中国後漢から三国時代の人物(? - 235年)。荊州南陽郡の人。字(あざな)は孝起。子に陳済。『三国志』に伝がある。
劉備が荊州を支配した頃に仕え、劉備の益州入りにも随行し、各地の統治に励んだ。
丞相の諸葛亮に信頼され、229年、呉(孫呉)の孫権が帝位を称したときは、諸葛亮に人物を見込まれ、同盟の維持のための祝賀の使者として呉に派遣された。また、同郷の李厳の欠点を見抜いており、諸葛亮にもそのことを伝えていたが、諸葛亮は李厳を重用し続けた。231年、李厳が失脚すると、諸葛亮は陳震の忠告を聞かなかったことを悔やむことになった。
『三国志演義』では、袁紹の部下であったが、劉備に心を寄せ、曹操に降伏していた関羽の元へ密使として現れる。また、袁紹の命令で孫策との同盟の使者にも立ったが、孫策が急死し、跡を継いだ孫権が曹操の味方となったため逃げ帰っている。後に劉備陣営に参加した。