ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

先達に学ぶ (1)

今年の元旦の『信毎』に、臼井吉見さんはこう書いている。「最近、憲法改正案が出ているようだが、今の憲法を外国から押しつけられたものとだけ考えるのは間違っている。わが国には既に、それを求めるに足る国民の歴史的実践があった。大正デモクラシーがそれである。


(『十年経たるか Tiel pasis dek jaroj』(佐久総合病院院長 若月俊一氏))

一方にGrosse Männer schreiben keine Bücher.(大人物は本など書かぬもの)という文句もあり、特にこのような自己中心的な雑文を出版することはonanio(自慰)にも似たものとも言うべきか


(『十年経たるか Tiel pasis dek jaroj』 p.5)

しかし、われら凡人の命運はすべて神の思し召しによるものであり神の御手に任せてその日その日を送る以外に仕方あるまいと考えています。木戸孝允の詩に“時如流水去不還 人似草木争春栄”とありますが、政治家などにも東洋流の脱俗した風格を望みたいものであり、同学の学者諸公にしても時流に迎合するようなハッタリ的アルバイトの多いことは悲しむべき傾向と思います。


(『十年経たるか Tiel pasis dek jaroj』「長野県眼科医会会報 第12号昭和49年1月 p.23)

元来環境をよくするとか住みよい街を作るとかいうことは自然に従って自然の間の調和、ハーモニーを保つことに帰着するものであり、我々人類は特に今世紀に入ってから自然を征服するというような神を恐れぬことを公言するようになり、それが現在の災害公害の基であります。万物の霊長たるべき人類は、この際謙虚に反省して地球上のあらゆる生物植物の間に自然なハーモニーを回復するように努めることが環境整備の再出発となるものと信じます。(中略)


会長としていつも皆さんにお願いしていることはこのような調査研究は極めて地味な目立たないものではあるが、執念深く取り組んで欲しいということです。過去数十年の間に、人類が知らず知らずに侵してきた環境破壊の罪を償ってゆくためには根強い努力が必要であり、このような記録は後になって一つの道標の意義を示すであろうと信じます。世の為政家もこれに応えるようにして欲しいと思います。自然は調和なりと最初に私は申しました。水清ければ魚棲まずとも申します。我々の求めるところは蒸留水のような透明無比ではあるが、死んだ水ではないはずで、すべての面で清濁あわせ呑むという幅の広い理念を持つべきであることも付言しておきます


(『十年経たるか Tiel pasis dek jaroj』「序言―松本市環境をよくする協議会長としての会報昭和49年3月15日) pp.25-26

《以上》