ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

聖書は語る 釈義と歴史

「世界的に見て、キリスト教は強いのかなあ」と言うと、すかさず主人が「そりゃそうだよ。やっぱり強いよ、キリスト教は」と返してきました。確かに、主人の兄など、入信後、生活態度がゴロっと変わったそうですから。でも、主人には兄のキリスト教が合わないようで(私にもちょっとそれは、という面があります)、その辺りが、何かと誤解を招き、論議を呼ぶところなのでしょう。
ですが、ある時主人が私に言いました。「ユーリ、もっと自信もって主張したらいいよ。ムスリム無宗教者や大学の変な先生達が何を言おうと関係ない。言う場所でちゃんと言わないと、伝わらないでしょ?」
「あれ?でも、キリスト教が嫌いなんじゃなかったの?」
「どうして、そういう風に解釈するかなあ。本当にキリスト教が嫌いだったら、そもそもユーリと結婚なんかしていないよ。あのね、僕はキリスト教にいい印象持っているの。ホントだよ」
「え?そんな風に見えなかったけど」
「見えなくても、そうなの。だから堂々と主張したらいい」
…ということなのですが、全く、世の中(←夫婦関係?)というものは、一筋縄ではいかないものです。
ただし、ある教授が4年ほど前の研究会でおっしゃいました。「一神教は、発するメッセージが強い。こりゃあ、もうたまらん、というところがある」と。それを聞いて、そのような反応があることに、目を見開かれた思いがしました。私にとって、日本国内では理解されがたく、抑圧される存在が一神教だと感じていたからです。

前提が一致しないと「自由」の名の下に議論が混乱する恐れがあるので、ここでひとまず、ご紹介したい本があります。それは、2007年7月10日付「ユーリの部屋」でも言及した、ジョン・リッチ)・池田裕訳・解説)の『1冊でわかる聖書岩波書店2004年)です。本音を言えば、「1冊でわかる」という修飾句が実に邪魔なんですが、販売部数をねらっての効果なのかもしれません。ちなみに、原書も持っていますが、“THE BIBLE: A Very Short Introduction”となっています。2005年8月13日にハーヴァード大学CO・OPで買いました。このCO・OPはまるで本の家みたいで、日本の大学生協書店とは全く規模が違います。ここで何週間か寝泊まりしたいぐらいでした!

本著については、青山学院大学同窓会基督教学会基督教論集第49号2005年)にも、三田和芳氏による意義深い書評(pp.247-254)が掲載されています。
裏表紙には次のように書かれています。「人に慰めと力を与えもすれば、差別と抑圧を正当化する根拠ともなる−聖書は、ときに相反するまでの多様な読まれ方・使われ方をされてきた。」・・・さすがはバランスのとれた表現です。

目次から興味を引かれた章を引用しますと…。

1.現代世界の聖書―古典テキストか、それとも聖なるテキストか?
5.聖書とその批判者たち
6.聖書とポスト植民地主義世界
8.政治における聖書
「三つ、いや四つ−開かれた読みに向かって」(訳者あとがき)

1.から重要だと思う文章を抜き書きします。

・聖書の内容について無知がますます深まっていることに対し、ヨーロッパのキリスト教徒のあいだに懸念が広まっていることの反映である。(中略)聖書とは今でも世界で一番強い影響力をもち、一番広く読まれている書物の一つに数えられるのだという真理である。(p.1)


・持久力は宗教的な主要テキストのほうが高いのである。(p.4)


聖書という古代のテキスト集が、ポスト植民地主義、ポスト産業革命の現代に生きる人々の生活にそうした力を発揮しつづけているのはなぜなのだろうか。(p.4)


・レニーは聖書の愛読者である。彼女はジンバブエに起源を発するアフリカ独立教会の一つに所属し、年に一度、二週間にわたり、教会のメンバーたちと共に祈りと歌と聖書研究の時を過ごす。彼女にとって、聖書が語る豊かな詩や物語は、力と慰めと喜びの源であり、もし聖書がなかったなら、人生は厳しい単調な仕事や経済的、政治的闘争の場で終わってしまうだろう。(p.5)


私は、これまで聖書が正義や自由解放の大義のためだけではなく、多くの人が嫌悪するような諸目的のために利用されてきたことを十分に承知している。例えば、アパルトヘイトを支持していたオランダ改革派教会の多くの会員が、自分たちの人種差別政策は聖書的であり、したがって神学的に正当化できるものであると心底から信じていたというのは、事実である。同時に私は、聖書が、アパルトヘイトとの闘いに関わった人々にとって、倫理的、宗教的導きの源であり、啓発の源であったということも、よく知っている。われわれが取り組まねばならない事実とは、いずれの側も聖書に啓発と導きを求めることができるということである。(pp.10-11)

