哲学的想像力と政治学的想像力


東浩紀の議論に絡めて色々書き散らしてきたので、この辺りで一旦整理。国家や民主主義などに直接かかわるものだけ、まとめておく。時系列にする意味はあんまり無いと思うので、改めて載せておきたいところを拾いながら(注は省略)、その結び付きで並べていく。とりあえず全体を概観できるものから。


以上のような認識に立つと、ポストモダン社会では、「共通の行政、共通のデータベース、共通のネットワークのうえに、異なった価値観を抱えた無数のサブカルチャーが林立するという、一種の二層構造」が採用されざるを得ないとする東浩紀の議論は、説得力を増す。東によれば、象徴的統合が不可能になった現代では、複数の象徴的共同体(「小さな物語」)の層における利害衝突が、その下にある非理念的なシステムの層――「大きな非物語」――で工学的に解決されるという「工学的統合」への移行が生じつつある(東〔2002=2007〕、206-209頁)。多様な価値がそれぞれの島宇宙で自由に追求される価値志向的なコミュニティの層を、誰もが利用可能な必要最低限の共通サービスを提供する価値中立的なインフラの層が支えるという意味で、東はこの事態を「ポストモダン社会の二層構造」と呼ぶ(「ポストモダンの二層構造」@ised@glocom 、東〔2005〕、東〔2003-05=2007〕、770-789頁)。


ポストモダンの二層構造」は、リバタリアニズムによるコミュニタリアニズムの包摂――物質主義による脱物質主義の・「モノ・サピエンス的なもの」による「スピリチュアル的なもの」の包摂――であり、各人にとってのユートピアの自由な構築を許す「メタユートピア」の実現である。この社会構造においては、どのような価値を追求しても抑圧されることはない代わりに、多様なコミュニティの共存を支えるアーキテクチャに対するリスクだけは徹底的に排除される*41。しかし、アーキテクチャに敵対し(ていると見做され)さえしなければ、島宇宙での幸福な生活が阻害されることはない。これは、社会の多元化・流動化と、それに伴う不安や防衛意識に応じた、見方によっては理想的な社会構造である。こうした事態に臨んで、私たちが「抵抗」するべきなのか、仮にすべきだとしても、より魅力的な代替案を示すことが可能なのか、強い疑問を抱かざるを得ない*42。


もっとも、こうした議論はやや未来を先取りしたイメージに基づいており、どこまで現実が伴っているかは定かでないところがある。しかしながら、統治権力の再編成が確実に進行していることは否定できない。その変化についての評価と対応は不可欠であろう。左派的な論者は強い警戒心をにじませているが、一般的に言えば、国家権力による垂直的な統治が行われる領域が狭まり、市民社会内部での自治や、民間主体と公共セクターとの協働による水平的統治の実践が拡大することは、好ましいことである。統治権力が「必要最低限」の範囲の役割に特化することで、その規模を縮小させ、市民社会が活性化することは、否定的に評価すべきことではない。逆に言えば、統治権力は「必要最低限」の仕事を手放すべきではないし、市民社会の活性化や水平的統治の実現によって新たな仕事が生じる場合もあるのだから、権力が単に縮小するのではなくて再編成という形を採ることは、自然な帰結だろう。それを新たな形の脅威や権力の強化と捉えることも可能だが、少なくとも一概に否定的な評価を下すことはできない。


歴史的に見れば、国家の変容をもたらしたのは、人命の尊重や個人の自由、多様性などといった価値の追求である。統治権力を法で縛り、民主的決定に従わせ、特定の価値観から中立的になるように努めさせ、あくまで個人の幸福の追求を援け、支えてくれるような役割だけを担うような形を目指して、再編成に再編成を重ねさせてきたのは、私たちが自由を求めてきたからである――自由主義の勝利。そして私たちの社会では現在、それなりに多様な価値観が認められているし、それなりの自治が多元的に行われている。しかも、これから一層発展していくであろう非常に巧妙な管理システムによって、私たちは自ら自由になろうとするまでもなく望むものを与えられ、幸福感を味わうことができるようになるかもしれない*43。そうしたシステムが実現するとすれば、私たちは自由を志す態度からさえも自由になることができる――自由の完成。それは幸福なのではないだろうか。自らの価値観に従って自らが望む生活を実現することができるのであれば、それが何らかの権力によって管理された結果であるとしても、別に構わないのではないか。幸福をもたらす蓋然性が高い管理を拒否する理由とは、一体何なのだろう。


こうした事情から、宮台や東は権力の再編成に警戒心をにじませる他の論者とは一線を画し、変化の方向性を不可逆であると考えた上で、それをどう穏当に統制するかに思考を切り替えている。


他方、東は、エリートによる管理を目指さずとも、市場メカニズムと技術の発展による創発機能によって、各々の島宇宙が幸せに共存するメタユートピアは非人称的・自生的に実現し得るとの期待を表明している(東〔2008〕、東ほか〔2008〕、大塚・東〔2008〕、第三章)。彼は、工学的・数学的なメカニズムによって望ましい資源分配も可能になると想定する。その立場は宮台よりも楽観的であり、かつ統治権力による介入が正当化される可能性をより限定しているという意味で、功利主義リバタリアンと呼ぶにふさわしい。


