法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』

 暗い嵐の海で、漁船が巨大なタコに襲われる。しかしひとりだけ生きのこった船員は、タコと戦った別の怪物に仲間が食べられたと証言する。その証言により、富士山で死んだフランケンシュタインの怪物が生きのび、凶悪化したと推測された。しかしフランケンシュタインを育てた女性研究者は否定する……


 1966年に公開された日本映画。本多猪四郎監督と円谷英二特技監督という東宝特撮映画の黄金タッグで、巨人同士のはげしい戦いを見せる。

 もともと前年公開の『フランケンシュタイン対地底怪獣』*1の続編として企画されたが、独立した映画として完成した。回想として描かれる場面は前作と似たシチュエーションだが多くの俳優も怪獣デザインも異なっていて、まるで直接の続編ではなく同じ脚本でリメイクした作品の続編のよう。超技術なメーサー車の登場も特に説明はなく、自衛隊車両の列にしれっと混じっている。
 しかし続編に近い作品となった結果として、説明を省略して怪獣が冒頭から出ずっぱり、現実感の基礎となる日常シーンを省略して特撮の見どころをつめこんだ娯楽作品となった。併映前提のような1時間半に満たない小品とはいえ、東宝シネマスコープ大作でここまでシリアスでいて怪獣の分量が多い作品は珍しい。
 ストーリーの構造は前作とほとんど同じで、リメイクに近い印象がある。2種類の怪獣が神出鬼没に行動して、人間に被害をもたらしている怪獣がどちらなのか科学者が推測や調査でしぼりこみ、人間になつく怪獣の冤罪を晴らす。前作では登場が唐突きわまりなかったタコは冒頭の荒海に登場させ、違和感なく主役の強さを見せる踏み台として活用される。人型の怪獣による食人などの刺激的な描写は多いが、物語展開にはひっかかりがなく、娯楽作品として見やすく完成度は高い。


 特撮描写はオーソドックスなものが多く、怪獣のサイズが小さいおかげでミニチュアを大きく作れて精度は高いものの、技術的な挑戦はほとんど見られない。特に合成は技術不足が目立ち、前作ほどではないがマスクが甘かったり、サイズ感が崩れているところが散見される。
 しかし浜辺や空港で水平線や地平線の奥からガイラが小さくあらわれ近づいてくる描写はすごい。白昼堂々の登場はいまだ国内外の怪獣映画でも珍しく、特異な恐怖感を出すことに成功している。霧の森の小道のむこうにガイラが立っている場面もすばらしい。
 また山中のサンダやガイラを映すにあたって樹木をていねいになめて奥行きを感じさせる描写も良い。そこからメーサー車がガイラを攻撃する時の光線が周囲の樹木もなぎたおしていくていねいな描写につながり、架空兵器に実感をもたらしていた。

『コードギアス 復活のルルーシュ』

 世界を独裁的に支配しようとした若き皇帝ルルーシュが白昼堂々と暗殺され、平和になったはずの世界。しかし砂漠の難民キャンプが謎の集団におそわれ、傭兵産業でさかえた小国ジルクスタンの暗躍が示唆される。
 一方、世界を安定させるため自らを殺させたルルーシュは、生きのびつつも記憶と人格をうしない、相棒の少女ひとりにつれられて世界をさまよっていた。しかしもとのルルーシュにもどれる場所がジルクスタンにあるという……


