何にもできないわけではない、極小は極小なりに

何にもできないわけではない、極小は極小なりに

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信頼関係に基づく一つ一つの報道、その数珠繋ぎ。
極小には極小なりの方法があるはずと実践、協力支えを感謝。お祈りいただければうれしいです。

1年前の恵み、再び噛みしめ

1年前の恵み、再び噛みしめ

☆昨年の今日の記録
宮村 武夫
2017年9月10日 ·
沖縄市山川全(たもつ)君・小学3年の洗礼の報告、その背景

★ちいロバ聖書集会の主日礼拝から戻ってくると、沖縄の山川元子姉からのメールが届いており、感謝。
「こんばんは ご無沙汰しています。 
 昼の厳しい暑さが続いている沖縄ですが、お元気ですか? 
 この度、末っ子の全(たもつ)が受洗したいと希望して 明日、洗礼を受ける事になりました。本人、楽しみにワクワクしています。  
いつも祈って頂いてありがとうございます。 
君代先生にもよろしくお伝え下さい」。

☆内容の中核は沖縄訪問中聞いていたが、NHKスペシャル「スクープドキュメント沖縄と核」を見た後で、メールを送ってくれた山川元子姉と今日の洗礼式油について直接話を聞き、喜びを深め、携帯電話を通して感謝の祈りを心を合わせて。
  山川夫妻・家族については、以下のような文を以前書きました。
来年2月、今年の2月同様、山川家族、新・まどか夫妻、私たち二人で食事交わり会を持つのが、今から楽しみです。

★Y兄姉宅定礎式.
『見よ。子供たちは主の賜物』
詩篇127篇
[1]序
(1)私どもは、今ここにYご夫妻の新居定礎式のために集っています。この集いは、喜びのときであり、また心からの祝いのときです。
今日の機会は、人と人の絆(きずな)が一段と堅くされるときなのです。では、人の絆とはなんでしょうか。聖書は私たちに語りかけてくれます。
「 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい 」(ローマ12章15節)。
喜ぶ者といっしょに、その人の喜びを我がことのように喜ぶのです。しかしそればかりではありません。たとえ人生の旅路において泣くようなとき、ーそして少なからずそのような経験を私たちは経験するのですーそのときには、泣く者の涙が私の涙と溶け合うように泣くのです。これこそが人の絆だと聖書は教えています。
ですから、この定礎式は、確かに人と人の絆を堅くする恵みのときなのです。

(2)定礎式のもう一つの目的は、実際の建築の仕事を進めてくださる、ご一同の上に祝福と上よりの助けをお祈りするためです。
聖書は、「手の業」について、これを大切なものとしています。どのような意味で、「手の業」を重んじているかと言えば、「手の業」は、「心の業」と教えている、この一点です。
「 彼は、正しい心で彼らを牧し、
 英知の手で彼らを導いた 」(詩篇78篇72節)
私ども首里福音教会の役員、畳(たたみ)職人としてキリスト者職人の喜びと使命に生きるT兄は 、産業祭の展示会場で、仲間から、「Tさんの畳(たたみ)には心がこもっている」と言われたとのことです。
やがてY宅が目出度く完成する暁(あかつき)には、専門の同業者も、素人衆も声を合わせて、「この建物には心がこもっている、これこそ本当の手の業だ」と言い表して下さるように、ご一同のこれからのお働きのために、「家を建ててくださる生ける真の神、主イエスの父なる神」に私は祈ります。

(3)定礎式は、第三番目に、末広がりのときなのです。何よりもYさんご夫妻から、長女Yちゃんへと祝福に満ちた広がり。その根底には、YKさんやYMさんのご両親や兄弟姉妹を中心とする親族、また友人知人の支えがあります。
Yちゃんへの広がりは、ただ葉ちゃん一人に止まりません。Yちゃんを通して、どのような豊かな広がりが展開されて行くか垣間(かいま)見る必要があります。このためには私たちの想像力を刺激する必要があります。
たとえば、Yちゃんが小学校一年生になるとき、彼女と同じクラスになるお友達のことを心に描くのです。確かに私どもはその名前も、顔も知りません。しかし今日の定礎式は、葉ちゃんのお友達とも関係があるのです。クラスのあのお友達、このお友達が、定礎式を出発として建て上げられていくY宅に遊びに来るからです。
さらに葉ちゃんの結婚式に集う人々も、今日の定礎式と深くかかわります。このように思い巡らすとき、今日のこの日、この定礎式の祝いは、まことに、まことに末広がりの恵みのときと言うほかはありません。

