子だとお聞きしたのですが、それにプラスして本能で動く部分もあると思うんですよね。

尺に余裕がないことはわかるが、おだやかな正論で切りこむ真柴智という少年が、亀裂が入る場面で重ねて指摘するくらいはできるだろう。映画の智による批判は短く切り捨てて終わり、空気を読まない正論が場を壊す描写として弱かったし、将也も感情で反発してすませることができた。反論できない正論をぶつけてこそ将也を追いつめつづける描写になるわけだし、出番が少ない智の存在感も増すだろう。

もちろん、必ずしも人格が社会によってかたちづくられるわけではない。背景を推測すること自体が個人の尊厳をそこなう危険性も留意すべきだ。そのうえで将也に想像力が欠けているという指摘はできる。相手が本当に聖女であっても、甘えることへのためらいは持てるはずだ。

*1:もともと監督原作によるアニメ雑誌連載漫画で、後に監督自身が自主制作して短編アニメ化した。

*2:時間をたしかめながら鑑賞したわけではないので、実際の時間配分は不明であり、あくまで体感的な記憶だが、描写量が少ないことは事実。

*3:主観映像の背景動画は、もう少し長くても良かった。

*4:目玉焼きの表現は同期の『君の名は。』より良い。

2016-09-19

[][]『君の名は。

山奥の神社巫女の立場をつぎながら、普通に高校にもかよっている少女、宮水三葉

東京で高校にかよいながらオシャレなレストランでアルバイトをしている少年、立花瀧

いつのころからか、ふたりが眠りにつくと、不定期に体と心が入れかわるようになった。

たがいの立場を夢うつつに記憶しながら、ふたりは彗星が降る夜をむかえる……


2016年8月に公開された、新海誠監督によるオリジナルストーリーの最新作。小説『おれがあいつであいつがおれで』を思わせる古典的な設定を、距離のある男女をむすびつける展開へ応用した。

映画『君の名は。』公式サイト

大ヒットしていると聞くが、CMなどで一般向け露出を重ねてきた映像世界に、シンプルなラブコメディとディザスタームービーを重ねることで、うまく観客の心をつかんだということか。その恩恵にあずかり、たまたま格安で鑑賞することができた。

このジャンル作品らしく性的に肉体をたしかめるシーンも何度かあるが、直接的な性欲は少女になって胸をさわる場面が限界で、その「一度だけ」さわる場面もパターン化して物語を進める記号。少女の下着が見えてしまう場面も、男子が入れかわっていることの表現と感じられたので、そこはさほど気にならなかった。


さて映像全体は、予想を超えるほどではないものの、期待通りの充実ぶりではあった。キャラクターデザイン*1作画監督をつとめた安藤雅司をはじめ、スタッフにスタジオジブリアニメーターが散見される。Production I.Gの沖浦啓之のようなスターアニメーターも目立つようにクレジット。

背景美術はいつもの新海誠作品らしく、濃厚に彩度を強調して、ハイライトや逆光で見ばえをよくする作風。商業アニメでは珍しく主張する背景を、前作『言の葉の庭*2ではキャラクターの描線や色彩を薄めることで、背景と人物の一体化をはかった。今作は一転してキャラクターの芝居をスタジオジブリらしく過剰に、描線も太く力強く、主張する背景に負けない人物を作りだしている。この過剰な映像は、間違いなくひとつの個性ではある。

ひとつ意外だったのは、意識的に精神を入れかえる場面で、パステル調の絵を滑らかなアニメーションで動かしていたこと。フレデリック・バック監督作品*3のようで、『つみきのいえ*4のようでもある。なおかつ描きこみが緻密で、いわゆる板野サーカスのように空間の広がりも表現されており、見ているだけで楽しかった。

一方で残念だったのは、クライマックスにあるカタストロフの作画が、直前の爆発に比べて凄みを感じなかったこと。よく動くカットを重ねていて悪くはないのだが、突出した場面ならトップクラスにスペシャルなアニメーターを呼んでほしかった。


次に物語全体だが、入れかわった当初のたたみかける毎日までは、コメディとして悪くなかった。しかし入れかわりの錯誤が明らかになったころから、つじつまの気になる場面が増えていく。

物語を進めるための必要悪でつじつまを捨てているのではなく、少しの説明を足すだけで整合性を守れたり、人物の言動が自然となるような場面ばかり。ゆえに、なぜ細部を煮詰めなかったのかという疑問ばかりがわく。

すでに致命的ではない問題として、彗星の軌道のおかしさが各所で指摘されていた。映画を見ると、彗星と入れかわりの関係が示唆されているし、彗星が予測を超えたことがクライマックスの要点になっている。ここは「内部からのガス放出で彗星の軌道が不規則」などと劇中ニュースでひとこと解説すれば、整合性をたもちつつ伏線へと昇華できただろう。

偶然にも、同じように入れかわりと彗星がポイントとなるオリジナルストーリーアニメとして、2015年に『Charlotte』というTVアニメがあった。コメディな発端が良くて、シリアスになるにつれてつじつまが崩れていったこともそっくり*5。比べると、『君の名は。』は人物に対する不快感は少ないが、やはり物語の都合で人物の行動が不自然に制限されている。


以下、いくらかネタバレをふくみつつ、引っかかった疑問点をならべていく。

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