東の期待には具体的な裏付けが十分に伴っているとは言えず*44、非人称的なメタユートピアの実現可能性は乏しい*45 。「テーマパーク」としてのメタユートピアには、必ず管理者が存在するし、民主主義的価値観が浸透し切った現代社会では、その管理の民主的正統性が問われざるを得ない*46。


既に、近代的な国民国家は曲がり角に来ている。もはや一体的なネーションは存立し難いということは、国家を支える主体が不在となり、トータルな国家観を語る条件が失われることを意味する。被治者と統治機関を分離してしまい、後者による操作・設計を必然視する宮台=東的な国家論が出現するのは、そのためである。しかし、彼らの議論には、現に在るポピュリスティックな破壊力を織り込むような政治学的リアリティが欠けている。現代に求められているのはネーションを前提にした国家論ではなく、ピープルを前提にした国家論であるが*47、彼らは端的にピープルを無視している*48。むしろ早急に必要なのは、宮台のように穏当なエリーティズムを夢想したり、東のように既存の民主政を見限ったりすることではなく、サブ領域へと流出した決定権に対して民主的正統性を取り付けさせる回路を整備することである*49。政治学的に見れば、総体的な「国民」としての呪縛を解かれた個別の「人民」が露出するという事態は、単に民主政治が新たな段階に足を踏み出したというだけのことなのだから。


「民主主義2.0」とか呼ばれ始めている考え方を従来の理論史へと位置付ける作業と、その民主主義モデルそのものへのおおまかな批判は以下の2つで済んだと思う。


情報技術の発展は、国家規模の直接投票を可能にはするかもしれないが、国家規模の直接討論を可能にすることは多分できないだろう。ならば、数学的民主主義は選好集計型の民主主義モデルとしての性格を帯び続けることになり、それは多元主義的民主主義モデルの極北として位置付けられる。数学的民主主義モデルと対立するのは、同じく政治過程の刷新を目指すにせよ、利害の集約に数学に還元できない意味を見出す立場であると思う。工学的民主主義モデルとの対立構図で主張されているように、政治主体の公共的意志の有無が重要なのではない(工学的民主主義モデルでは投票≒決定と討論≒合意の間でどちらにどの程度比重が置かれるのかが明らかではない)。熟議民主主義モデルは選好の変容可能性を私的選好から公共的選好へのそれとして見ているが、私的選好内部での変容の方が一般的であり、討論を重視する根拠は主としてこちらの変容可能性に求めるべきである。したがって私は、数学的民主主義モデルに対置されるべきは私的利害に基づいた熟議を中心とする民主主義モデル(stakeholder democracy)であると思うし、私自身はこちらのモデルの可能性を追求したい。


「民主主義2.0」で期待されている、システムによる利害調整や「一人一票」ではない「重み付け」などという方面については、以下で簡単に触れてある。


政治学的には、「一人一票」がよいものかどうかについての議論は別に目新しいものではない*1。理論的には、ある問題について極めて強い関心を持っている人と全然関心が無い人が同じ一票であるのは公平とは言えないのではないかということで、各主体の選好の強度・濃度(インテンシティー)を考慮すべきではないかとの議論がある。


だから、利害関係に応じて政治的決定についての権利を傾斜分配するという方法はそれ自体極めて真っ当な考え方で、突飛でも邪道でも何でもない。


ただし、それが「分配」のような色々な問題を簡単に解決してくれるのかどうかは疑問で、討論など地道な調整プロセスをスキップしようとする傾向と考え合わせると、むしろ見たくないものを見ずに済ませる方便にしかならないかもしれない。


東がソーシャルな人だとは思わない。だが、たとえエクスキューズとしてでも「富の再分配」に言及するなら、それを可能にする暴力性へのコミットメントを明らかにするべきではある。東の立場は思想として考える分にはラディカルに見えて議論喚起的だが、別の読み方をすれば(現実の文脈に置き直してみると)、恣意的=政治的な事実性を免れ得ない特定の「立ち位置」を引き受けることから逃げ回っているだけなのかもしれない*2。特定の物語を信じず、「伝統」に拘泥しない(保守主義化しない)、と言うのはそういうことだろうか。だとすると、それは自らが行使する暴力に自覚的になることを拒んで、ひたすら暴力を告発する側に回ろうとするヘタレ左翼(のなれの果てのリバタリアンとか)と結構体質的に近いなぁ。


この辺り、冒頭に挙げた「覚え書き――ネーション/国家」注48における以下の指摘は、(自分でも忘れていたが)重要なものだと思われる。


具体的行為主体としてのピープルの社会構成力をスキップしてしまっている。その意味では国民代表による裁量的統治を基軸とする「ナシオン主権」の想定に引きずられているとも言えるかもしれない


