アウラを大事にする男

私の体を通り過ぎていった雑誌たち

坪内祐三さんをめぐる晩鮭亭さん(id:vanjacketei)と四谷書房さんとの間でのやりとりのなかで、「巧みな本の案内人」であるというキャッチフレーズが提起され、「そうそう」と深くうなずいた。ちょうど、『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』*1(新潮社)を読んでいたからでもあった。
坪内さんの本を読んでいると、そこで触れられている本を読みたくなる。まことに「巧みな本の案内人」だ。ただ注意したいのは、坪内さんによる本の紹介の仕方は、「書評」という直球では必ずしもない。内容本意ではないことも多いのである。
わたしはかつて『雑読系』を読んだとき、坪内さんの書物エッセイを好きな理由として、「いつ、どこの本屋で、どういった流れのなかで出会い、またどんな状況のなかでその本を読んだかという、内容以外の“メタデータ”の部分をとても大事にされているところ」をあげた(旧読前読後2003/2/24条)。憚りながら自分もそうした点に主眼を置き、この「読前読後」をつづけているつもりなので、先達がいることが嬉しかった。
一定のテーマにそってこうした坪内スタイルを貫けば、できあがるのは自然と自伝的なものになる。そういう意味では、「文庫本を狙え!」は対象こそ新刊文庫であるものの、元版や著者の他の作品との出会いなどのメタデータが語られている意味で、文庫本を通じた自伝的読み物という見方も可能だし、『新書百冊*2新潮新書)に至っては、これまでの新書との出会い(=メタデータ)を記した、新書を通じた自伝的読み物であると言ってよい。実際『新書百冊』を読んだとき、わたしはこの本を「新書で綴る新書的自伝」と書いた(旧読前読後2003/4/13条)。
『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』は、文庫・新書と、書物の一ジャンルを通じた自伝的書物をすでにものした坪内さんによる、雑誌を通じた自伝的書物ということになる。いまのところこの三つを“自伝三本柱”(三部作と言えないのは、今後もこうしたスタイルの本が出ないともかぎらないから)と呼んでおこう。
とりわけ『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』の場合、時間軸にそったクロニクルになっているから、これまで以上に自伝的色彩が濃厚にあらわれている。
本書もメタデータをおろそかにしていないということは、次の文章からもわかる。

自分で買った雑誌はなかなか捨てられなくて、送られて来た雑誌はどんどん捨てられるというのは、ケチだからではない。自分で買った雑誌には買った時の記憶が、その時空間性が、つまりアウラがまとわりついているからだ。(9頁)
「買った時の記憶、その時空間性、つまりアウラ」が、わたしの言うメタデータのことである。本書で語られている、坪内さんが好んで購読していた雑誌は数多い。そのひとつひとつに「○○の△△書店で買った」という、坪内さんが指摘するその雑誌の面白さと時代の空気を味わいたい読者にとっては半ばどうでもいいような些細な記憶が付け加えられている。わたしは雑誌の中身以上に、こうした坪内さんと雑誌の接点をめぐる叙述に関心を向けてしまう。次のような文章である。
以前にも述べたように、私が身近かで愛用していた書店は、世田谷線松原駅前の松原書房だ。『スクリーン』も『ロードショー』もその本屋で買っていた。(72頁)
初めて『ぴあ』(創刊第三号)を手にした時――たしかその『ぴあ』を私は渋谷の東急文化会館の東急名画座のパンフレット売場で見つけたのだ――の興奮を今でもありありと憶えている。(74頁)
高校一年の十一月。私はその『宝島』を確か、井の頭線の渋谷駅の改札を出てすぐ右側の大階段の途中にあった本屋(略)で買った。(113頁)
私は夏カゼを引き、家で寝込んでいて、このスティルスが表紙の一九七五年九月号(『ニューミュージック・マガジン』誌―引用者注)を、私は、母に頼んで、晩御飯の買い出しついでに、松原書房で買って来てもらった。(126頁)
私は毎週のように下高井戸の駅の売店横尾忠則の表紙の『週刊読売』を買った。それは私の思い出の中で特別な季節感を持っている。(140頁)

ある一冊の本や雑誌と、いつ、どこで、どんな状況で出会い、読んだかという「本の記憶」が坪内流書物エッセイの核となる。坪内さんはすでにいまの時点で、文庫・新書・雑誌という三つの側面からそれぞれ自伝的読み物を書いてしまった。語りうるだけの過去はすっかり開陳してしまったのか、過去の「本の記憶」の鉱脈はもう掘り尽くされたのか、いや、そうではあるまい。活字メディアは文庫・新書・雑誌だけではない。また、坪内さんであれば音楽という側面からも語りうるメタデータがあるに違いない。
そもそも、本を読めば、いや、本を買えば、それと同じ数だけの「本の記憶」がつくられる、卑俗に言い換えれば、ネタができる。だからこのスタイルを放棄しなければ、ネタは無尽蔵にあるわけだ。今後もこのような坪内スタイルの書物エッセイを楽しみたいものである。