5.から重要だと思う文章を抜き書きします。

しかし、従来の聖書解釈が批判されたからといって、聖書そのものまでが社会的、文化的創造性の源であることをやめてしまったわけではない。むしろその逆である。従来の聖書解釈を批判することで、聖書の新しい創造的読み方の道が開かれてくるのである。それぞれ方法は異なるが、ルターも、史的イエスの探究者たちも、自分で本当に納得のいく形で聖書を理解したかったのだ。(p.129)

6.から重要だと思う文章を抜き書きします。

今日、世界でキリスト教が最も大きな広まりを見せている地域は、アフリカとアジアにある国々である。それらの国々は今、長年にわたる植民地支配時代から脱しつつあるが、しかし、それは形を変えただけであり、経済的には相変わらず、世界のより強力な国々、およびそれが支える多国籍企業や組織の支配を受けている。こうした地域では、聖書が新しい教会の形成と新しい形態の教会生活の育成に著しく貢献している。聖書は、抑圧的政治体制からの解放を目指す闘争の過程で引用され、闘いの支えになってきた。しかし、聖書は、キリスト教を自分たち自身の伝統的文化により近い形のものにしようとする人々にも、大いなる霊感を与えてきた。聖書がそれぞれの土地の言語に翻訳されていったように、宣教師たちの建てる主流の教会と並んで、新しい信仰形態や礼拝形式が育っていった。(p.130)


このアフリカにおいても、聖書は、抑圧と解放の両方の道具に用いられた。17世紀にオランダ人により植民地化され、19世紀初めにイギリス人が占領した南アフリカでは、エジプトの地を脱出した民が約束の地に入る出エジプトの物語は、アフリカーナー民族主義の台頭にとって重要な役割を果たした。(p.140)


しかしながら、そのような聖書の読みに対して異議が突きつけられずにいることはなかった。人種差別(アパルトヘイト)に対する反対の多くは、世俗のあるいは人道主義イデオロギーを土台にするものだったが、キリスト教内の一部の指導的人々が反人種差別闘争を支援したことは否定できない、当時、人々は教会のことをよく「もがきの場」と呼んでいたが、これは彼らが、どのような意味で、教会およびその指導者たち、その中心的シンボルに異議を唱えていたかをよく教えている。それにもかかわらず、デズモンド・ツツのような教会指導者たちは、アフリカーナーの指導者たちに向かって、アフリカーナーによる聖書伝承の利用という、とりわけ微妙な問題について話し合いを申し出た。この点を知るうえでためになるのは、ツツの論文集『希望と受難』である。(p.142)


西欧の宣教師たちによって設立され長く運営されてきたアフリカの教会は、純粋にアフリカ的な神学や霊性を、その語法や社会での具体活動を通し、いかに発展させることができるか。そして、この企てのために聖書はどのような貢献ができるか。(p.146)
・アフリカ独立教会は、主流派教会が教えてきた支配的な聖書解釈の形態に対し、二重の抵抗を示す。一つは、有色人種をわきに追いやるか排除してきた植民地主義的聖書解釈に対する抵抗。この場合、アフリカ独立教会が聖書を引くのは、それが人々に解放をもたらし、貧しい者たちに力を与え、排他的ではなく自由を大切にし、女性に権威を与える聖書だからである。もう一つは、既存のものに取って代わる宇宙論の主張を通しての抵抗。すなわち、ドゥペによれば、モヤとしての神の行動に対する信仰、およびすべての人々のためにモヤの治療行為を執り行なうことができる共同体としての教会理解は、アフリカ独立教会の会員たちが目の前の苛酷な肉体的、経済的状況をはね返すための手段なのだ。(p.150)


聖書の植民地主義的およびポスト植民地主義的読みの歴史は、聖書の利用と誤用について研究するうえで非常に役立つ。それは、聖書テキストがもつはかりしれない柔軟性と豊かさについて、明確に教えてくれる。聖書テキストは、極端に異なる仕方で読むことができる。つまり、同一のテキストが読み方次第で、同じ人々に命をもたらすものにもなれば、死をもたらすものにもなりうるのだ。(中略)聖書という文書を完全に拒絶してしまったら、生きていくうえできわめて重要な財産に背を向けるという危険を冒すことになる。(p.151)


