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  伊予中世史への招待

竹島プロジェクトに賛同し、参加します。
  Web 竹島問題研究所 かえれ島と海
  桜日和「竹島プロジェクト2013」
  竹島問題


2018-08-14

[]阿波踊り赤字解消のための徳島市の主張はお役所仕事

徳島市馬鹿さ加減に呆れた。阿波踊り赤字解消のため、総踊りを中止すると言い出したらしい。四つの会場のうち総踊りを行う会場に観客が集中し、他の三つの会場は観客が集まらないので、総踊りを中止するとしたらしい。馬鹿休み休み言えと言いたい。一番の目玉を止めたら、観客の総数が減るだけだろう。観客が一番期待しているものを無くしたら、阿波踊り全体の盛り上がりを無くし、衰退の道を辿るであろうことは、誰の目にも明らかだろう。本筋を外した、筋の通らぬ対策議論もせずに決め、それを押し付けようとする徳島市の態度は、昔々の大昔のお役所仕事。こんなお役所仕事が今頃顔を出すとは、驚き桃ノ木山椒の木。本当に驚いた。蜂須賀氏の爪の垢を煎じて飲むべし。

2018-08-13

[]悪魔兵器原爆製造特集番組を観たが

昨夜、原爆の開発・製造から投下に至る経緯を特集したNHKの2時間番組を観た。非常に詳しく述べていたが、広島に投下した原爆ウラニウム型であること、及びこれを何処が開発し製造したかについては全然触れなかった。一方長崎に投下した原爆は、量産し易い型になっていたとの解説されていたが、それが何と比較してのことか、一切述べていない。また長崎に投下したのがプルトニウム型であるとも述べていないが、原爆材料プルトニウムの準備責任者名前は述べていた。

そしてマンハッタン計画はドイツがわ原爆を先に開発することを恐れて1942年に開始されたが、そのドイツは開発経費の負担に耐えかねて同年6月に原爆開発を断念したことが、原爆完成の直前に分かったと述べている。

これらを総合すると、広島に投下した原爆はどこでだれが造ったのか番組は触れるのを避け、誤魔化した。アメリカが開発したのはプルトニウム型であることは周知であり、ドイツ1942年6月に原爆開発を中止しているとすると、広島に投下したウラニウム原爆製造者不明と言うことになる。昨日の特集番組は何を隠そうとしているのか。NHKはこの疑問に明確に答えて欲しい。

2018-08-11

[]今日兄貴が戦死した日

兄は中学旧制)を卒業した後、志願して暁部隊に入隊した。暁部隊陸軍の舟艇部隊で、小豆島を訓練基地としていた。小豆島の冨丘八幡神社暁部隊の戦死者全員を祀り、今も慰霊祭を執り行っている。感謝に堪えない。暁部隊が出動する戦場は最悪の戦場と聞いている。事実暁部隊第一期生三千名のうち、生き残ったのは僅か11名とか12名と言う。公報では兄の戦死日は昭和20年8月1日となっていたが、生き残った戦友達は「違う。8月11日だ」と仰ったそうだ。多分仲間の記憶の方が正しいと思う。

戦後日が経ってから気が付いたのだが、その兄は日本が勝てないことを百も承知していたように思う。それは兄が父に、「アメリカ軍に対抗できるのはドイツ軍しかないのではないか」と話していたのを何故か覚えていたからである。その時は意味が分からなかったが、戦後色々と知るようになって初めて兄が言った言葉意味が分かった。分かってみると、兄は勝てないことを承知で志願したことになる。その気持ちは勝てないまでも国を守り民族を守る。ただそずに済んだが、だらしない戦いをしていたら、戦後もっと酷い扱いを受けた筈である特攻隊に志願した人が、「こんなことをしても戦局を覆すことなど出来るものではない。だが、命を捨てて国を守ろうとした若者が居たことが歴史に残る限り、日本は立ち直るだろう。俺はそれを信じて行く。」と語ったと聞く。兄も同じ気持ちで志願したのだと思う。それが当時の多くの日本人気持ちであった。

その気持ち国内に残る一般人も同じだったと思う。あれだけの空襲を受け、大きな被害を蒙りながら鉄道も郵便も電気もガスも水道も、次第に機能は低下したが総てのインフラが最後まで曲りなりに機能したのは、国民一人一人が使命感をもって自分任務に取り組んでいたからと思う。これは本当に凄いことだったと思う。日本を支えたのは一人一人が持つ使命感だったと思う。

2018-08-10

[]今月は命日が3回

今日は親父の命日。父は早くに両親を亡くし、子供の頃から働きに出た。だが若くして肺炎を患い、その時の無理が祟って一命は取り留めたものの、片肺を失い、もう片方も半分駄目になり、言うなら四分の一肺で生きて来た。そのため医者からこの体で良く今まで生きて来れましたねと呆れられたことが何回も有った。

その親父が戦争が始まってまだ日本好調だった頃から、この戦争は勝てないと言っていた。親父がそう言った理由アメリカ技術力、工業力の凄さを知っていたかららしい。そして子供の我々に、兵隊に行くばかりがお国に尽くす道ではない。技術進歩に盡すことはもっと大きな貢献だと何度も言った。その時は子供兵隊に取られたく無いからそんなことを言うのでは無いかと疑っていた覚えがある。

だが戦後技術の道に進んで、初めて親父の言葉意味を嫌時言うほど思い知らされた。アメリカとの技術格差のすさまじさ。どうすれば追いつけるのか、全然想像も出来なかった。と言うより絶望するしか無かった。例を挙げれば切りが無いので省略するが、機械加工精度一つを取っても天と地程の差があり、機械担当技術者がそれだけの加工精度があれば、どんな設計でも出来ると唸ったことを昨日のことのように思い出す。その技術格差はあらゆる分野に及んでおり、その格差を一歩でも縮めようと必死だったが、部分的に追いついたと思えたのは昭和50年代の後半だったと思う。その時マスコミ日本アメリカを追い抜いたかのように浮かれていたが、第一線で戦う我々技術担当するものには、マスコミの浮かれようが苦々しかった。それまであらゆる分野でアメリカトップを独占していた状態に、やっとピンホールを開けたに過ぎない。それなのに天下をひっくり返したかのようなマスコミの浮かれ様には本当に腹が立った。今ではかなりの分野で日本技術確立されたが、ここに至るまで戦後70年余も掛かったことを思えば、我が生涯は親父の言葉意味を噛み締める毎日であった気がする。

2018-08-09

[]日米関係に対する翁長知事の貢献に米が感謝

昨夕翁長沖縄県知事の死去が報じられた。それに関連して今朝「翁長氏死去 米が感謝を表明」と題する記事時事通信が報じた。その記事によると米国は「日米関係に対する翁長知事の貢献に感謝しているし、沖縄県民にとって重要問題をめぐる翁長氏との長年の協力をとても大切だと考えてきた」とのこと。狐につままれたような話で全く理解出来ない。誰か解説して欲しい。