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早寝・早起き、朝ごはん このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-07-29 金賢姫が残したもの

[] 忘れてはならないこと 09:54  忘れてはならないことを含むブックマーク


様々な物議をかもして、金賢姫韓国へ帰って行った。

めぐみさんが何匹か猫を飼っていたことや、チヂミでもてなしたことといった僅かなエピソードに触れた横田さんご夫妻のお話には、胸に込み上げるものを感じた。「安心した。」とさえ語るご夫妻の表情には、うっすらと微笑さえ浮かんでいるようにも見え、それがかえって、第三者には測り知りえない、拉致が生じさせた空白の期間の重たさを滲ませていた。

横田めぐみさんの北朝鮮での生活が恵まれたものではないくらい容易に想像される。金賢姫によって語られたことが真実かどうかも分からない。

横田さんご夫妻も、十分承知された上でのことと思う。そして、金賢姫が一度しかめぐみさんに会っていないという事実は、どれほどご夫妻をがっかりさせたことだろうと想像するに難くない。

それでも、娘が北朝鮮で少しでも自分らしい暮らしを送れていたことを願う。僅かなエピソードにも、その痕跡がないかと追い求める。突然、家族の絆を断ち切られた親の、ひたすら子を思い続ける気持ちが滲み出た微笑であった。

私たちは、日本という独立国家で拉致という北朝鮮の国家的犯罪があったことをけっして忘れてはならない。そして、今もなお、拉致された肉親の生存を祈り、ひたすら帰国を待ち続けている人たちの気持ちから目をそむけてはならない。

哨戒艇の沈没が当然俎上に上がるASEAN地域フォーラムを前にしての時期であったことや、前後して、田口八重子さんの生存を窺わすような新たな情報が韓国サイドから伝わってくるといった、韓国の外交戦略が色濃く見える来日であった。そして、どのような外交上の取引があったかは分からないが、大韓航空機を墜落させたテロリストに対して、VIP待遇でもてなすのは如何なものかという意見もメディアを賑わせた。

その通りだと思う。けれども、私たちが忘れてはならない大切なことが、そういった意見に、ともすれば、かき消されてしまいそうになったことが残念でならない。そして、メディアに登場する数多のコメンテーターならまだしも、(民主党に点数稼ぎの思惑があったかどうかは別にして)金賢姫への待遇を声高に批判することで党利党略に終始した政治家がいたことには深い失望を感じた。

「20年以上前の情報しかもっていない金賢姫の来日に意味があるのか。」

市井の人のみならず、拉致被害者家族の中からでさえ、そんな声が聞こえてきたこの度の来日。拉致被害者に今もなお対面できていない家族の内で続いていることが、帰国を果たした一部の家族の内では終わりつつあるのかもしれない。

拉致を風化させてはならない。

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2010-05-05 当事者としての意識

[] 地域で生きていくということ 22:19  地域で生きていくということを含むブックマーク


慣れ親しんだ土地で生涯暮らして行こうと思うとき、歳をとるにつれて、いろいろな問題があることに気がつく。

毎日の食事は、どうするのか。どこへどうやって買い物に行って、誰が作って、配膳をして、後片付けをするのか。洗濯は?掃除は?庭には草が伸びてきている。近所の公園や川の堤防の掃除の当番はどうする……?

元気なうちは問題にならないことも、体の自由がききにくくなったり、記憶が曖昧になり物事の判断ができにくくなったりすれば、たちまち障壁となり生活の前に立ちはだかってくる。自分のことに限らず、ともに暮らす家族に問題が起こっても、同じことだ。

「家族仲良く助け合いながら、平穏無事に日々の生活を過す」というライフスタイルに重きを置いている人は、多くはないだろう。それだけに、介護の問題は、働き盛りの世代にとって大きな負担となっている。

自分以外の者の生活を援助しようとすれば、自分がやろうと思っていることが、そのぶんだけ犠牲になるのは理屈だろう。介護は、働き盛り世代の生活を直接に侵食する。介護から逃れようとしても、セーフティネットが確立していないことは、大きなストレスとなって重くのしかかってくる。

同居にせよ、別居にせよ、家族の中で役割分担がきちんと成立していれば、自立した生活を送れなくなったとしても、家族の援助を受けながら生活していくことは可能だ。しかし、現実には、家族の援助が期待できないまま、高齢者一人の世帯、高齢者夫婦のみの世帯、70台の高齢者が90台の高齢者を介護している世帯などが、私の働く地域ではどんどん増えてきている。働き盛りの世代が同居している場合でさえ、自分たちの日々の生活に窮々として、介護に時間を割く余裕が経済的にも、精神的にも、次第になくなってきているのを感じる。

