ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

現実を直視しながら夢は大きく

パキスタンのベナズィール・ブット女史が暗殺された事件は、非常にショックでした。事件直後、日本で報道されるよりも早く、マレーシアの電子版メディアが報道していました。たまたま、「ユーリの部屋」を更新しようとして、インターネット上でその事実を知ったのです。ぎょっとして慌ててテレビをつけると、日本では脳天気な番組ばかり。平和なのは結構ですが、もう少し、世界的視野で物事を考え、喜びも痛苦も共に分かち合うという姿勢が望まれるのではないでしょうか。
マレーシアでは、パキスタンムスリムはもちろんのこと、パキスタン出身のヒンドゥ教徒その他の人々も、極小マイノリティとはいえ、活力ある商人層として確かな存在感を誇っています。
マラヤ大学大学院での私の指導教官だったマヤ先生は、カラチ近郊からマレーシアに移住したシンド系二世の女性でした。珍しいことにカトリックの方でした。多分、ヒンドゥ教からの個人改宗だろうと思われます。カーストとは無関係でしょう。
この先生からは、アカデミックな点でというよりも、本や論文に書かれている以上の生き知恵というのか、したたかな教訓を学ばせていただいたと思います。1947年のインドとパキスタンの分離独立に際して、人々は着のみ着のまま、住み慣れた地から逃げだしたそうですが、マヤ先生によれば、「ムスリム支配の下では、ヒンドゥ教徒は生きていくのが困難だから」との説明。その簡潔な一言が、すべてを物語っていると感じました。(参考:拙稿「マヤ先生のこと−シンディ・コミュニティの選択−マレーシア研究会会報No.28, 2004年2月号, pp.31-37http://homepage2.nifty.com/jams2006/NLindex03.html#christianity))
ブット女史は、シンド地方の一族の墓地に埋葬されたとのことです。
南の国々は、どうも血なまぐさい事件が大きく報道されがちです。もっとも、長年にわたって文明も発展し、人々はたくましく生き延びてきたのですが。そうはいっても、近年は、流血の惨事がとみに頻発しているような印象を与えます。欧米諸国のやり方を非難するのは簡単なのですが、なんとか平穏な社会に戻れないものでしょうか。

ところで昨日は、マレーシアのキリスト教組織の総主事秘書兼研究員の女性から、久しぶりにメールをもらいました。彼女は私と同い年ですが、もうそろそろ、今の仕事をやめて、次の人生目標に移りたいのだそうです。もともと絵を描くのが大好きだったので、それを実現させずに人生を終えるなんて、死んでも死にきれないと書き送ってきました。そのため、慎重に様子を見計らって上司に申し出たところ、「代わりの人が見つからないので、もう一年ここで続けて欲しい。その分、毎日出勤しなくてもよい。週に四日だけここで働いてもらいたい。現在は、国が宗教上、非常に難しい時期に直面しているから、やめないように」と言われたとのこと。
私にとっても、本音を言えば、彼女にやめられたらちょっと困るところがあります。何かと連絡がマメで迅速なので、非常に助かっていましたし、男性に会うことが多いフィールド・リサーチでは、できれば、同世代の女性が間に入ってもらった方が、心理的にも非常にやりやすいのです。
マレーシアで、ちょうど私達の年齢は国民教育制度の重要な転換期に当たり、何かとやっかいな節目に思春期を迎えました。福建系四世の彼女は、学業成績はよかったものの、多分、クォータ制のせいでしょうか、生まれ故郷のマレーシアが大っ嫌いで、高校卒業後、台湾経由でヨーロッパやアメリカに何年も滞在していたと言っていました。でも、ハワイの大学で宗教学の修士号をとる勉強をしていた頃、回心してクリスチャンになったとのこと。それで、帰国を決めて、しばらくは社会福祉活動をしていたものの、ある時、今の仕事の募集を知り、応募してみたのだそうです。何度か面接があって後、採用されたと聞きました。私は、職について二年目のフレッシュな彼女と、リサーチ目的で訪れたオフィスで総主事に紹介されたことがきっかけで、彼女から「友達になろうよ」とまで言われ、それ以来のつき合いです。
彼女の夢は大切にしてあげたい、でも、今の仕事も、できればパート・タイムでもいいからつながっていてほしい、というのが、私の率直な願いです。ただ、なかなか忙しそうで、来年春にはフィリピンに一ヶ月、その後はロンドンに一ヶ月滞在する予定だと書いてきました。健康に気をつけて、実り多い旅になりますように!

