ダライ・ラマの亡命とチベット亡命政府

 1959年3月、中共ダライ・ラマ14世に「人民解放軍司令部での観劇」に招待します。ラサの中共軍の駐屯地です。しかも「警護をつけない」「出発の際、儀式をしない」ことを条件とする異様な”招待”でした。法王側が断っても中共軍は執拗に要請し、徐々に脅迫の色合いを帯びてきます。
 中共が法王の「拉致」を企んでいると察知したチベットの民衆は迎えにきた中共ジープの進入を阻むため、ノルブリンカ宮殿の周囲に集合。チベット全土から民衆が集結し、30万人にも及びます。チベット政府はダライ・ラマ14世を脱出させ、インドへ向けて亡命させます。中共軍は群集に容赦なく発砲。9万人に迫る犠牲者を出します。

 岩波書店から出版された王柯著「多民族国家 中国」にはこんな風に書かれているそうです。

チベット族に対して民族区域自治を実施することは、中共の最初からの既定方針と考えられる。(中略)1956年4月、ダライ・ラマ14世を委員長、パンチェン・ラマ10世を第一副委員長、解放軍のチベット軍区司令官を第二副委員長とする『チベット自治区準備委員会』が設立された。(中略)ところが、自治区の成立が伝統的社会制度の廃止につながる危険を感じ、ダライ・ラマをはじめとする旧上層部が反乱を起こした。中国政府が反乱を鎮圧して1965年9月1日『チベット自治区』が設立された。

 中共人の認識が良く分かります。この本の著者メッセージを読むと中華思想バリバリですね。

 亡命したダライ・ラマ14世は1959年4月29日、チベット亡命政府をムスーリーに設立し、1960年5月にインド北西部のダラムサラに移ります。正式には中央チベット行政府 CTA (Central Tibetan Administration)と言います。13万人に及ぶ亡命チベット人の福祉を守っています。
 憲法があり、自国の建国について「釈尊ブッダ)の教義に基づいて建てられた」としててダライ・ラマを最高首長としていますが、完全な信教の自由を保障しています。日本の明治憲法を思い出します。天皇を元首として信教の自由は保障されています。そのほか「戦争と武力行使の放棄」がありますが、この考え方から軍事力を持たずにいたため中共の侵略を許したのだと思います。
 チベット亡命政府三権分立があり、立法、行政、司法機関があります。立法はチベット亡命会議があり、亡命チベット人の直接選挙によって選ばれる46名の議員で構成されています。行政は宗教文化省、内務省財務省、文部省、公安省、情報・国際関係省、厚生省があります。司法は「亡命チベット最高司法委員会」という裁判所がありますが、亡命チベット人は滞在国の法律に従って生活しているので、亡命チベット人社会の民事問題を裁くのが主な役割のようです。



参考文献
 「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子編
   『胡錦濤への聖火は許せない』櫻井よし子
   『中国のチベット・ジェノサイドの恐怖』三浦小太郎
 「チベット問題を読み解く」大井功著
参考サイト
 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
   中央チベット行政府 http://www.tibethouse.jp/cta/government.html
 「多民族国家 中国」 http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0503/sin_k222.html


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