要介護者のセーフティーネットという観点から考えれば、通所介護(デイケア、デイサービス)や、訪問介護ヘルパーによる家事援助など)などの介護サービスは、家族による介護の隙間を埋める役割を果たしてはいるが、裏を返せば、自立できない高齢者の介護が、100パーセント家族に委ねられる時間帯も存在するということになる。家族による介護力が弱体化している現状を考えると、「何も起こらないでくれ」と祈るような気持ちで通所サービスから家に送り届けることも珍しくない。家族による援助が破綻し、介護施設への入所も、在宅での生活もできない高齢者の増加は、介護保険などの公的な援助では既に支えきれなくなって来ている。

財源を確保し、新たなサービスを創設することで介護サービスの守備範囲を広げるのは、一つの方法だろう。だが、その財源の確保は困難を極めるだろうし、新たなサービスを受けるための介護度の認定の問題や、サービスを受けることで増額する自己負担の問題もある。

自立した生活を送ることのできない高齢者が、住みやすい地域を創ること。それは、これからの地域づくりに欠けてはならない視点だと思う。身近で、しかも金のかからないサービスを提供するシステムを創り出すためには、結局、地域に住む人たちが協力し合い、ボランティアとしての労力を結集することしかないように思われる。地域に住む人たちが連携して、町内会などを活用した組織作りを行うのである。

遠くに住んでいる家族を見守ったり、援助したりすることは、けっして容易ではない。かといって、呼び寄せて一緒に暮らすことは、なおさら難しい。考えようによっては、身近に暮らす高齢者を援助することの方が、簡単な場合はいくらでもある。「近くに暮らしている」ということが、生活の援助にはなにより大切なのだ。

地域住民相互間の連携をどのように作るか、あるいは、他者の個人情報や生活そのものへの介入がどこまでできるか等といったクリアすべき困難な問題はいくつもあるが、けっして不可能なことではないようにも思われる。

人はみな歳をとり、やがて老いていく。どこの地域に住んでいようと、早死にしない限り、それは誰しもが、いつかは直面する問題なのだ。私たちは、自分たち自身が直面している問題に、当事者としての自覚を持って、真摯に立ち向かわねばならないだろう。

世流樹世流樹 2010/07/19 08:40 介護は、突然に自分に身近な問題としてやってくる。じわじわと予感を感じながらも、日々の自分の生活に紛れ、その存在や可能性を否定するかのように。自分が一人でここまで生きてきたわけもなく、支えてきてくれた人を今度は自分が支える立場になるだけなのだが。難しいのは、互いの生活や自由を「介護」によって想いとかけ離れたものに変化させられてしまうことだ。介護するがわ、されるがわとも現実を見極め、早いうちから、対処について話し合い、役割分担することが肝要であることは明確だが、何時、誰が、どのタイミングでどんなメンバーでやるかが難しい。

考える木考える木 2010/07/29 09:33
>世羅樹さん

お返事が、たいへん遅くなり申し訳ありませんでした。

たとえ十分な介護をしようという思いが家族にあったとしても、スケジュールの都合がどうしてもつかないとか、遠方に住んでいて時間的に間に合わないといったケースは、いくらでも出てくると思います。
家族による介護を補うものとして介護保険という制度があるわけですが、予算の問題、マンパワーの問題、さまざまな規制の問題、システムの不備などの問題で、介護のニーズに臨機応変に対応できていないのが現実です。
介護する家族の不在や現在の社会のシステムで対応できないことがたとえあったとしても、より良い介護が出来る地域を実現するのが私たちの理想であり、そのためには、「地域づくり」という新たな視点で介護を考えるという意識の変革が必要ではないかと考えます。

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2010-04-03 タラソワを擁護する

[] バンクーバートリノ〜女子フィギュアに思う〜 20:47  バンクーバーとトリノ〜女子フィギュアに思う〜を含むブックマーク


バンクーバーで演技を終えた浅田は、「悔しい……」と涙で言葉を詰まらせた。

キムヨナ浅田真央。N0.1の座をかけての二人の戦いは、ジュニア時代にまで遡る。これまで浅田は、敗れたときでさえ、王者としての矜持を持ち続けていたように見えた。

金メダルを逃した悔しさや自分のベストのパフォーマンスができなかった悔しさはもちろんあっただろう。だが、バンクーバーでの結果は、キムヨナこそN0.1だという事実を、初めて浅田に受け入れることを迫っているかのように、そして、その苦しさから浅田が涙を流しているように思えてならなかった。バンクーバーでの悔しさは、世界選手権に勝った今でも、消えることはないだろう。


