これを「甘い」とする 岡倉覚三(岡倉天心)『茶の本』

 1906(明治39)年、『THE BOOK OF TEA』という小さな本がニューヨークの出版社から刊行された。時代は日露戦争の2年後。歴史の教科書では岡倉天心という名で載っていた、その人の主著は3冊。すべてが英語で書かれていたそうで、『茶の本』として邦訳が出たのは23年後、その時はすでに仏訳、独訳もあったというから、なんか破格の日本人って感じですね。
 京都に住んでるっていうこともあり、最近、茶道に興味が出てきたんですが、『茶の文化史』(岩波新書)の村井康彦は、その「はしがき」に天心の「茶道とは日常生活の俗事のなかに見出されたる美しきものを崇拝することに基く一種の儀式である」という言葉を引き、「簡にして要を得た定義づけ」だと述べています。
 天心は茶の歴史を中国の唐、宋、明の時代から語り、茶室、芸術鑑賞、禅との関係をなどを説いていますが、ぼくは次のようなエピソードが印象的でした。宋代のたとえ話に「三人の酢を味わう者」というのがあるそうです。仏陀(仏教)、孔子儒教)、老子道教)が人生の象徴酢瓶の前に立ち、おのおの指をつけてその味をあじわった。孔子は「酸っぱい」といい、仏陀は「苦い」といい、老子は「甘い」といった。
 天心は「三教義の傾向を実に立派に説明している」として、ことの本質を「虚」(バランス、自由)とする老子の思想が茶の湯に通じていると述べています。
 さて、「人生は甘い」のか。いやこれを「甘い」とするってことでしょう。茶道に限らずなんですが、「京都」という場所の雰囲気を決定づける独特の遊戯性を感じます。いけずもそうですが、このような高度に洗練された「遊び」は排他性と表裏一体。ぼくのような「よそさん」からするといらだちとあこがれの両方を感じてしまうのでした。


 「幽霊」というブログのテーマというか方向性が見えてきたので、もう少しこのテーマを追いかけようと思っています。今日はお茶で一服。でも、無関係でもないか。