ゲンデン首相の悲劇

 1932年(昭和7年)、外蒙古(現在のモンゴル人民共和国)はゲンデン首相が就任します。1935年(昭和10年)、スターリンの命を受けたソ連派がハルハ廟事件を起こし、満州国へ侵入しますが、ゲンデン首相は隠れ親日家であり、軍に国境線から数キロの撤退命令と不戦命令を出し、戦闘を禁止します。そして国境確定会議であるマンチューリ会議が開かれます。
 1934年にソ蒙相互援助秘密協定が結ばれており、スターリンはゲンデン首相に公式化を要求しますが、ゲンデン首相が引き伸ばしたため、スターリン外蒙古の副首相のチョイバルサンを使い、日満軍を攻撃(オランホドク事件)し国境紛争によってソ連軍の外蒙古駐留を認めるように圧力をかけていきます。ソ連としては満州国は脅威であり、外蒙古満州国が手を結ぶのを恐れており、なんとしても外蒙古を掌握したかったのですが、ゲンデン首相は抵抗します。またスターリンラマ僧を一掃するよう要求していましたが、ゲンデン首相は仏教に帰依しており、これも抵抗の要素になりました。
 1936年(昭和11年)3月、「ソ蒙間友好条約」「相互援助議定書」が締結されます。ゲンデン首相は解任。国境警備隊内務省直轄にして親ソ派のチョイバルサンの指揮下になります。

 ゲンデン首相には有名なエピソードがあります。(モンゴルでは有名らしい)

スターリン「日本が攻め込んできたら君はどうするつもりなんだ。」
ゲンデン「私は祖国を捨てて逃げたりはしない」
スターリン「坊主どもはどうするんだ」
ゲンデン「我国は人口が少ない。ラマ僧は還俗させて働かせるつもりだ」
スターリン「ゲンデン、君はラマ僧といっしょに社会主義をやろうなんてよく言うね。モンゴルのハーンになろうとでも言うのかい」
ゲンデン「グルジア人のスターリンさん、あんたこそロシアのハーンに君臨しているじゃないか。私がモンゴルのハーンになって悪いかね」

 このように言い放ってけんかになり、ゲンデンはスターリンのほっぺたを「平手打ち」したうえ、『足蹴にし』、「パイプを取り上げて投げつけた」と言います。

 ゲンデンは1936年7月に逮捕され、拷問をうけ、自分が日本にやとわれえスパイになったと自白強要させられ、ソ連があらかじめ作成していた112人のリストを共犯者として同意させられました。この名簿はチョイバルサンに渡され「反ソ反革命日本のスパイ組織参加者」の一斉検挙となります。
 1937年11月、ゲンデンは処刑されます。これよりノモンハン事件が起きるまで2万6千の蒙古人が粛清されたといいます。外蒙古の人口が80万人ですから、人口の約6%です。いかにすさまじい出来事だったかわかるでしょう。
 


参考文献
 「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共著
 「ノモンハン戦争」田中克彦

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