[2]「主が家を建てるのでなければ、
建てる者の働きはむなしい」 (詩篇127篇1節)
定礎式の恵みの深さをさらに受け止めて行くために、お手元に配布しました詩篇127篇から、二三の点に限り確認したいのです。
(1)必要なこと。
「建てる者の働き」
手の業は、心の業。また心の業は、必ず手の業として現れる、その以外の道はないのです。ですから、「建てる者の働き」を聖書は大切にしています。人間の努力や、企てや助言など一切(いっさい)の積み重ねが必要なのです。建築に携わるひとりひとりが職責を忠実に果たすことは、実に称賛に値する美徳なのです。確かに、「建てる者の働き」なのです。

(2)十分なこと。
ところで聖書は、建てる者の働きの重さを強調しているだけではありまん。それは必要であることは明らかです。
しかしそれがあれば十分とは言えない、この事実を、「主が家を建てるのでなければ」と聖書は語っています。その意味を理解するために、以下に見る3節が助けになります。

[3]「見よ。子どもたちは主の賜物
胎の実は報酬である」 (詩篇127篇3節)
(1)「胎の実」とは、胎児のことです。聖書は胎児がどんなに大切かを繰り返し教えています。現代医学の頂点と言える、優れた技術を誇る某産婦人科病院で営まれたと報道されている事態とは鋭く対比される、ものの考えであり、生きざまなのです。
聖書が、胎児について教えている二つの実例だけを見て見ましょう。
「 あなたが私の内蔵を造り、
母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
私は感謝します 」(詩篇139篇13、14節)
「 胎内にいる時からになわれており、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、
わたしは同じようにする。
わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう 。
わたしは背負って、救い出そう」(イザヤ46章3、4節)
胎児のときばかりではないのです。神の助けなぞ考えもしないで進む少年少女、自らこの家族をこの職場を担っていると自負する青年、壮年時代。その各時代を貫いて、私どもを母の胎内で丁寧(ていねい)に造り上げてくださったお方が、実は私たちを担い、支えてくださっているのです。
しかしそれだけではありません。聖書が教える人生の華、老年期こそ、生ける創造者なる神に担われて生きる喜びを日々に実感する恵みの季節なのです。その華の日々を、年を重ねた
YKおじいちゃんとYMおばあちゃんが仲良く住まう住居が建てられるのです。

(2)このように神に祝された人の生涯、家族の営みのために、家は本来建てられるのです。家族あっての家です。どんな立派な建物でも、空き家であれば話になりません。美しい立派な家で、家族のいがみ合いが続くなら、何とも寂しい限りです。
ですから、立派な家にそれに相応しい家庭の営みがなされるように心から祈るのです。
なによりも基盤は、「見よ。子どもたちは主の賜物/ 胎の実は報酬である」この恵みの事実です。
子供の誕生は、神の恵みによるのです。決して、子供をつくるもつくらないも自分の勝手、そんなことは言えないのです。言ってはいけないのです。
子供がいるもいらないも自分の判断と言い切れる問題ではないのです。もしそのような言い分を押し通すなら、子育てや教育の根本が危うくなってしまいます。いや、現代日本においては、残念ながら危うくなっているのです。
そうです。葉ちゃんは、神の恵みです。子供は、本来そうなのです。一人の人生の先達がこのように教えてくれています。
「子なくしてはすぐに衰えてしまう者も、いわば二度目に生きることを始める」(ジョン・カルヴァン、『詩篇講解』)

