うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

お祭りと『フロイトを読む』より


 昨日はお祭りの本番!
去年は遅く、くじ引きに行ったので景品がなかったってことで、一番に行きましたが
 貴ちゃんはティッシュ......。

 まりちゃんに期待がかかりましたが、ティッシュでした.....。
来年は11時くらいにしてみましょう!

お天気が心配でしたが、花火はありました。
朝に雨雲レーダーを見ていたら、完全にアウトでしたが、夕方レーダーを見直すと、渥美半島を避けて二股に雨雲が分かれて流れて行ってました!誰がハゲ(私です(笑))ではなくて(笑)晴れ男だったのでしょうか?
貴ちゃんのお父さんが来てくれたので、貴ちゃんのお父さん説が有力になりました(笑)

 始まりは、皆さんモチベーションが上がらず、うたたねの窓からの鑑賞(十分見えますが)でしたが、激しくなると、みなさん外に出て来てました。

 これはまだ全員ではありません。
花火が盛り上がる前に寝てしまった方もおり、楽しみにされていたのに......。
 まあ、何発か見れたので良しとしましょう!しかし、腹に響くくらいの音の中で眠れるというのは、睡眠障害がある、おっちゃんには羨ましい限りです!!!

来年はお天気だといいですね!

 


 今日は日勤!
夜勤は健康管理が主な仕事ですが、日中はある面楽しめます。

 


 18時前には珍しく帰宅出来たので、少しだけ本を読ませて頂きました。

 フロイトの様な天才でも、沢山の先人に教えを乞うというのを知って、自分みたいな輩は彼の100倍勉強しても無理かな?と諦めの境地になりかけましたが(笑)何とか粘って勉強し続けたいと思いました。勉強したら施設では仲間外れになると、親分が施設で働いていた時に言っていましたが、施設によったらそんな雰囲気もありますね(笑)
 自分も老害にならないよう、気をつけます(笑)
論文も良いけど、その歴史的背景を知るのも面白いなと思ったので、アップさせて頂きました。少し長いですが、是非読んでほしい箇所です。

フロイトを読む』
『ヒステリー研究』S.フロイト&J.ブロイアー(1895d)
重大な発見:ヒステリー症状には意味がある
伝記と歴史
1895年に『ヒステリー研究』を出版するまでのフロイトの半生
 1895年、フロイトは39歳だった。彼は結婚していて、数人の子どもがいた。そして既に神経病理学の研究者および臨床神経病医として認められるキャリアを、十分に積んでいた。彼は、1856年にユダヤ人の両親の子供として、モラビアフライベルクで生まれた。彼は、自分が自由主義者無神論者だと明言したが、情緒的にはユダヤ主義に結びついたままだった。彼の家庭では、世代間の関係が複雑だった。事実、フロイトの父親やーこぶJakobは40歳の時に、20歳の若い女性アマリア・ナタソンAmalia Nathansonと再婚していた。だから彼女は、ヤーコブの最初の妻との間に生まれた2人の息子たちと、同じような年齢だった。このことは、幼いジークムントを混乱させた。当時彼は、自分が年老いた父親の息子というより、母親と異母兄の一人との若いカップルの息子であると想像した。フロイトは8人兄弟の長子で、いつも母親のお気に入りだった。このことは、人生で成功するという彼の確信を疑いなく強めた。1860年、一家はウィーンに移住した。そこでジークムントは医学を学び、生理学者であり実証主義の医者であるエルンスト・ブリュッケErnst Brückeのような、卓越した教授たちのもとで働いた。ブリュッケはフロイトに、高名なウィーンの生理学者であり内科医のヨーゼフ・ブロイアーを紹介した。ブロイアーはフロイトより14歳年長で、ヒステリーの治療に関心を寄せていた。
 科学的方面では、フロイトの見方の斬新さは既にさまざまな研究を通じて現われ、それによって彼は注目されていた。例えば、脳細胞と神経繊維の組織学的・神経学的単位に関する先駆的研究によってフロイトは、ヴァルダイアーHeinrich G.Waldeyer-Hartzが1891年に提起することになるニューロン理論の、知られざる創案者となった。フロイトが1891年に発表した失語症と小児の脳性麻痺に関する論文については、今日においてもその価値は認められている。特に、当時の皮質局在論的な失語症理論と袂を分かった失語症に関する彼の機能論的構想は、現在も効力がある。彼はまた、コカインの薬理効果の研究を行い、自分を実験台にもしたが、しかし彼の発見の名声と評価は同僚たちの一人に奪われた。彼は1885年に、名誉職の私講師Prinatdozent資格を得た。
 1882年ジークムントはマルタ・ベルナイスMartha Bernaysと恋に落ちた。そのとき彼は26歳で、彼女は20歳だった。婚約は4年間続き、その間彼らはお互いにほとんど毎日手紙を書いた。この文通の中でフロイトは、自分がしばし不安に駆られる、情熱的で暴君的な婚約者であることを見せている。マルタは、彼女を高く評価していたE,ジョーンズJonesが後に述べるように、堅実で思慮深い「普通の」女性だった。彼らは1886年フロイトが個人開業を始めてすぐ後に結婚し、6人の子供たちをもうけた。1891年、フロイト一家は引っ越し、ウィーンのベクルガッセ19番地に住んだ。彼らは、1938年にナチスによる迫害から逃れてロンドンに亡命するまでそこで暮らした。


