第二バチカン公会議は実際に何を言っているのか

まず「随想 吉祥寺の森から」より引用。
http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/50891144.html

このエキュメニズムに劇的な先鞭をつけた人物は、第二バチカン公会議を開いたヨハネ23世であり、そして、それを20世紀後半、さらに力強い指導力、存在感を持って継承したヨハネパウロ2世。カトリックの歴代教皇の中でも、カトリックではない私が最も信頼、尊敬する人たちである。現在のカトリック世界は、必ずしも教会一致に熱心な情熱を注いでいるとは言えず、形式的にこの1週間が流れ去っている印象がなくはないが、しかし、とにもかくにもそうした習慣の週間が存在すること自体が貴重。他の会派などにおいては、全く教会一致について考えもしないところも数多い。アメリカで現ブッシュJr.政権を強く支持している宗教原理主義福音主義派の連中はその代表的な集団である。

 教皇は過ちを犯さない。(聖ペテロの継承者、ローマ教皇の不可謬性)

 Extra ecclesia nullus salus  カトリック教会の外に救いはない。

 という非常に古い観念をそのままに今も生きている、脳細胞が固まったような人たちはカトリックにも存在しており、カトリックを叩き出されたルフェーブルを今も信奉する聖ピオ10世会の自称、「司祭」たちは大間違いのエキュメニズムなどたくさんだ、と扱き下ろしている。

杉本氏のここでの論の流れを見ると、「第二バチカン公会議」は「教皇不可謬権」や「教会の外に救いなし」のような「古い観念」を否定しているのだという印象を受ける。では、実際に第二バチカン公開議がかような教義についてどう言っているのか気になるところだろう。
教皇不可謬権について。まず定義から。

教皇教皇座から宣言する時、言換えれば全キリスト信者の牧者として教師として、その最高の使徒伝来の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定する時、救い主である神が、自分の教会が信仰と道徳についての教義を定義する時に望んだ聖ペトロに約束した神の助力によって、不可謬性が与えられている。そのため、教皇の定義(註・教義決定のこと)は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できないものである。


「Pastor aeternus」(Dz1839)

これは第一バチカン公会議での宣言であり、不可謬の教義である。それを踏まえて第二バチカン公会議公文書であるLumen Gentium(「教会憲章」)では次のように書かれている。

この聖なる教会会議は、第一バチカン公会議の足跡をたどりつつ、それとともに次のように教え、宣言する。すなわち、永遠の牧者であるイエズス・キリストは、自分が父から派遣されたように使徒たちを派遣して、聖なる教会を建てた。キリストはこの使徒の後継者すなわち司教たちが、自分の教会の中で世の終りまで牧者であることを望んだ。しかしキリストは、この司教職それ自身が唯一で不可分であるようにと、聖ペトロを他の使徒たちの上に立て、そのペトロ自身のうちに、信仰と交流の一致の永久にして見える源泉および基礎を制定した。聖なる教会会議は、ローマ教皇の聖なる首位権の制定、永久性、権力、理由、ならびに教皇の不謬の教導職に関するこの教理を、堅く信ずべきものとしてすべての信者に再び述べ、さらに、同じ課題を展開させつつ、キリストの代理者であり全教会の見える頭であるペトロの後継者とともに生きた神の家を治める使徒の後継者、すなわち司教についての教理を、すべての人の前に宣言し公表することを定めた。


Lumen Gentium 18

もっと明快に第一バチカン公会議で表明された形での「教皇不可謬権」を述べているのは以下の箇所。

神なるあがない主は、自分の教会が信仰と道徳に関する教義の決定に際して不謬であることを望んだが、この不謬性は、たいせつに守られ忠実に説明されなければならない神の啓示の遺産と同じ広がりを有する。司教団体の頭であるローマ教皇は、自分の兄弟たちの信仰を固める任をもつすべてのキリスト信者の最高の牧者および師として、信仰と道徳に関する教義を決定的に宣言するときその任務の権能により、この不謬性を持っている。したがって教皇の決定は、教会の同意のためではなく、それ自体において、取り消しえないものと正当に言われる


Lumen Gentium 25

「古い観念」であるかどうかはともかくとして(そもそも「古い」ことは何か悪いことなのか?)、教皇不可謬権」という教義は第二バチカン公会議でも踏襲され再確認されたカトリックの正統信仰の一つである。それを奉じたからとて、頑迷固陋なわけではぜんぜんない。第二バチカン公会議を(有効な公会議として)「肯定する」ならば(過去の有効な公会議の決定である)「教皇不可謬権」も肯定せざるをえないのだ。


Lumen Gentium