これは最近のエントリで述べたことと繋がっており、「民主主義2.0」の本質と言うか、それが(知ってか知らずか)基盤にしているものに触れている。


同様に、国民代表の中身が政治家から機械的なシステムに代わっても、理論的な意味が変わるわけではありません。民主主義が民主主義であるために最も重要なのは、「代表」する者が人々の自己決定を実現してくれるか、「われわれ」の利益が現に達成されるかということであり、実現・達成の範囲が拡大するほど、民主主義的には好評価が与えられることになります。したがって、何らかのデータベースやプログラムによって構成されたシステム――私はこれらを前掲の論文で<それIt>と呼びました――の自動的な働きが「われわれ」の実質的自己決定を「できるだけ多く」可能にしてくれるのであれば、それはデータベースを「代表」とする民主主義が機能しているのだと見做してよいでしょう*5。


とどのつまり、構想の途にある「データベース民主主義」、ひいては「一般意思2.0」の要点は、代表/代理の原理がどうとか、直接/間接の民主政が云々といった議論とは、かなり隔たったところに在るのだと理解すべきです。それは、はじめからそうなのです。ネットによる直接民主政の可能性を検討したり、衆愚への傾きを指摘したりすることは、それ自体としては重要かもしれませんが、こと当該の文脈においては、完全にピントを外したものです。議論の勘所は、テクノロジーの発達によって可能になるかもしれない、新たな形での「民主政抜きの民主主義≒全体主義」――そこでは私たちはほとんど何もしなくても望むものを手に入れられます――を許容できるかどうか(それを否定すべき理由は存在するのか)、そちらの方に在ります。


さて、「朝生」以降の議論を眺めながら思うのは、「民主主義2.0」が民主政をスキップしようとするのは、哲学者・東浩紀の「超越性」への志向性と深く結び付いているんだろうなぁということで、遠い昔(に思える)に書いた記事を探してみた。


しかし、これは結局どういう距離なのか。東が最初から強調していたことではあるが、改めて「超越性」に対する態度が結構重要になってくるのだな、と思った。東は市場的価値や民主主義的価値など世俗性の外にある(べき)「超越性」を諦めておらず、諦めていないからこそ、「降りられない」世俗社会から「降りる自由」が必要だと言い(「降りる自由」の担保=コミュニティ間の移動の自由の担保こそが「超越性」の担保である)、「降りる」ことは無責任ではなく「非責任」だということになる(「超越性」へと降りてしまえば世俗とは責任を問う体系が異なるわけだから無責任ではなく「非責任」になる)。


そういう意味では東も宮台と同じで「超越性」志向を持っているわけだ。これに対して私は世俗一本である。だから「非責任」を担保する「超越性」を想定せず、降りる=無責任になる。鈴木が「超越性」を担保するシステム(コミュニティ間の移動を担保するメタユートピア)からは結局降りられないんじゃないの、という疑問を発していて、それに対して東はインフラがどうのと言っているわけだが、これが答えになっているのかどうかはよく分からない(たぶんなっていない)。


文脈はこの際どうでもよくて、要するに(地べた這いずり回った挙句に大した成果も得られない「政治」とか)現世の煩わしいアレコレを飛び越した「超越」的な何かに依頼する「心性」――と敢えて書く――を、肯定するか否定するかに一つの分岐が在る。「哲学」と呼ばれている営為を一括りにはできないが、ある種の伝統的な哲学――東浩紀も基本的には連なっているであろうそれ――に似合いの「想像力」こそが、そこで肯定を選ばせる「心性」を支えているのではなかろうか*1

ラジオ「Life」ではハンナ・アレント的な「政治」観が「本来の政治」として語られていたが、そうした「政治」観を支えているのも哲学的想像力だと、私は思う。しかし、「超越」的でないカール・シュミット的な「政治」観の方が適切だと、私は思う。怖れるべきは、私的利害に基づいて他者の血の上に示された特殊意思/全体意思よりも、(実のところ全体意思しか無いくせに)ここに私的利害を超え出たものが示されているのだと言ってはばからない「血の匂いがしない」一般意思の方だと、私は思うのだ。

「想像力」なる言葉の濫用を腐した身ではあるが*2、同じ想像力なら、必要なのは「政治学的想像力」であるはずだとの思いを強くする今日この頃。と言うよりも、自分はそういうことを前からずっと書いていたんだな、ということに気付いた。過去の自分に学ぶことは多い。

*1:すごく解り易く言うと、頭が良すぎる人々は、バカのせいで物事が思うように進まないことが我慢できない。これは別に哲学者に限った話ではないが、まぁともかく「民主主義2.0」はプラトン以来の「哲人政治」のポストモダンバージョンだと思えばよくて、バカが好き勝手なことしてても最適の解が出て来るようなシステムを頭の良い人たちで作っちゃいましょうよ、という提案。

*2:折しも、『思想地図』第4号の特集は「想像力」らしい。