フィギュアスケートが競技スポーツである以上、その演技は、採点という手段で定量化されねばならず、そして、その基準は、技の難度に準じた厳格なものでなければならない。一方、コンビネーションやシークエンスを含めた技の難度に優劣をつけたり、ましてや、難度の高い技が失敗に終わった際の評価をどうするかなどといったりしたことに関して、万人の合意をとりつけることは、とうてい困難な問題に違いない。

幸いなことに、バンクーバーでは、ライサチェクプルシェンコより優れた演技をし、キムは浅田よりも優れた演技をした(ように私には見えたし、世間でも概ねそのような評価だったと思う)ので、採点結果に従った表彰台での順位は、プルシェンコがどう言おうが、妥当なものに思われた。

だが、トリノでは、現行の評価基準の持つ欠陥が露呈されてしまう。浅田のフリーの得点がキムのフリーの得点を下回ったのは、素人目にも陳腐に映った。採点基準の問題は、フィギュアスケートの競技スポーツとしての根幹を揺るがしかねない問題であるように思われる。


現行の採点基準が大きな問題を抱えているのは確かだが、たとえどんな採点基準であろうと、それが公にされた上で大会は開催されていく。高く評価されたいのであれば、自分の技量に応じたエレメンツを上手に取り入れ、高得点の出やすいプログラムを作成していくしかない。

私は、採点基準に関して詳しくはないが、トリノでの結果を見れば明らかなように、キムのプログラムは、どうも高得点を叩き出しやすいようだ。だとしたら、浅田陣営は勝てる戦略を見誤った、あるいは、そういった戦略を取らなかったか、取れなかったというしかない。

現行の採点基準の下、今のような演技構成で戦うならば、今後は長洲にも勝つのは難しくなるだろう。浅田も、それに関しては十分に承知しているようで、「ルッツや3回転−3回転も、練習し取り入れたい」「明るい曲も滑りたい」とトリノから帰国してのインタビューに応え、暗にタラソワの路線を否定した。


いろいろと議論はあるだろうが、浅田の『鐘』というプログラムは、曲の世界をみごとに表現した完成度の高いプログラムだと個人的には感じている。確かに、曲調は重たく、陰気と言えないこともないが、その暗いメロディーから沸々とわきあがってくる祈り、情念の昂ぶりを、切れのあるスケーティングが伝えてくる。力強いプログラムだと思う。

特に、終盤の切り返しの多いステップの部分は見応えがあり、このプログラムの白眉と言ってもいい。バンクーバーでトゥループを失敗した後に見せた浅田の終盤の演技には、まさに鬼気迫るものを感じた。

浅田には、浅田の個性があり、キムにはキムの個性がある。競技である以上、競技者や観衆が勝負に拘るのは当然のことだとは思うが、そこに表現されるものを味わうこともフィギュア観戦の醍醐味といえるだろう。彼ら、彼女らは、競技者であるとともに表現者でもあるのだから。

そういった意味では、『鐘』は、居並ぶプログラムの中でひときわ異彩を放っていた。そして、苦戦の末、オリンピックイヤーの今季になってようやく、明るく天真爛漫な浅田のスケートに新たな魅力を加えることができたように私には思えた。

『鐘』で勝負をかけたことは、戦略的には失敗だったかもしれない。けれども、この『鐘』という楽曲にこだわり、妥協のないプログラム(ルッツからフリップへの変更を余儀なくされたが、プログラムの完成度に大差はないだろう)を創り上げたタラソワの表現者としての力量は、大いに賞賛されるべきものであると私は思う。

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2010-01-11 アニメと言えば、『サマーウォーズ』もいい画だったなぁ……

[] 『カールじいさんの空飛ぶ家』〜夢をみるということ 20:39  『カールじいさんの空飛ぶ家』〜夢をみるということを含むブックマーク


どこのうちでも見かけられる光景だが、うちの娘も、小さい頃、よく一人遊びをしていた。「○○ちゃん」という架空の友達がお気に入りの様子だったが、相手がまるで眼の前に存在しているかのように振舞っていたのを思い出す。

それを眺めていると、娘の空想の中でしか存在し得ない「○○ちゃん」が、彼女にとっては、もっとリアリティーを持った存在のように見えた。つまり、娘にとっての空想の世界は、まぎれもないもうひとつの現実の世界として存在しているように思われた。

かように子供は、空想の世界と現実の世界を自由に行き来する。彼ら、彼女らには、二つの世界が別の世界であるということは意識されていても、どちらがリアルな現実であるかを認識することは、さして意味を持たないようにさえ思われる。