 2019年に公開された完全新作アニメ映画。TVアニメを再編集した総集編映画三部作からつづく後日談として、TVアニメのスタッフが再結集した。

 拡張性のある世界設定で群像劇を展開できるコンテンツのはずが、舞台から去ったルルーシュという主人公を商品の中核にしなければならなかったところは同じサンライズ制作の『装甲騎兵ボトムズ』のよう。『コードギアス 亡国のアキト』という外伝アニメシリーズでも、別のかたちで記憶をうしなったルルーシュを登場させたほどだ。
 しかし死なせた主人公を復活させた続編を出すにあたって、一時代を築いた大ヒット作で主人公の帰還を描くという企画そのものの力にもたれかかっていない。全体の1/4の尺をつかってTVアニメの結末*1のままルルーシュは退場すべきと考えている観客にも復活を納得できるようにして、復活によるカタルシスを描いた後も主人公の仲間集めに前半をつかいきって漫然とした時間をつくらない。
 後半もトリッキーな騙しあいを重視してストーリーをよどみなく動かし、超能力ギアスの謎解きと対処法をそれなりに楽しませてくれた。兵力を輸出することで成立していた小国が平和のおとずれによって苦難におちいった逆説や、そこで統治する姉弟が主人公兄妹のネガになっている構図も明確。映像ソフト特装限定版のブックレットを読むと、脚本の大河内一楼も自認していた。
 独立した作品として見ても、まず基本を見せてから応用を描くという段取りがていねい。たとえばロイドという戦闘力のない技術者を最前線で生きのこらせるため絵コンテを切りながら設定したという眼鏡バリアを、一発ネタで終わらせず後半で応用する。


 映像は奇をてらわず、わかりやすさを重視している。ところどころ主観カットをつかっているところは谷口悟朗コンテらしいが、あくまで映像技法のひとつとして活用している。
 劇場アニメでありながら、安定しつつも意外と作画は細かくなく、TVアニメの印象とほとんど変わらない。もちろん実際に当時の映像と見くらべると線の密度や撮影はまったく異なるが、業界全体の水準向上にあわせているくらいで過剰ではない。エンディングに入る瞬間のモブシーンが、ちゃんとひとりひとりを動かしているのに描きこみは粗いところがわかりやすい。TVシリーズのポイントとなるエピソードのほうが、生々しく繊細にキャラクターを作画していたと思う。かわりに映画らしく引いた構図を多用して、背景美術も精緻になっている。
 巨大ロボットの戦闘は、敵味方が飛行できるようになったTVアニメ2期終盤の状況からいったんリセットしている。前半は車輪走行とワイヤー昇降をくみあわせた動きに制限がある戦闘でTVアニメ1期までの緊張感を感じさせて、そこから後半にかけて異なる状況と機体ごとに異なる魅力の戦闘を描いていく。作画や演出だよりではなく、物語や状況設定の段階からおもしろい戦闘をつくろうと工夫して、成功していた。


 シリーズに強い愛着があるファンの感想はまた違うだろうが、全体として肩の力がぬけつつ手をぬいていない娯楽活劇として自然に楽しめた。
 サービスと話題性と意外性を重視するあまりバランスがくずれていたTVアニメの終盤とは異なり、全体の調和をとりつつ小さくまとめていて見やすい。

『わんだふるぷりきゅあ!』第13話 キュアニャミーを探せ!

 キュアニャミーについて知りたいと思った犬飼いろはとこむぎは、悟とともに正体と思われる人物をさがしてまわる。一方、キュアニャミーに助けられた猫屋敷まゆも、また会いたいと思って山にはいり、ガルガルに遭遇する……


 神林裕介の2度目の脚本に、野呂彩芳の演出。今回はデフォルメ作画やイメージ背景、同ポジの天丼ギャグが多めで、映像の遊びが充実している。特に、こむぎが思いつきの言動をしてはいちいち座りなおすように、切れ味するどいツッコミとは逆に間を重視したツッコミ待ちが独特だ。シュールな笑いを楽しめて、これはこれで良かった。
 しかし物語は明確な手がかりもなくゲストキャラクターをたずねてまわるだけで、構成は単調。こむぎが人間に変身するように幼女も成長してキュアニャミーに変身する可能性を検討したり、そこで多様な年齢の女性キャラクターが印象深く描写されたり、本筋と直接の関係がないまゆのドラマもキュアニャミー探しというテーマにそっている良さはあったが……
 4人のプリキュアが登場することがOPなどで初回から明確化されているのに、1クールかけて3人目のプリキュアが第三勢力として戦闘にかかわるだけというところが、展開の遅さを感じさせてしまう。プリキュアふたりしか登場させていないEDのように、OPも1クールはふたりしかプリキュアとして描写しなかったほうが、視聴者に待たせている気持ちをいだかせずにすんだのではないだろうか。

