'11読書日記10冊目 『万民の法』ジョン・ロールズ

万民の法

万民の法

345p
総計2896p
ちゃんと一冊ロールズを読んだのは初めてという体たらくさですが、意外に(!)面白かった。というのも、理論的なことばかりではなくて戦争や宗教についてのエピソードが結構あって、読み飽きないのだ。結論は微妙なところではあるが、非常に誠実に国際間の正義・平和の議論の枠組みを提供している。本書は二部立てになっていて、「万民の法」と「公共的理性の観念・再説」が収録されている。本書を読む前に、アムネスティ・レクチャーズでの同題の講演が収録された『人権について』を読むと議論の見取り図が分かりやすいかも知れない。
人権について―オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ

人権について―オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ

ロールズが「万民の法the law of peoples」と言うとき、それは国家nation間に適用される国際法を指すのではない。より適切に言えば、国際法をも包含する、国際間の正義に関する原理・政治的構想が、万民の法である。そこでは、国内の正義を導出するときに使われたように、無知のヴェールが用いられる。といっても、万民がすべて無知のヴェールをかぶるということではなく、国家の代表者が無知のヴェールをかぶり、原初状態に置かれることになる。それによって導かれる万民の法は、極めて常識的なもので、ここにロールズの焦点があるわけではない。それをいかに国際的に適用していくことが可能であるか、ということが論点になる。また、万民の法は、世界政府とも異なる。コスモポリタンは、世界中に住む各個人の福祉に関心を向けるが、万民の法は各国の制度が正義に適っているかどうかに注目する。例えば、世界市民的な見地からは、国際間の不平等を考えるとき、何らかの国際機関による再分配が永久に行われなくてはならないだろう。だが、それはほんとうに必要なことか、生活に必要な基本財の価値観も違う中で平等を達成することが必要なのか、とロールズは問うのだ。他方、万民の法は、ある社会的・物質的に不利な条件にあるために国内で正義の制度をつくりそこなっている国家には、何らかの援助が必要であるということを要請する。それは、世界市民的平等のためではなく、万民の法に同意する要件を整備させるためなのだ。ロールズが、本書で意図していることは、いかに戦争を引き起こさずに、国際的な正義を保つことができるかというある種のユートピア(だが現実的な)を探求することにある。
ロールズは、その議論に置いて、四つの段階を設定する。第一に、リベラルな民主制国家間にどのように万民のほうが実現されるのかという、理想的理論の段階がある。第二段階は第一段階よりは弱いがなお理想的な段階である。それは、リベラルではないが良識のある(decent)国家とリベラルな国家との間での実現に関係する。良識ある国家というのは、リベラルな政治的構想からははじかれるような何らかの宗教的・個別の善(包括的教説comprehensive doctrine)に従った制度を持ってはいるが、社会内の人権は守られているような国家である。次に、非理想的理論として、無法国家との関係が、そして最後に、不利な条件の重荷に苦しむ国家との関係が議論される。不利な条件とは、秩序だった社会を作るのに必要な政治的・文化的伝統、物質的・人的資源を欠いているというものである。
ロールズは、リベラルな文化を輸出することこそがアメリカの役目であり正義に叶う、という主張をなんとか回避し、各社会に固有の善の存在を認めた上で、なお国際間正義・平和の条件を模索している。これが成功しているかどうかは、第二段階と第三段階の違いに注目する必要がある。第二段階のdecentな国家では人権が保証されており、そのようなdecencyを有するのであれば、万民の法を受け入れるだろうと考えられている。他方、第三段階の無法国家においてはそのような想定はできず、decentな国家に持てた寛容は不可能である。二つの違いは、人権を保証しているかどうかである。後者に対しては、人権を遵守するように国際的な批判・圧力をかけていくことが外交の指針となり、さらに、無法国家が国際的強調を無視し、他国に侵略するようなことがあれば戦争にいたることになる。こうした議論において、ロールズアメリカの外交政策、「正義の国アメリカ」というものに制限を加えている。

いまだリベラルではないすべての社会に対して、それらが次第にリベラルな方向へと向かうよう働きかけ、(事態が理想的に進んだ場合には)最終的にすべての社会がリベラルな社会になるという[…]このような外交政策は単純にも、リベラルで民主的な社会だけが受け入れ可能なものであるといった前提に基づいている。道理に適ったリベラルな万民の法の彫琢を試みることなくして、リベラルでない社会は受け入れ不可能であるなどと認めることはできない。(p119)

しかし、このように言ってみたところで、「人権」をdecencyの基準とし、decentであれば寛容に接するべきだとすることは、リベラルな価値の押し付けにはならないのだろうか。確かに、ロールズは、人権をア・プリオリに正当化(人間性による正当化や宗教的な正当化)するのではなく、「道理に適うreasonable」ということによって人権を正当化する。

市民たちが道理に適っていると言うことができるのは、次のことを満たす場合である。市民たちが互いのことを、世代を超えた社会的協働のシステムの中に生きる自由で平等な存在とみなすとともに、政治的正義に関する最も道理に適った構想であると考えるものにしたがい、協働の公正な条件を互いに提案しあう心構えを持つということ。そして、自分以外の市民たちもこの関係を受け入れるのであれば、たとえ、一定の状況下では自己の利益を犠牲にしなければならなくとも、この条件に即して行為することに同意しているということ。(p199)

このように定義されたthe reasonableは、ロールズ曰く、西洋中心主義などではなく人間社会一般に適用できるものだという。だが、本当にそうだろうか。このようなreasonableという基準も、そしてそれが人間社会一般に適用できるとする考えも、西洋中心主義のものではないのか。あるいは、仮にthe reasonableが西洋中心主義的ではなくとも、reasonableな市民、ないしはdecentな国家とみなされるために「人権」を受け入れることで、破壊されてしまう文化の固有性があるのではないか(もちろん、僕だってインドの一部で行われている寡婦を焼死させるような風習を守りたいわけではないが)。