ryuon
bead-rod の実装:
一般化されたコードの debug:
guile parser のテストコードを書く。テスト終了。
constraints がきちんと満たされているかを確認。 こまかい bug が一通り落ち、機能するよになった。
stokes3 で短い chain を走らせるが、おかしい。 一つ一つ押さえていって、 position の更新順序の間違い(上書き)を発見。お粗末。
6/14/2008: 似たような間違い。
これで bead-rod 系が走るようになった。 ただし no-HI 系のみ(つまり Liu 1989 ということ)。
既に定式化されていたとはいえ、 6/9/2008に思い立って一週間で動くものができたので、 よしとしよう(定量的な検証は、まだ、これからだけど)。
6/8/2008: bead-rod の古典的な論文を読む。
さて、勝負はこれからだ、と。 「急がば回れ」が正しかったことをきちんと証明するためにはね、奥さん。 (cf. 6/5/2008)
ちょっと無駄話。
普通の研究者は、何か(その人にとって)新しいことをはじめるとき、 どうアプローチするんだろう? 風見鶏のように人のことばかり気にしてフラフラしているのはみっともないが、 かと言って、人は人、自分は自分とまったく無視するのもバカだし、ということ。 あさっての方向に走っていないかを確認するためにも、 たまには人の振りを(意識的に)気にしてみようかな、と。
9/29/2003: たまには人の振り見よう企画。
science ってのは、建前は、みんなが誰もまだやったことのない問題に 取り組んでいるわけだけど、各人の学習プロセスで、果たしてどこまで降りているのかな。 その深さが、実際にその人の発言の深さにつながるということは、 経験上、だいたい分かっているが(浅い人はやっぱり浅い、という意味)。
理論は、まあ式を追うというプロセスで最低限、 自分の足で立てるところまで来れるとおもうが、 計算をやっている人は、普通、どうしているんだろうな、と。 例えば私の今回の「急がば回れ」は、理論で式の導出を追うごとく、 既存の手法を自分で実装することで「自分の足で立っている」と思えるところまできたが、 みんながみんなそうしているようには思われないので。
理論でも、計算でも、(自分で降りることなく) テーブルの上に並んだ最新の成果をつまんで(花屋がブーケを作るが如く) というようなことをやると、まあ trend に乗ったそれらしいモノが一応できるのだろうが。 計算で言えば、どっかから既存のコードを取ってきて、理解せずに使う、というのかな、 よく分からんが。
計算物理が理論と同様の、科学としての検証可能性を保証しようと思ったら、 コードの公開は避けられないと思うが(RYUON マニュアル、おくづけ)、 現状は、コードは個人(or 研究グループ)に所有されていて、 何か新しいことをやりたいと思ったときに、やっぱりちょっと手が出せないし、 それだけでなく、下手すると第三者による検証もできない、と。
「長瀬弘樹という作曲家のこと」@kenn
以下、引用:長瀬「僕はもう、大衆芸術家の道をひたはしってるからw。 でも、こびるのとはちょっと違うんだよね。また考え方が変わった。
……中略……
作曲家になりたての頃は、とにかく「大衆にうける」ってことだけしか考えてなかった。 逆にいえば、大衆をばかにしてたんだよね。
……中略……
大衆というものを勝手に自分で設定して、ここで落としとけばいいやってやってて、 でも、それが全然決まらなかった。 3年くらいやってて、大衆なんてものを勝手に作ることは間違ってるんじゃないかと思い始めた。
……中略……
なんかね、ほんとに自分の心からでてるものじゃないな と実感するようになったの。これやればうけるだろうとか、そう思った時点で 自分の価値観の範疇をでてるんだよね。
……中略……
大衆というものを客体化しちゃいけないということかな。
……中略……
自分が大衆にならなきゃいけないということだね、簡単にいえば。 大衆としての自分が、大衆として、「大衆的」じゃないものを作る、 そう思うようになってから徐々に認められるようになった。
……中略……
自分が大衆になって、今まででは売れそうもないものを作るというニッチの理論だね、 誰もが言ってることだけど。
江島「新人だと、奇抜さに走ると見透かされちゃうことが多いじゃない? 目立つためにやったんだろうなって。」
長瀬「だからね、それは目立つためだけに奇をてらってて、底があさいからだよ。
……中略…… なんていうかな、「あれ?これ、今までやっててもおかしくなかったし 本人にすごくあってるけど新しいね」というところにもっていくということかな。 なんでいままでやってなかったの?っていう。」
大衆つながり、ということで。
「古い知り合いの成功譚」を読むと、その人がブレイクする以前の、 書き手の態度がどういうものだったのかが気になる(のは、下世話なのかな)。
何か条件反射的に、今まで存在も知らなかった親戚が急に名乗り出てきた、 みたいなステレオタイプな光景が頭に浮かんできてしまう。
例えば tatsuru さんも言っていたように (5/13/2008)貧しいとき、病めるときには、 かつての知友は知らない顔をして通り過ぎてゆき、 どこの家のドアも開かない。
というようなこと。
頑張っている人間への本当のサポートというのは、まあ難しいものではありますが。
おだてたり、甘やかすのが正解とは思わないけれど。
「忙しい」と言い訳して今の優先順位を下げることは、 結局、「何もしない」を積極的に選択していることと同じだと思うし (例えば、 「現在にないものは永久にない(岡本太郎)」 や 「サマリー:忙しいということ」)。
けなすより、褒めるのは難しい (という当たり前のことは、日々実感している -- 例えば サマリー:教育について)。
4/4/2009: 「有名人」が「無名人」であったころのことを綴ったものにだって 意外にも多くのヒントが詰まっている(松岡正剛)。