『フランケンシュタイン対地底怪獣』

 第二次世界大戦の末期、ドイツから日本へ潜水艦で謎のアタッシュケースが運ばれた。そのなかで、液体に浮かぶ心臓が動いていた。フランケンシュタインのつくりだした不死身の生命だという。
 しかし日本の広島にたどりついた心臓は原爆投下により行方不明になった。そして戦後の広島で、女性研究者が不思議な戦災孤児をひろうが……


 1965年の日米合作映画。本多猪四郎監督と円谷英二特技監督という東宝特撮映画の黄金タッグで、いつもの怪獣映画よりやや小さいスケールの巨人と怪獣の戦いをリアルに描く。

 タイトルの地底怪獣には「バラゴン」とルビがふられているが、劇中では「地底怪獣」とだけ呼ばれている。20年以上前に劇場公開版は視聴したことがあるが、DVDではじめてタコ出現版を視聴した。


 まず、記憶より戦中パートが長い。そこで無骨なケースをあけると液体につかった心臓だけが動いているビジュアルが魅力的。『ジャイアントロボ THE ANIMATION 地球が静止する日』のシズマドライブや、『機神兵団』のモジュールに影響をあたえているのかもしれない。

 戦後の本編に入ると、急成長する子供がフランケンシュタインなのかという謎が物語をひっぱる。そこでたしかめる方法として手足を切り落とすことがドイツの科学者から提案され、もちろん日本の科学者は難色をしめす。この場面が一見すると無関係なフランケンシュタインの脱走にかかわってくることに驚いたし、その関連を観客にしめすビジュアルの強烈さも印象的。記憶にのこっていなかったが、かなり巧妙な物語構成をしている。
 フランケンシュタインを科学者が解明していくドラマと並行して、地底怪獣の神出鬼没な破壊が描かれ、それが登場人物をまどわすドラマも生んでいる。地下にはわかっていないことが多いという会話があるので、怪獣が地割れに飲みこまれる唐突な幕引きも許容できる。
 問題は終盤のタコの唐突すぎる登場で、いっさい伏線も説明もなく山間部にあらわれたことには唖然とした。そこまでフランケンシュタインの性質を調べて移動経路を推理する物語がつづき、それを混乱させる地底怪獣の行動も並行して描いている。誰にも気づかれず第三の怪獣が登場できる世界観ではない。最終的に劇場公開版はもちろん、タコ登場を提案した海外でもタコが登場しないよう変更されたのも当然だろう。
 逆に、劇場公開版の結末も初見では唐突な印象があったが、あらためてシネマスコープで見るとバラゴンの活動で地形が崩れていく描写が執拗にくりかえされているので、バラゴンを倒したフランケンシュタインがバラゴンのつくった地割れに飲みこまれた一種の相打ちに見えて納得できた。


