21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『杳子・妻隠』 「妻隠」

なんだか魂が、というより軀の感じが軀からひろがり出て、庭いっぱいになって、つらくなって、それからすうっと縮まって軀の中にもどってくる。おもての物音をつつんで、すうっと濃くなって入ってくる。そのたびに金槌の音だとか、男たちのだみ声だとかが、庭で立ったかと思うとすぐに軀の奥にこもって、びいんびいんと響き出す。(235ページ)

 今日はあくまでメモ書きである。(いつもはちがうのか、と言われれば返す言葉もないが)。「妻隠」は、漱石の『門』のパロディだと思う。と、すれば「杳子」は『三四郎』に『それから』をかねているのかも知れない。
 『槿』を『こころ』だと言うにいたっては、飛躍がはなはだしく、それだけに我ながら気に入った妄想だが、妻と二人で家の中にひきこもっている、という共通点だけで『門』というのは、安易だと自分でも思う。しかし、古井由吉は創作にあたって漱石を意識している。そういえば、『漱石漢詩を読む』という著作もあった、といえば牽強付会をみずから印象づけているようでもあるが。
 いずれにせよ実証には漱石を読み返さねばなるまい。

古井由吉『杳子・妻隠』 「杳子」

「あなたは健康な人だから、健康な暮らしの凄さが、ほんとうにはわからないのよ」(八)

むかし、やしきたかじんが、あるタレントの浮気を評して、「あれは病気やないねん、癖やねん。癖やから一生なおれへん」と言っていたが、この小説が書いているのは要はそのようなことだ。また、この小説はヤンデレ萌え小説として、『ノルウェイの森』の遥か先を行く。
 まあ、そういうミもフタもない話はなしにして、ほぼ十年ぶりに読み返してみると、古井由吉ストーリーテラーぶりに舌を巻くしかない。ストーリーテラー、とは何か?、と問われれば困ってしまうけれど、「続きが気になる」を作り出せる能力、とでもしておくか。こういうとき私は現代の作家として、宮部みゆきとか吉田修一をイメージしている。
 また、構成と時間の流れを書き出してみるとすれば、この小説は8つの章から成る。一.山間の谷で「彼」が杳子と出遭い、ともに麓に下りるまで。二.3箇月後、町でもう一度杳子と出遭い、同じ喫茶店での逢引きをくりかえすようになるまで。三.春先、ふたりの「公園めぐり」。四.4月から6月。食事のシーンと、二人が籠もっているころ。五.7月から8月、また喫茶店で逢うようにするころ。姉の話。六.8月の終わり。ひきこもるようになった杳子と、海辺への旅。七.一週間後、電話。その5日後、杳子の家を訪れる。八.終章。杳子の部屋で。
 杳子は「病気」であり、その病は「彼」にも感染しているようなしていないような感じなのだけれど、時間軸の混乱はない。読者としてみれば、読みながら腑に落ちない、ふたりが幾度も体の関係を重ねてから渡される電話番号も、第5章の複線に乗って、第6章で手渡され、第7章で使用され、第8章で謎解き(つまりは、なぜ杳子がこの電話番号を渡したか)があるまで、一貫した論理性のうちにある。読者は、視点人物である「彼」とともに、11箇月の時間軸に沿って、杳子の物語を追っていくことになる。この小説は、純粋に杳子を描くための物語で、彼女にアンパンを食べさせるおばちゃんとかは、背景、あるいは道具にすぎない。
 読者は、純粋に杳子の物語に没入できるし、彼女はとても魅力的に描かれているから、続きが気になる。名ゼリフ、名シーンも頭に残る。息もつかずに読んでしまうことにもなる。ただしかし、ここから逆説的に近年の古井由吉の作品へと翻れば、息もつかせず読むことができないということが、ひとつの魅力になってはいまいか。けれどもそれは、「杳子」の物語性を否定したということではなく、先にみた『辻』の短篇のように、物語がほんのわずかな断章に集約されてちらばり、それこそ枝間に光る水滴のように、それぞれの輝きを放つ、という構成になっているように思う。
 どうにも「杳子」論としてはうまく書けなかったが、この小説が古井作品のひとつの「単位」になっていることは疑いない。

「学校の行き帰りにも、いつも駅の数をかぞえているの」
「そうよ。あなたがそばにいて邪魔しないから」
「毎日、ぴったり数が合って、嬉しいだろう」
「はい、大変、しあわせです」
(三)

(『杳子・妻隠』 新潮文庫