ペール・ラシューズ墓地 その五

20世紀の世界の都がニューヨークであったとしたなら、19世紀の世界の都は明らかにパリだろう。(私見だが、ロンドンは大英帝国の都で世界の都ではない、と思う)

芸術面でも華やかな名前を残した人々は多かったが、歴史・学術方面でも活躍した人は多い。その中でも日本人にもなじみのあるエジプト関係者ふたりの墓。

古代エジプトロゼッタ・ストーンを解読し、ヒエログラフ(古代エジプト文字)を解明したシャンポリオン
11か国語以上習得したと言われた若き天才はコレラのため41歳で死亡。墓は当然のことながらエジプトのオベリスクをかたどっている。
Champollion Jean-Francois 1790-1832















スエズ運河を建設したレセップス。
Lesseps Ferdinand, comte de 1805-1894

地中海と紅海を結ぶこの運河の開通は1869年、開始から
15年の難工事だった。
レセップスはこのあとパナマ運河にも挑戦。こちらは失敗し、失意の中亡くなったという。

現在のパリの街並みの美しさの生みの親、オスマン
ナポレオン3世の支持のもと1853年から70年にかけてパリを大改造した。
それまであった路地裏や貧民屈を強制撤去し、大通りを通し、放射線状に大通りが
集まる広場、大通りに建つ石壁のアパルトマン(オスマン様式と呼ばれる)などを
創案した。
Haussman Georges Eugene 1809-1891

ペール・ラシューズ墓地の有名人、ヴィクトル・ノワール
Noir Victor 1848-1870

ナポレオン3世時代の反体制派新聞ラ・マルセイエーズ紙の最年少記者であった
ノワールは、交流のあった同じく反体制派コルシカ新聞の代表者からナポレオン一世の甥ピエール・ボナパルトへの決闘状手渡しを頼まれ、正装してピエール邸を訪れた。名うての乱暴者ピエールはノワールを口汚く侮辱し、両者は口論となり、激高した
ピエールがその場でノワールを射殺した。ノワールはまだ21歳で、2日後に結婚式を控えていた。
事件の2日後、マルセイエーズ紙の呼びかけで、ノワールの民衆葬が行われ、約20万もの人々が街頭を埋め尽くし、葬列の内乱化を恐れた当局は10万の軍隊を投入した。射殺犯のピエールは皇帝の身内ゆえ無罪となり、フランス各地でナポレオン3世を批判する共和派の大規模デモが発生。その後、歴史はナポレオン3世の退位、パリ・コミューンの蜂起、第3共和制へと流れていく。
この民衆の英雄が何故かペール・ラシューズでは恋の神様に。
等身像のある部分をなでると、「新しい恋が始まる」「妊娠する」との噂を聞きつけたパリジェンヌが触りまくったために、
一部がはげて地金が露出してしまった。独裁者も恐ろしいが、思い込みの激しい女性も怖い。

まだまだ著名人の墓はある。
今回行けなかったのは、ポール・エリュアール、ドーデ―、コレット、ラディゲ、コロー、
ダヴィッド、スーラ、サン・シモン、アラン、ミシュレルネ・ラリックマルセル・マルソー等など。44ヘクタールの敷地面積を持つ墓地は広場も数か所あり、公園のような清々しい雰囲気である。
高台にあるため、景色も良い。遠くにエッフェル塔が見える。

盛りの紅葉が美しい。

記念碑も多い。
現代のピエタを思わせる彫刻のある記念碑は、第一次大戦アルゴンヌの戦いにおけるガリバルディ部隊のイタリア人戦士慰霊とある。

イタリア統一の英雄ガリバルディはフランスと戦ったが、その後の普仏戦争では自由主義者としてフランス第3共和制を支持し義勇軍を組織、プロイセン軍に対する義勇兵はイタリアからだけでなく、アメリカ、スペイン、イギリス、ポーランドからも集まった。
この縁からか第一次世界大戦ガリバルディの孫が参加したイタリア人義勇兵旅団「ガリバルディ」が結成され、西部戦線アルゴンヌでドイツと戦った。
ガリバルディの孫たち、ブルーノとコスタンツォはここで戦死した。

これも第一次世界大戦の慰霊碑。チェコスロバキア戦線で自由のために戦った戦士
たちの墓だ。この歴史上の経緯を書くと複雑で長くなるし、もう疲れたので省略。

戦争の記念碑を見ると気が滅入る。続く石畳をもくもくと歩く。
パリの街中では見かけない美しい色に紅葉した落ち葉が。

墓地には秋が良く似合う。(とら)