バースデーを祝って、外食に出かける。
いろいろと悩んだ結果、インド・バフェに行く(悩んだのはかおだけど)。 店に着いたのが1時半、そのとき広い店に客は2組。 彼らもわたしたちが食べ始めたころには店を出て行ったので、ほとんど貸切状態。 だからといって、バフェの料理がなくなってたりするようなことはなく、 また、それぞれ、それなりにおいしかった。 貧乏性なので、例によって例のごとく、食べ過ぎーー。 まったく、学習しない人間×2である。
帰りにペットショップによって、モンちゃん用のトリートを買って帰ってあげる。
6/17/2008: インド・バフェ、パート2。
「働いても働いても 2008年06月05日(木曜日)」@mori
国語の時間。今日は 自分の頭が自覚以上に悪いことを認めて、 一読して全然分からなかった森さんの書いたことを、自分に分かるように噛み砕いてみる。
まず一番のポイントは、「働く」ことと「好きなことをする」ことは別なことだという点。 なので「私は一所懸命、自分の信じることを全力でやっているのですが、 ぜんぜん豊かになりません」と言い換えれば、あのように(森さんに)文句は言われない。 (そのかわりに、 まるでサハラ砂漠の真ん中から明後日の方向に必死に走っていく人を見るように、 「大変だね」とか「それはかわいそうに」と(冷笑つきで)言われるか、 もしかしたら憐れんでもらえるかもしれない。)
6/13/2008: あさっての方向に走っていないか確認。
「仕事」とは、そもそも需要があって成立するわけで、他者との関係以外には存在しない。 だから自分の意思とか嗜好とか趣味とは関係ないし、 自分を客観的に見ないとコントロールできるものではない。 もし客観視しない人間がうまくいっているケースがあったとしたら、 それは偶然であり、宝くじに当たったようなものだ。 (まねをして出来るものではないし、その意味では天才的とも言えるかな。)
自分を客観視できない人間は、 問題の原因を自分と他人の関係(の不一致)に求めることができず、 ある人は「自分の頑張りが足りない」と思い、より力を込めて明後日の方向に走りつづけ、 ある人は原因を単に他者に押し付けることになりがち。
付記:このへんはミヤダイだな。 cf. 6/14/2003
ある人は、仕事とやりたいことが一致していたり、似ている場合があるかもしれない。 しかし、それが必ずしもハッピーな状況であるとは限らないし、 むしろ逆に不幸な状況も十分にありうる。
別に自己満足が悪いと(森さんは)言っているわけではない。 彼は(たしか)書くことが好きなわけではないと言っていたし、 毎日々々更新されている日記だって「仕事」として(お金をもらって) 書いていると言っている。
なるほど。つまり有り体にいうと、 「お金が欲しければ働けばいいじゃん」ということか。
過去の森語録:
8/27/2007: 仕事とはすべて「労働」である
4/19/2008: 憧れで仕事をする人間に欠けているもの
サマリー:職業について
ちなみに私は「働いても働いてもお金が貯まりません」というような愚痴は言ってないと思う。
まあ、「頑張ってはいるつもりなのですが、なかなか落ち着けません」とは言ってるかな。 「もう引越しは嫌だ」とか「一息つきたい」とか。 終わるときまで落ち着くことがないのが人生なのかもしれないが。 不可能な目標設定をしては不幸になるな。
こうしてみると私は、確かに自分を客観的に見ることは、比較的、弱いかもしれないな。
まあ、そういう自覚は既にあって、だからこのように日記を書いているのだけれど。
6/12/2008: 大衆化で失われるもの。働くこと(by 森)は大衆化なのかな?
6/13/2008: 大衆芸術家の道、長瀬弘樹という作曲家のこと(kenn)。
9/10/2008: 某業界の場合は、本当に売り手市場なんだって。
遊学「ルネ・デカルト」
引用:こうして私の愛読書は、一巡してふたたび遺稿『精神指導の規則』にまいもどってきた。 ここにはデカルトの生涯にわたる「精神と事物との格闘の軌跡」が読める。 この格闘というのは、自然物や事物に犯されそうになった風前の精神が、 いっそ犯されるままのほうがどれほど気楽であろうかとあきらめた矢先、 相手の一点を凝視したとたんにこれをはねかえしていくという、その格闘のドラマである。 これはほとんど「数学の倫理主義」ともいうべき緊張力である。
規則第八に曰く、「探求すべき事物の系列に於いて、 我等の悟性の充分に直感しえぬ何ものかがあらわれたならば、そこに停まるべきである」。
まったくその通りだ!デカルトは「街をうろつく前に街をうろつく方法」 を知っていたのではなく、「街をうろつけなくて街をうろつく方法をつくった哲学者」 であったのだ。
これまで出会ってきた人の中に、 自分で作ったルールにバカみたいに従っている人間が、少数だが複数いた。 その人たちはどうもその自分の作ったルール(に従っている自分)に、 ある種、陶酔しているようだった。またある人物は、私からは同じ種類に見える 別のそういう人物のことを小バカにしているように見えた。 その人たちが何でそういうルールを自分に課すに至ったか、 という(青臭く、ちょっと恥ずかしいと想像される)話は、 その人たちから聞いたことはなかった(し、こっちも聞いたりしなかった)。 そういう人は、ちょっと苦手なのだけど、それは何でだろうな?
ふと不安になって、自分にはこんな子供じみたところはないかな、 と思い巡らせてみたりする。だけど多分、ないと思う。 元々、そういうタイプの人間じゃないからな…… むしろ、行き当たりばったり的だから、という意味。 全然 secure な人生ではない。
何で唐突に「デカルト」なんですかって、奥さん? それはね、禅僧に限らず人間とは日々座るものなんですよ。