 ミニチュア特撮作品としては充実していた。キグルミではない、当時なりの特殊メイクを俳優にほどこしたフランケンシュタインは動きの自由度が高く、高低差のあるセットでも移動しやすい。しかも怪獣のスケールが小さいおかげでミニチュアのサイズが大きく、平坦な板にミニチュアをならべたような単調なセットになっていない。あまり出番の多くない海底油田や研究所のセットもしっかり作っている。冒頭の無人の戦場など珍しい情景も多いし、マット画の精度も高い上に動く部分をつくっていて気にならない。
 猪や馬が人形丸出しなのは有名で、ご愛敬と思って苦笑する。しかしミニチュアとからませる人間を人形で表現している部分は意外と違和感がない。カットを短めにして、上半身だけ見せたり倒れた場面にすることで、動きのおかしさが気にならないようにしているおかげもあるだろう。
 しかしブルーバック合成の精度が低く、輪郭が青くチラつくカットが多いことは残念だった。手前に人間、奥に怪獣を配置したレイアウトが多くて、超常と現実の連続性を表現しつつ世界の奥行きを描けているのだが、だからこそ合成とバレているカットの多さが演出の効果を減じている。同じような大サイズでミニチュアの精度を高めた大映の『大魔神』の前年に公開されたことで、当時の東宝が合成技術では大映に劣っていたことがよくわかる。そしてそれが日本の特撮愛好家に合成が嫌悪されていた原因のひとつではないかと今さらながら思った。

『アイドルマスターXENOGLOSSIA』雑多な感想

 月が崩壊した近未来。アイドルになるため東北から上京した天海春香は、同じアイドル関係者の萩原雪歩と偶然に出会う。しかし天海は自分が何に選ばれたかについて思い違いをしていた。芸能のアイドルではなく、地球へ落下してくる月の破片を粉砕するための巨大ロボット、iDOLの搭乗者になる天海だが……


 2007年に2クールで放送されたTVアニメ。アイドル育成ゲームのメディアミックス作品だが、制作したサンライズの色が出たオリジナルSFロボットアニメとして良くも悪くも話題になった。

 これが監督2作目となった長井龍雪は、後に『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』を手がけている。
 話題作『勇気爆発バーンブレイバーン』に対して、意思をもつ巨大ロボットが主人公に思慕をいだく先行作品という言及を見かけたので、序盤数話だけ見ていた作品をあらためて最初から最後まで視聴した。


 以前に序盤を視聴した時は、雪の日にひとり都会へ旅立つ少女や、かつて天災により変化した未来、巨大ロボットで活躍するのは別の少女という構成から『トップをねらえ2!』を連想した。
『アイドルマスターXENOGLOSSIA』を初回冒頭しか見ていないので - 法華狼の日記

トップをねらえ2!』と同じ箱に入れたまま取り出すタイミングを見失っているクラスタ

 しかしあらためて導入を見ると、2005年の『交響詩篇エウレカセブン』がやるべきだったことを押さえているように感じた。作品の世界の日常がどのようなものなのかをていねいに描写しているから、主人公がどれくらい作品世界においても異常な立場へと変化していったのかわかりやすい。「アミタドライヴ」のようなロボットと主人公をつなぐアイテム「アイ」を流れで処理せず、日常の似た立場の少女との出会いでも活用する。黒い敵ロボットの結末も似ている。最初に主人公が出会ったのがパートナーのエウレカとロボットのニルヴァーシュに分散された『交響詩篇エウレカセブン』と違って、ロボットのインベルというひとつのキャラクターに集約されている*1ことでまとまりも良い。
 中盤からは味方組織内の不和が広がり、エースパイロットだった菊地真碇シンジみたいになる。その直後のダミープラグのような展開もふくめて『新世紀エヴァンゲリオン』っぽさを感じた。ただその結末で操縦していた少女が自力でコントロールをとりもどす展開で、子供たちが状況をコントロールする意思と能力を獲得する物語になっていく。
 そして組織が瓦解しながらも人々が協力してたどりついた最終回は、後年の『機動戦士ガンダム 水星の魔女』と展開や絵面が似つつ、視聴後の感想は異なる。『鉄血のオルフェンズ』もふくめて、この最終回がなぜ『ガンダム』ではできないのか、この最終回のどこが『ガンダム』では許されないのか、ということを思った。