やがて、空想が現実と関連付けられる時、それは将来の夢となり、明日のあるべき自分の姿へと繋がっていく。とはいえ、その子供たちの夢の原型は、現実の世界の中で実現可能なものかどうかなど吟味されたものではなく、戦うヒーローであったり、大富豪であったり、華やかなディーバであったり、ピッチの王様であったりする。

こういった無責任ともいえる夢の存在は、子供らしい天真爛漫なのびやかさや活力と無関係ではあるまい。大人の夢は、日々の仕事や生活の中で、絶えず実現の可能性を検討する必要を内包している、いわば目標のようなものである。もちろん、それも、明日への活力を生み出すものであるが、それと同時に生みの苦しみを伴うものでもある。

では、老人の場合はどうだろう。過去にできていたことが次第にできなくなっていく身体の状況が、より良い明日のイメージを描きにくくしてしまうのではないかと容易に想像される。そのような生理的な状況の中で、老人が、今日を生き、そして明日を生きていこうとする活力を次第に失いやすくなるのも、無理はないだろう。


カールじいさんの旅は、亡き妻の夢を叶えようとした、ロマンティックな愛情に溢れた旅ではあるが、厳しい現実との軋轢で自分の居場所をなくしたあげく、心地よい過去の思い出に逃げ込むことで自身のアイデンティティーを見出そうとした、後ろ向きの感傷的な旅でもある。少年と犬をお供にしての冒険の旅が、じいさんをどう変えていくか。そこが、見所だと思う。

例によって、エエもんとワルもんの争いに、イロもん的なキャラクターを絡ませることで盛り上げていくピクサーお得意の冒険活劇である。そして、これまた例によって、実に見事な職人芸的ともいうべきアニメーションも見せてくれる。

『カールじいさんの空飛ぶ家』は、古典的なストーリー構成と計算されつくした映像を器として、「夢をみること」という深いテーマを盛った、まさにピクサーの王道を行く素晴らしい作品だと思う。私自身も、自分の老後について考えるとともに、「自分の仕事を通して、高齢者の方たちに『今日を生き、明日を生きようとする活力』を与えるために何をすればよいか?」というテーマについて、あらためて考えさせられもした。

とりわけ、これから老後を迎えるだろう年齢の方に、ぜひ観ていただきたい作品である。


<おまけ>

『カールじいさんの空飛ぶ家』や『アバター』では、3Dが話題になっている。が、確かに3Dは、映像に奥行き感じさせることで新たな効果を与えてはいるものの、それ以上のものでもそれ以下のものでもないというのが、率直な感想である。

『カールじいさんの空飛ぶ家』の魅力は、画面に繰り広げられるひとつひとつの絵の構図、キャラクター、タッチ、色、それをつなぐ動きの素晴らしさであり、そのストーリー性であると思う。『アバター』の魅力は、イマジネーションの洪水のような世界を構築し、それを映像として見せたところにあると思う。そして、これら二つの映画の魅力は、3Dであろうと2Dであろうと動じることのないものだと私は信じている。

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2009-12-31 12月に更新したことって、あったっけ

[] 仕事との距離感 15:07  仕事との距離感を含むブックマーク



「謙虚に受け止める」というのと「必要以上に卑下しない」ということの両方ができてないとダメですよね。

自分がやった結果に対しての距離感というのかな。そういうのってすごく大事で、若い人を見てると、できてないんですよ。やっぱり。

Wii Fitなどに関わった任天堂の宮本茂さんの言葉だ('09 ほぼ日手帳より)。


私は、無神経なせいか、仕事で失敗したことは数知れずあっても、そのことでひどく落ち込んだ経験は少ない。けれども、誠心誠意行い、内容も悪くないと思っていた仕事が、相手から不当な評価を受ける、あるいは、真意が相手に伝わっていない時、無性に腹が立ち、悔しさで深く傷つくことは、幾度となく経験してきた。この歳になってさすがに感情のコントロールはできるようにはなってきたものの、似たようなことは未だに数多くある。


先日、発熱した患者さんを診察した時のことである。簡易のインフルエンザ抗原検査は陰性であったものの、鼻水、喉の痛み、咳、38℃以上の発熱、関節痛や筋肉痛といった症状が、最初の症状が出現してから24時間以内に出揃っており(その方は、症状の初発から約6時間で来院されていた)、しかもインフルエンザに感染した人との濃厚な接触があったということを考慮すれば、臨床的にはインフルエンザと診断すべきであると考えられた。

