プログラム・ピクチャーの逆説

甦る 昭和脇役名画館

古い日本映画をよく観るようになり、映画に関係する本をよく読むようになって、「プログラム・ピクチャー」という言葉をよく目にするようになった。これは海外の映画業界にも通用する言葉なのだろうか。それとも、いわゆる「和製英語」の一種なのだろうか。和製英語にしても、これは映画が量産され、毎週のように新作が封切られていた「黄金時代」に限定された歴史的用語ということになるのだろう。
よく目にするから、何となくのニュアンスはわかっているけれど、ではどういう意味なのか説明せよと言われると言葉に詰まる。そこでまず、『日本国語大辞典』や『広辞苑』といった格調高い辞書にあたってみたところ、収録されていなかった。次に、ネットの辞書で検索してみると、次の二つの語釈を見つけることができた。

映画を二本立てで興行する場合、添え物として上映される短いほうの映画。(大辞泉
系列映画館の上映スケジュールをうめるために製作される低予算の作品。B級映画。(大辞林
まだ50〜60年代の日本映画業界の仕組みをよく知らないから何とも言えないが、『大辞泉』のように「添え物として上映される短いほうの映画」=プログラム・ピクチャーとは断言しにくいような気がする。英単語の本来的な意味からして、どちらかと言えば『大辞林』のほうが実態に合っているのではあるまいか。上映スケジュールという番組(プログラム)に載せる(穴埋めする)という動機が、映画を作ろうという主体的意志に優先しているような映画である。
とはいえこれらプログラム・ピクチャーすべてを「B級映画」と規定することにも疑問を持たざるをえない。鹿島茂さんの『甦る 昭和脇役映画館』*1講談社)を読むと、かならずしもB級映画というレッテルを貼ることのできない「傑作」も多く存在するようだからだ。
学生時代の70年代、年平均400本の映画を観まくったという鹿島さんが、そのころの自身が置かれていた環境や、映画館の(退廃的な)雰囲気を織り交ぜながら、当時観たプログラム・ピクチャーに出演し、印象に残った俳優について論じた快著だった。
年平均400本をこなすとなると、おのずとプログラム・ピクチャーに入れ込むことになるのだろうか。鹿島さんは、プログラム・ピクチャーを観まくったすえに年平均400本に到達した理由について、自己のコレクター気質を原因にあげている。
しかも、その当時はまだ、東映ヤクザ映画、日活ニュー・アクション、日活ロマンポルノなどのプログラム・ピクチャーが最後の光芒を放っていたから、コレクター的情熱も一層、先鋭的なかたちを取らざるをえない。ひとことでいえば、私はいったん見始めてしまったシリーズものは全作品を見なければ気が済まないという、コレクター特有の完璧主義で映画館に足を運んでいたのである。(10頁)
この気持ち、何となくわかるような気がするのは、わたしもコレクター的気質が少しあるからだろうか。
さてここからが鹿島さんの本領発揮。「一九六五年から七五年にかけての東映と日活で製作されたほとんどのプログラム・ピクチャーを見るという珍しい体験」をした鹿島さんの脳には、「脇役残存現象」が生じる。「主演よりも脇役の俳優の方が記憶に残る」というものだ。
これは考えてみれば当然のことで、プログラム・ピクチャーにおいては、主役は代われど、脇役陣は常に同じである。一例をあげると、悪親分の脇役は、多少のバリエーションを伴いつつ、ほとんど同じ役を演じ続ける。その結果、劇中の様々なキャラクターが俳優その人のパーソナリティーに重なって、一種独特の人格が形成されることになる。(11頁)
かくして本書では、「劇中のそれぞれのキャラクターとも、俳優の素顔とも異なる第三の人格」として鹿島さんの脳に刻まれた脇役俳優が取り上げられ、その「第三人格」を中核にして論じられる。登場するのは荒木一郎ジェリー藤尾岸田森佐々木孝丸伊藤雄之助天知茂、吉澤健、三原葉子川地民夫芹明香渡瀬恒彦成田三樹夫の12人。
対象の多くが上記のように東映ヤクザ映画、日活ニュー・アクション、日活ロマンポルノだったり、新東宝映画だから、そうした映画をほとんど観ていないわたしにとっては、荒木一郎、吉澤健、芹明香といった俳優のことは初めて知ったし、存在は当然知ってはいても「第三人格」までは知らずにいたジェリー藤尾天知茂渡瀬恒彦などが、プログラム・ピクチャーの世界において強烈な「個性」を放っていたことを知って驚いた。
本書を読んで、観たくなった映画は数知れず、興味を持った俳優もほとんど全員と言ってよい*2。だからその一々をここであげるときりがなくなる。
わたしのように、遅ればせながら、テレビのCS放送名画座のような映画館でその時代の日本映画を観るようになった人間にとって、その映画がプログラム・ピクチャーとして制作されたかどうかは意味をなさない。旧作日本映画の一作にすぎないのだ。プログラム・ピクチャーをプログラム・ピクチャーとして観ることにいかなる意義があるのか。最後にあげる一文は、プログラム・ピクチャーをプログラム・ピクチャーとして観た鹿島さんの至言と言えるだろう。
一本一本は愚作だが、何十本も見ると、差異を楽しむことができるようになり、総体では傑作になる。(150頁)

*1:ISBN:4062131374

*2:同郷山形県成田三樹夫はとくに。