フロイトとブロイアー:決定的な共同研究
 フロイトが初めてヒステリー患者を治療するのに催眠の能力に注意が引かれたのは、ウィーンの友人であり同僚のヨーゼフ・ブロイアーが、アナ・O Anna O.という若い患者のヒステリー症状の治療に成功したと話すのを1882年に聞いている時だった。ブロイアーはフロイトの14歳年上で、精神分析の誕生に決定的な役割を果たした。ブロイアーはユダヤ人の家系で、著名な生理学者であり内科学の優秀な専門家で、高い教養をもつ人物だった。彼は、哲学者のフランツ・ブレンターノFranz Brentanoや作曲家のヨハネス・ブラームスJohannes Brahmsといった、ウィーン社会の多くの著名人の友人であり家庭医であった。フロイトは、指導者のエルンスト・ブリュッケからブロイアーを紹介された。ブリュッケは名声の高い生理学者で、フロイトは彼のところで1876年から1882年まで、神経生理学に関する研究をしていた。フロイトは個人開業を始めた後、ブロイアーの技法を何人かの患者に適用し、ブロイアーの観察が自分の患者で立証されるのを実感して感銘を受けた。だがフロイトの研究精神はつねに新たな発見を探し求めて、すぐに彼は自らの道を進むことになる。


先駆者:シャルコーとベルネームから学ぶフロイト
 フロイトはさらに学ぶために、パリのジャン・マルタンシャルコーJean-Martin Charcotのもとで1885年から1886年の間、その後1889年にはナンシーのイポリット・ベルネームHippolyte Bernheimのもとですごすことにした。彼はシャルコーの講義に、数ヵ月間出席した、シャルコーは、ヒステリーが医学に提起している問題を解決する試みで有名になっていた。シャルコーは、ヒステリーを子宮に由来する興奮や仮病のせいにする古代・中世の仮説を放棄して、この状態に明確な疾病分類学上の疾病単位という地位を与え、それを研究と調査の主題とした。彼はヒステリーを機能的な神経障害あるいは神経症の一つとして分類して、それらを気質因による精神科疾患から区別した。彼はこの区別を、ヒステリー性麻痺の分類がランダムで、神経学的な麻痺において観察される神経根の分布とは異なっていることを観察して確立した。シャルコーは、ヒステリー障害の本質は心的なものであり器質的ではないことを証明するために、ヒステリー症状の発生と除去に催眠暗示を用いた。彼は、外傷的な性質をもつ脳の「力動的損傷」が、女性でも男性でもヒステリーの原因でありうる、という仮説を提起した。
 だがシャルコーは、催眠暗示を治療手段としてではなく、主として実地説明のために用いていた。それでフロイトは1889年、ナンシーのベルネームのもとに行って自分自身の技法を向上させる決意をした。ベルネームは、催眠がなによりも言葉によって生まれる暗示であって医者の視線の磁力によるものではないことを示していた。そのことはこのアプローチを、純粋な心理療法の技法に変えた。フロイトはウィーンに戻ると、直ちにこの技法を実践に移した。


構想15年の『ヒステリー研究』
 フロイトはブロイアーを説得して、1881年以降自分たちが行って来た臨床観察をそれぞれの仮説ともに一冊にまとめるまでに、数年を要した。彼らは、「暫定報告」(1893)の中でカタルシス法の結果に関する暫定的な結論を公刊することから始めた。この論文は『ヒステリー研究』(1895d)に再録され、その序章となっている。
 しかしながら『ヒステリー研究』の出版は、彼らの共同研究の終焉を印すことになった。そして1896年以降、フロイトはブロイアーの野心不足に失望し、自分一人で研究を続けた。2人の間の距離が拡がっていった理由の一つは、ブロイアーがヒステリーの原因として性的因子の重要性を確信していなかったのに、フロイトはそれをますます強調していったという事実だった。それでもブロイアーは遠くから、フロイトが発展させる考えに興味を示し続けた。風呂①はこのことをブロイアーが1925年に亡くなってから、ブロイアーの息子ロベルトによるフロイトのお悔やみの手紙への返信で知って驚いた。彼はフロイトに、父親がいつもフロイトの仕事に関心を抱き続けていたと語ったのだった(Hirschmüller1978)。