ご周知のように、簡易インフルエンザ抗原検査は、インフルエンザ感染後、徐々に反応が増強し、感戦後48時間でピークの反応を示す。注意しなければならないのは、検査の感度というものがあり、ある程度以上インフルエンザウイルスが鼻腔内で増殖していなければ、反応は陰性となるということだ。したがって、特に発症からの時間経過が短い場合、検査結果が陽性であれば「インフルエンザである」と診断できるが、検査結果が陰性であっても「インフルエンザではない」と診断することができない。

私は、患者さんとそのご家族に、検査結果が陰性であったこと、簡易のインフルエンザ抗原検査の仕組み、そして、患者さんがインフルエンザにかかっている可能性が高いと考える根拠などを説明した上で、抗インフルエンザウイルス薬を処方することを告げた。そして、その後の予想される経過なども簡単に伝えて診療を終えた。

その数時間後、「熱が下がらない」とその方たちが、再び来院された。「さすがに、まだ熱は下がらないだろう」と思いつつも、服薬状況を確認する意味で尋ねてみた。

「インフルエンザのお薬は、何時頃飲まれましたか?」

「えぇーっ、インフルエンザなんですか。だって検査は陰性だったんでしょう。」


このような例は、さすがに日常しばしば遭遇するわけではないが、それほど珍しいことでもない。

自分では必要十分な情報を伝えたつもりでも、受け取る側がそれを十分消化して理解できていない、あるいは、伝えたつもりが伝え忘れているということが、限られた診療時間の中では起こり得る。結果、こちらの思いは相手に届かないで終わる。

自分としては満足のいく、せいいっぱいの仕事であったとしても、それが相手に伝わっていなければ何の意味も持たない。10の仕事が、6しか相手に伝わらなければ、その仕事の結果は残念ながら6でしかない。10の内容があったつもりでいた仕事の評を結果から6と受け止める。これもまた、「謙虚に受け止める」ということなのだろう。


使命感を持って仕事に心血を注いでいる上司がいたとする。あやふやな想いのまま、仕事をノルマとしか捉えられず、タラタラと働く部下が、これまた、いたとする。上司の眼から見れば、部下の仕事は理解できない腹立たしいものに写り、結果、部下は呼びつけられ、上司の怒りを丸ごとぶつけられることになる。怒りをぶつけられた部下は、上司の言葉に感情的に反発するか、ショックで落ち込んでしまう……。

上司、部下ともに問題なのは、仕事の結果を自分の感情を絡めて評価しているところである。上司の怒りが、仕事の結果に対する冷静な指示や指導を見失わせ、部下は部下で、評価が仕事に対する結果よりも自分に向けられたもののように感じ取ってしまう。これが仕事とのいい距離感が取れていないということなのだろうと思う。

このような経緯で落ち込んだ方が、先日、「眠れない」と言って診察場を訪れた。

客観的に評価すると、原因は明らかに部下の側にあるが、かといって怒りをぶつけた上司の仕事も適切だったかといわれると、そうではない。

こういった時、怒られた理由や上司の熱い想いを理解してもらおうとしても、無駄骨に終わることが多い。もやもやと渦巻く上司に対する反感が邪魔をして、その言葉を素直に受け取ることができなくなっているからだ。大切なのは、上司にめいっぱい怒られた部下の気持ちを理解しようとすることのように思う。

私はカウンセラーではないし、その辺のことは頭では理解できていても、実際にはうまくできない。診察の順番を待っている人も大勢いる。それを思うと、私の気持ちもいらだってくる……。

苦し紛れに私は提案した。

「仕事のことで注意したり、指導したりする際に、怒りの感情をぶつけてしまうことは、理由はどうあれ、好ましいことではないと私も思います。けれども、自分のことなら努力すれば可能かもしれませんが、他人の行動や感情を変えようとすることは、とても難しいことです。そこで、こうしてはどうでしょう。怒られた時は、相手のことを『ちいさい奴』と思ってみるのがいいんじゃないでしょうか。」

その後しばらくして、アドバイスがよかったかどうかは分からないが、その方は元気を取り戻してくれたようだった。けれども、余計なお世話かもしれないが、上司の方も、怒り過ぎでストレスが溜まり体を壊してやしないかと、なんとなく心配にもなってくる。


かくいう私も、仕事とは上手な距離感が保てているような気がまったくしない。来年こそは、良い距離感を保ちながら上手に仕事と付き合っていきたいと切に願っている。


今年のエントリは、これで最後になります。お越しいただき、たいへん有難うございました。来年も、これまでと同じくチンタラとした更新になると思いますが、今のところ地味に続けて行こうと思っていますので(笑)、もしよろしければお立ち寄りください。

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