k-takahashi's blog

個人雑記用

消極性デザイン宣言

消極性デザイン宣言 ―消極的な人よ、声を上げよ。……いや、上げなくてよい。

消極性デザイン宣言 ―消極的な人よ、声を上げよ。……いや、上げなくてよい。

サブタイトルの「消極的な人よ、声を上げよ。……いや、上げなくてよい」というのがうまい。そう、消極的な人は声高に声を上げたりしない、別に声を上げなくてもいいのである。
世の中、とかく積極性を正義、消極性を悪のごとく語りがちだがそんなことはない。世の中の悪しき固定観念を否定して、さて、それではどうすればよいかを考えよう、というのが本書の内容。


前半3章は、コミュニケーションの話。
いわゆる「ウェーイ系(コミュ強)」の人から、暗いと批判されたり、怪しげな余興や妙ちきりんな盛り上がり儀式を強要されてイヤな思いをした人は多いだろう。彼らは別に悪意を持ってやっているのではない(一部には悪意を持ってやっていたり、マウンティングのためにやっている連中もいるだろうが、一応そういうのは除く)はずだが、我々から見れば不快な態度であることは事実である。
なぜ、そういうことが起こるのか、というのが最初の観点となる。一言で言えば、これは「人毎・状況毎に最適なコミュニケーション量(密度)は異なる」ということが共有されていないからである。


SNS疲れという言葉がある。
SNSに対して発言をし続ける、他人の発言を読み続ける、それに応答を送る、そういった活動の負荷が大きくて疲れてしまうというもの。
疲れたから止める・休憩する、というのができればよいが、往々にして実社会に引きずられる形で活動を強制され、事態が悪化してしまうことになる。
せっかく、情報技術によって従来の形とは違う形のコミュニケーションができるようになったのに、一部の人しか喜ばない従来の形の都合に合わせるのはおかしいのではないか?


もちろん、実社会では引っ込み思案の人がSNSでは非常に活発になることはある。そういう人の場合は、手段が合わなかっただけで、コミュニケーション自体は大量に取るタイプの人(実社会のコミュ強と同じタイプ)だったのだろう。これはこれで良い話。


だが、そうでない人もいる。
例えるならば「辛味」。
激辛が好みの人もいるし、程々の辛さが好みの人もいる。激辛好みの人が何でもかんでも辛くしてしまい、それを他の人に強要するとしたらそれはおかしい。辛味が苦手な人にとっては単に苦痛なだけであるし、多くの人は辛いものも辛くないものも状況や気分、目的によって食べ分けたいと思うもの。何でもかんでも辛くされて、それを強要されるのは迷惑である。
同じことがコミュニケーションにも言える。交流の濃度・頻度を高くすればよいというものではなく、個性・好みや状況によって使い分けられるべきである。だが、現状はコミュ強の都合にばかりあわせている。それはおかしいだろ? という話。


弱者向けの配慮とされるものが、実は多くの人の利便性を向上することは多い。
車椅子用のバリアフリー対策は海外旅行の際のスーツケース移動のために役立つし、弱視者用のシャンプー・リンスの区別用凹凸は目を閉じて洗髪する人にとっても役立つ。
コミュニケーションデザインだって同じ筈。弱者(強い刺激が合わない人)のためのデザインは、ユニバーサルデザイン的に多くの人にとって有用なものになるはずである。


ということで、色々な例が紹介されている。有名なスピーチジャマー、懇親会の席決めシステム、積極性の高い人と消極性の高い人をうまく融合する手続き、匿名の使い方、派生創作のコントロールなど。


後半2章はモチベーションの話。
モチベーションをうまくコントロールするのに、ゲーミフィケーションとかあるいはスマホゲームのデザインメソッドなどがよく言われるし、実際スマホゲームのコントロールは手間とお金をかけているだけあってよくできている。
本書では、一歩進めて「うまくプレイできているかのような演出」を導入し、それでモチベーションを高めることで実際にプレイがうまくなるという話を紹介している。


最終章は、ここでは消極性を「使いにくさ」「面倒くささ」の現れと捉えることで、インタフェースデザイン、インタラクションデザインの話に持っていっている。
上記のコミュニケーションの話がピンと来ない人でも、使いやすいUI、売れるデザイン、というのに関心がある人は、この第5章だけでも読むべきだと思う。


ということで、色物っぽいタイトルの割には、中身はかなりまともにコミュニケーションやデザインの話になっていた。ただ、内容はかなりばらついているので、一冊の統一感的なものは無いと思う。個人的には、前半の弱者に優しいコミュニケーションメソッドのデザインが面白かった。


読書会なんかでも、1章1回で5回分のネタ元になってくれていいんじゃないだろうか。