Proc. R. Soc. London の古い論文が JSTOR から on-line で読めることを発見
例えば
Margaret Stimson and G. B. Jeffery, Proc. R. Soc. London A, Vol. 111, (1926), pp. 110-116
"The Motion of Two Spheres in a Viscous Fluid"
S. Tomotika, Proc. R. Soc. London A, Vol. 153, (1936), pp. 302-318
"Breaking up of a Drop of Viscous Liquid Immersed in Another Viscous Fluid Which is Extending at a Uniform Rate"
Isao Imai, Proc. R. Soc. London A, Vol. 224, (1954), pp. 141-160
"A New Method of Solving Oseen's Equations and Its Application to the Flow Past an Inclined Elliptic Cylinder"
8/29/2007: フランスには gallica がある。
3/19/2008: 学術論文に対する個人的な懐古趣味。
古い論文を見ていると、病気のように 「論文書く書かない」って話をいつも考える。
古い論文を見ていると、「論文書く書かない」って話をいつも考える
references: サマリー:研究について, 3/3/2004, 5/28/2003
論文を書くのが研究者の仕事なので、まぁ書かなければいけない
だけど、賞味期限が 1 年程度の論文を(無批判に)乱発することは、 逆に自分自身(研究者)の立場を危うくしているとも思う
宮崎駿のアニメ洪水に対する発言を思い出す。
昔の論文の寿命が長い理由の一つは、分野が immature であった という要素もあるだろう
いずれにせよ、手が遅い人間の言い訳という側面があることは否めない
「書けるけど書かかない」訳ではない
後記(6-3-2002): 何か物議を醸しているようだ ( 早川さん、 毎日の記録 からもリンクが)
まぁ早川さんにはいつも言われ続けた事で、 早川さんのこの意見は僕は分かっている
が、RENA 後の今、沢山いる読者に早川さんがこう表明する必要は あるのだろう
「基本的な事」が「時代のフィルタ」なら、認識している
上に書いた気持ちはむしろ、 50年前や 75 年前の論文を見ていたら、 自分が数年後に見返して「無意味」だと思う事は しちゃいけないと思ったってこと
早川さんの主張は正論だろうが、この 「正論だからゴタゴタ言わずに黙って言われた通りしろ」と言われて、 素直に「はい、やります」って人には成れない (から、困っている、のかな)。
この「正論」以外の価値観って、存在し得ないのだろうか?
いずれにせよ、手が遅い人間の言い訳ではある (このことは常に認識しています)
素直な人たちと、素直になれない人としての自分。
「書くや書かざるや」 から思ったこと。
「正論だからゴタゴタ言わずに黙って言われた通りしろ」と言われて、 素直に「はい、やります」って人には成れないのだよな。
そういう人達しか居ない集団って問題だろうし、 そういう集団の構成員にはなりたくない
しかしおそらく、ほとんどの人達は 『自分で考えて、納得して』っていうプロセスを通過しているだろうから、 それならそれでいいのかもしれないが
付記 6/2/2003: この構造は、実は (って言う程のもんじゃないけど) 丸刈りの一件や「熱中高校」と同じなんだな
6/14/2003: 他への強制
9/5/2005: ルールへの盲従
「正論」以外の価値観って、存在し得ないのだろうか?
というようなことを、 「書くや書かざるや」から思う。
そんなことも無いと思うので、私もまだ PDF (=Post-Doctoral-Fellow) として 研究者をやっている訳だが
では何がそれ以外の価値観なのだろうか?
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宮崎駿 「出発点」(amazon) のアニメ洪水に対する発言を思い出す。
書くや書かざるやと考えていて。
引用(pp.89-90):
…映画界もテレビ界もほんとに目の前のニンジンを追っかけることに きゅうきゅうとしているということです。…
…受け手のほうも際限なく四六時中映像が流れてくるものだから、 際限なく受けとることに馴れちゃって、もっとよこせと平気でいうように なりました。…
それでは僕自身、そうした文化状況全体のなかで、 この量的な問題も含めていったいどうすればいいのかといえば、ほとんど ジレンマそのものです。 つまり、つくらないのがいちばんいいんじゃないかという気が一方で するのです。 洪水にむかって、この水はきれいだからといってさらにバケツで水を加える 必要があるのかという疑問がつきまとっています。 しかし、その一方で、なおかつたまには洪水の中でもきれいな水飲まなきゃ いけないはずだと理クツをつけたり、 自分自身もそういうものが飲みたいという意識があって、 目の前に仕事がくるとつい無我夢中になっちゃうところもあるんですが、 そこらへんのところで揺れ動いているのが現状です。
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「ダメだ」って主張じゃなく、 両方分かっていて「困ったけど頑張る」ってことろがいい。
司馬遼太郎は全然読んだこと無いけど、氏に対する彼の書き方を見ると 読みたくなる。
後記(10-3): 自宅にて本から引用する