[4]結び
(1)職人衆ご一同のために祈ります。その貴い手の業、いや心の業が忍耐をもって進められるように祈ります。家を建てる方々の仕事を主なる神が豊かに祝福してくださるように。東京の下町出身の私は、職人の方々へ尊敬を払うことを小さいころから両親に教えられました。ですから、今職人衆のため祈るのは、小さくない喜びなのです。

(2)末広がりのための祈り。
本日、この喜びの式にお集まりのひとりひとりのためお祈りしたいのです。私自身も、末広がりの一つとして伊江島中高生キャンプのため、伊江島の将来のために祈ります。
Mさんのお母様さんと、式に参加している首里福音教会のNさんは、郷里伊江島での同級生。この結びが嬉しいのです。Yちゃんが、春の、また夏の伊江島の中高生キャンプに出席し、豊かな実りを結ぶ日々を覚えて心から祈ります。

★Y兄は、私にとって、沖縄のテモテです。
最初の出会いは、首里福音教会で2回続いた葬儀に、Y兄が担当した葬儀社の従業員としてかかわった時のことです。
 その結果、自分がそれまでかかわってきた葬儀との違いやその理由をY兄は思い巡らし私と個人的に話すようになったのです。
 初めから不規則な時間の制約などがありました。しかし主の恵みの中でキリスト信仰告白、受洗へとY兄は導かれたのです。
 そればかりでなく、今までの葬儀社を退職。
幾多の困難を乗り越え、零からキリスト教葬儀社をY兄は立ち上げ、沖縄の教会に支持されながら大切な役割を果たしてきました。
 
 私は、請われて同社のチャプレンの役割を引き受け、聖書をめがねとして事実判断、さらに価値判断を伝えることが出来ました。
 Y兄は、会計士と相談しながら、チャプレンの働きのために対価を、厳しい経営状態のときもなお最大の努力をして支払い支援してくれました。
 この支えが、日本センド派遣会の支援や君代の那覇ライフセンターでの働きと共に、首里福音教会を離れた後も、沖縄に残る道を可能にしてくれたのです。
 
 それだけではありません。
沖縄で約20年間躁鬱が続く中で、Y兄の存在は、私にとり特別な意味を持ち続けました。
すべてのことをどんなに否定的に考えるように引きずりこもれても、Y兄一人のためだけでも、自分が沖縄へ来たことの意味があると感謝できたのです。
あの大邸宅の定礎式は、以上の背景の中で、感謝。
私たちが沖縄を離れた後、Y兄は、家族のことを考えて過労が続いた葬儀社を、設立したときと同じような潔さで締めくくり、次の段階へ進んでいます。

9月9日(日)ヨハネ18章の味わい その22 青梅ちいろば聖書集会主日礼拝。午後聖書塾 ユルゲン・モルトマン、『希望の倫理』第Ⅱ章生命の倫理 第4節死にゆくことと死ぬことの中にある生命力、第5節 肉体の復活?・

9月9日(日)ヨハネ18章の味わい その22
青梅ちいろば聖書集会主日礼拝。午後聖書塾 ユルゲン・モルトマン、『希望の倫理』第Ⅱ章生命の倫理 第4節死にゆくことと死ぬことの中にある生命力、第5節 肉体の復活?・

ヨハネ18:31 直接主イエスの言動の描写ではない。
https://youtu.be/qY_z7oMTlec

[1]前半 ピラト→ユダヤ
そこでピラトは彼らに言った。
「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法従ってさばきなさい。」
 ピラト自ら役割を果たすのでなく、ユダヤ人に処置を押し付ける。
言っていることは、表面的には正しくとも、本音は責任逃避。

[2]後半
ユダヤ人たちは言った。
「私たちには、だれも死刑にすることも許されてはいません。」
言われていることは、正しい。しかし本音は、ピラトと同様、役割を果たすことからの逃避。

福音書記者は、なぜこの責任逃避の姿を描いているのであろうか。
最初の読者も、今の読者も、ここに見るような責任逃避ではなく、責任を果たす、十字架を担う覚悟を促す。ピリピ1:29.