 キャラクターデザインが少し目と目が離れているところが当時のトレンドで、同じラインで先に制作された『舞-HiME』を思わせる。前髪の房が等間隔にならぶ単調な処理は古さを感じた。
 三浦あずさ如月千早という、似た髪色の長髪女性が人間離れした格闘戦をおこなう第2話には、もっとキャラクターデザインの差異を見せるべきと思ったが、設定を明かす第11話で納得。しかしこの真相と、それを延長した顛末はゲームのファンが反発をおぼえてもしかたないとも思った。
 逆に同じ第11話の描写を見て、アニメオリジナルキャラクターの幼い敵少女リファは、行方不明になった味方キャラクター双海真美が姿を変えたのかと一瞬思ったが、声優が違うので深読みしすぎと気づいた。せっかくゲームとは声優を変えているのだから、行方不明になった味方キャラクターの声は回想で見せなければミスディレクションになったか。終盤の悪趣味描写を見ると、ひょっとして幼い敵少女を双子に当てはめることをいったんスタッフが考えて、悪趣味すぎて断念したのかもしれない……というのは考えすぎか。
 体育着を基礎にしたパイロットスーツは『トップをねらえ!』を連想させる。女性の肉体らしさを光沢ある滑らかな上着で感じさせつつ、下半身は身体の線を出さないショートパンツにして、性的なニュアンスがドラマを壊さないようコントロールできている。
 その意味で感心できなかったのが第8話で、水着回としてのクオリティは当時の水準に達しているが、胸の大きさがネタにされるのが残念。ゲームの愛好コミュニティに寄せた後年のTVアニメ『THE IDOLM@STER』の過剰な胸いじりほど不快ではないものの、さすがにここはお約束の安易な踏襲と思った。ロボットを上下逆にして脚部からのロケット推進炎がリゾートの遠景にたちのぼる描写や、その推進炎のエフェクト作画は良い。


 メカニック描写だが、アイドルゲームのキャラクターをスターシステムのように活用した娯楽ロボットアニメという特殊なコンテンツゆえか、フェティッシュでもパロディでもない長井監督のメカ演出が飲みこみやすい。
 特に第1話中盤のワンダバ描写が、あくまで初めてそれを見た主人公の驚きと、その地域に住む人々にとって日常の延長と示すギャグに奉仕していて、淫する庵野作品のような飽きがこない。ただそのフェティッシュのなさが、何よりもメカの魅力を販促すべきガンダムシリーズには相性が悪かったのかな、とも思った。
 それでも人格のあるロボットとキャラクターを等分に重視していることで、キャラクターとロボットを同一画面に入れたカットがロボットアニメのなかでも異様なまでに多く、巨大感がよく表現されているところは良い。けっこうロボットは基地で待機するだけのエピソードが多いし、都市部の戦闘などはほとんどないが、ちゃんとキャラクターとかかわってドラマを動かしつづけるのでロボットアニメとしての必然性がある。
 人型をしている理由は特別に語られずとも、人格をもったロボなので違和感はない。原則としてミサイルなどをもてない国家の天災対処用の工作機械だから打撃武器しか持てないという理由もシンプルでいい。それでいて体型はフリーキーで、降着形態のような独特の変形も無駄なくシルエットが変わって楽しい。

 ロボットアニメとしては前述のように良くも悪くもフェティッシュを抑えて、作画も演出も安定指向。第4話だったか、吉田徹コンテ演出回の破損描写の描き込みが良くて、整備描写の存在意義がビジュアルで感じられた。
 脚部の逆間接的な湾曲が、第7話で主人公の前に手をついてあらわれた場面で、まるで人間というより犬猫のような四足獣に見えたことも面白かった。もともと中途半端に言葉を発さないことで巨大ロボットでも逆に親しみやすいと思っていたが、ここで性愛ではなくペットのような関係の可能性を感じて、より見やすくなった。登場そのものはサンライズアニメでありがちなロボット私的利用とはいえ説明を足してほしかったが、このあたりから少しずつ組織の規律がくずれていくので、全体をとおして見れば違和感は残らなかった。

*1:ただ、インベルと萩原は同じ位置づけのキャラクターの違う展開という解釈も可能か。