現在においても、聖書は、抑圧の下に生きている人々に慰めと力と自由をもたらすために用いることは可能なのだという、明白な証拠を握っている。もし、聖書に触れるのは危険だからと言ってそれに完全に背を向けてしまったら、われわれはあまりにも多くのものを失うことになる。(p.152)


では、聖書をどのようにして用いたらよいのか、第一には、批判的に、である。われわれは、聖書から聞こえてくるさまざまな異なる声に注意すると同時に、そのうちのどの声を特に重要とするかはそれぞれの読者によってまるで違うということも、しっかり知っておかなければならない。われわれは、これらの異なる声や読みの違いを正しく区別し、われわれ自らの倫理的判断を行使する力を身につけていなければならない。第二に、思いやりの心をもって読むべきである。(中略)すなわち、われわれは、われわれ自身の倫理的判断が聖書のより暗い側面に圧倒されるようなことを断じて許してはならない、ということである。しかしながら、聖書を批判的かつ入念に読むことは、われわれの倫理的感覚を活気づけ、鋭敏にし、かつわれわれに、個人や共同体の変革をもたらすことのできる倫理的、宗教的ヴィジョンを与えてくれるにちがいない。(pp.152-153)

8.から重要だと思う文章を抜き書きします。

宗教と政治は混じり合わないと人々が言うとき、いったい彼らは、どんな聖書を読んでいるのか。私は理解に苦しむ。(デズモンド・ツツキリスト教徒による救援ポスターより)
植民地主義的聖書解釈は、ラテンアメリカやアフリカでのキリスト教徒による土地征服や先住民の隷属を、さらには、先住民の殲滅行為さえも、正当化したのであった。他方、同じ聖書が、植民地化された地域の人々を解放するための強力な道具ともなりえた
。(p.184)

「むすび」から重要だと思う文章を抜き書きします。

思想や文学や芸術の分野において、人類が生んだ数々の偉大な記念碑的作品のあるものは、聖書に霊感を得てつくられたものであった。同時に、聖書は、残忍、利己心、狭量といった人間の最も邪悪な本能のある部分をかき立てる働きもしてきた。聖書に霊感を受けた男性や女性たちが、偉大な奉仕の精神と勇気を要する活動に従事し、人間の解放と発展のために闘ってきたと同時に、聖書は、同胞の人間を奴隷と貧困の絶望状態におとしいれる社会を活気づけるイデオロギー提供者の役を演じてきた。聖書は、キリスト教の大きな信仰復興運動に−最近ではアフリカやアジアにおけるキリスト教の目覚ましい発展に−重要な役割を果たしてきた。(p.207)
・テキストから聞こえてくるさまざまな声の違いを識別し、異なるテキストの読みや構造の違いを確認してゆきながら、読者の倫理的、宗教的想像力や判断力は形づくられ、鋭敏にされていくのである。そうした識別力のある、丁寧なテキストの読み方がなされるところでは、共同体の伝統も豊かに育ち、生き生きしてくるはずである。(p.220)

「三つ、いや四つ」から重要だと思う文章を抜き書きします。

・著者は、聖書がヨーロッパの植民地主義者たちにより、支配や搾取や差別の正当化に利用されてきた長い歴史を、深い反省を込めながら記述している。記述の背景には、かつて著者が看護婦である夫人と共に南アフリカで生活した際に目撃した現地の人々の悲惨な姿が重なっていることを、訳者との交信の中で語っている。だが、聖書は両刃の剣である。聖書の神の名の下に抑圧や差別に苦しめられたため、聖書を白人のための本だと避け嫌っていた人々もいた。そういう人々がやがて、ヨーロッパ・キリスト教的聖書解釈に対抗し、聖書を新しく批判的に読み直すことで激しい闘争を開始した。(pp.226-227)


殻に閉じこもらない、つねに窓を開けて外気を入れ、新たな時代や文化との対話を求め、受け容れていこうとする柔軟さがあった。開かれた、つねに刺激を求めつづける書としての聖書である。本来なかった「聖なる」という重い肩書きを付けられてしまったために、かえって敬遠されてしまったところがある書物。(p.233)

(引用終)

とにかく、聖書はおもしろいんです。私は学部生時代からまじめに読み始めて、文語訳、英語訳、ドイツ語訳、スペイン語訳、マレー語訳でも読みますが、何度繰り返してもおもしろい!そして、常に新しい発見があります。書き込みがいっぱいあって、とても人様にお見せできるような聖書じゃありませんけれど、読めば読むほど、味の出るするめのような書なんです!