彼女のプランを読んでいるうちに、『ヘラルド』の件で気落ちしていた私の方も、元気と意欲が出てきました。がんばらなきゃ、という感じです。やはり、多方面からの刺激が必要なのですね。

おとといには、T・K氏から、マレーシアのイスラーム主義政党に関する研究論文の抜刷二本が送られてきました。わざわざクリスマスカードまで同封されていて、励ましのお言葉を書いてくださっていました。どうもありがとうございます!ご論文は、読んでいるうちに、(私にももっと書けるかも)と不思議なエネルギーが湧いてくるので、非常に感謝です。

また、ある出版社からお電話があり、研究書の発行について、いろいろとアドヴァイスをいただきました。テーマを手短にお話したところ、「○○メモ」の形や「調査報告書」でもよいので、時期毎にまとめてみてはどうか、とか、当該地域が今抱えている問題と過去の問題を整理してみてはどうか、などのテキパキとしたお返事でした。「小さなテーマを報告書の形で少しずつまとめていき、それを論文で締めくくり、徐々に展開させていくやり方もある。そうすれば、関連性のある共同研究のお話も来るのでは」などと教えていただきました。ありがたい限りです。

気が散っているようにも見えるかもしれませんが、実のところ、来年はドイツ語でももっと本を読み通したいのです。五嶋みどりさんの“Autobiografie: Einfach MidoriHenschel Verlag2004)は、ずっと前から読める時には読んでいるのに、どういうわけかまだ途中読みです。それに、11月下旬に本棚の整理をしていたら突然姿を現した本で、マンハイム在住のBirgitが1989年12月31日に送ってくれたオグロ・テツオ氏の“Ihr Deutschen-Wir Japaner: Ein Vergleich von Mentalität und DenkweiseEcon Verlag1984)も、読みかけのままです(Birgitについては「ユーリの部屋」の2007年12月22日と23日を参照)。とはいえ、さっきもつい、数ページ読みふけってしまいました。ドイツ語は、やっぱり好きなんです。誰が何と言おうと、好きなものは好き。でも、ドイツに派遣されていたなら、恐らくは専門と呼べるほどの自分のテーマが作れたはずもないので、やはり趣味なんでしょう。

ドイツ語と言えば、何年も前に東京のユースホステルで同室だった、30過ぎの感心な女性のことを思い出します。昔から不仲だったご両親がとうとう離婚して、家にはお金もなくなってしまったので、「人生は自分で切り開かなくては」と考え、ロック音楽をきっかけに好きになったドイツ語を勉強し始めたのだそうです。アルバイトで貯金に励んだり、親にお金を出してもらったりしてドイツ行きを計画している周囲をしり目に、「バイトしている暇に勉強して、いい成績を取って奨学金をもらい、それでドイツに行く」と言い切り、その通り実現させたようでした。姉妹都市として提携を結んでいるフライブルク大学に、一時期留学していたとのこと。東京に来たのは、ゲーテ・インスティテュートの上級口頭試験を受けるためで、それに合格すれば、最近、編入学試験で決まったばかりだという大学で、授業料だったか入学金だったかが、全額か半額か免除される仕組みなのだと言っていました。一緒に宿泊している間に、彼女は軽々とパスしたようで、「合格した」と私に伝えに来ました。地元では、さまざまなルートでドイツ語通訳の仕事も入ってくるそうで、「その謝礼と奨学金と今回の免除分とで、なんとか、もう一度、大学生活を送ることができる。もちろん、大学に入り直したのは、資格をとるため」と、実に前向きで活発な人でした。たとえ家庭には恵まれなくとも、それだけに知恵を使って、賢く人生街道を歩んでいるんだなあ、とつくづく感じ入った次第です。私も見習わなければ…。

今年は、『ユーリの部屋』と“Lily’s Room”を始めたことにより、文章表現を通して、長年、内側にたまっていたもやもやの整理ができて元気になってきました。来年は、もう少し時間配分を練り直し、テーマ別の文章に分類して、個人ホームページに昇格(?)させていければと考えています。アイデアだけは、頭の中にいろいろとあります。あとは、気力と体力の維持と時間確保が、問題と言えば問題ですね。

英語版はてな日記“Lily's Room”では、アラビア語由来の神の名をめぐるマレーシアの宗教政治問題について、一連のメディア報道をまとめてアップしておきました。この件については、事態が一段落したところで、あらためて考察してみたいと思っています。