現場、現実ークリスチャントゥデイの立ち位置ー

現場、現実ークリスチャントゥデイの立ち位置ー

(1)1971年6月20日
青梅キリスト教会で原則毎週発行していた、『礼拝の生活』47号
(巻頭言)「現場、現実」
「先日、市役所前の教育センター・福祉センターの建築現場を見てきました。
最近求道を始められた、三井建設のKさんが案内してくれたのです。地下から屋上まで、完成した建物では想像できない細かい部分まで見せてもらえ、とても興味深いものでした。  
ただ、足場を登って屋上へ出る一瞬、足が思うように前に出ず、Kさんに手を取って助けてもらったのは、誰も見ていないところとは言え、あまりよい格好ではありませんでした。
 
何が一番印象深かったかと云えば、それは、窓わく、階段、柱などに書かれた沢山の数字でした。これらの数字によって、一本のボルトに至るまで、床から何センチ、左右の角から何センチと正確な位置が決定されています。建物が出来上がったときには、全く目立たない場所で、ひとつびとつの細かい正確な仕事が積み重ねられているわけです。五階建ての建物全体の大きさと、細部にいたる注意深い仕事のコントラストの鮮やかさに本当に心打たれました。
 
たとえば、ボルトを一本一本取り付けている人は、全体の設計図に従って仕事をしています。そして全体の設計者は、五階の建物全体の中におけるボルト一本の位置を正確に定めているわけです。一見、雑然としている工事現場のすみずみまで行き渡る設計者の意思を思い、一瞬圧倒されました。
 
考えました。工事現場以上に雑然としている私たちの現実を。また、一部分しか理解できず苦しむ私たちの姿を。その中で、唯一の設計者の細やかな思いやりが行き渡っているのだとの信仰の目、確信の重要性を。」

★(2)2012年7月10日、
40年前のあの日の経験を鮮明に記憶しています。
40年の年月の経過により、あの時のメッセージは、まさに私自身の中で血肉となっていると言っても過言ではありません。
 青梅では、聖書からだけでなく、多くの兄姉から学びました。そして事物からも。感謝。

★(3)2017年10月17日
クリスチャントゥデイにおける歩み、まさに現場、現実ークリスチャントゥデイの立ち位置ーと自覚、先達内村鑑三に日々学びたいと覚悟しています。
2014年7月に書いたように。

「イエス『現代ジャーナリズム事典』(三省堂)の刊行を記念したシンポジウムが、6月28日に専修大学で、「ジャ−ナリズムの今—直面する危機をどう乗り越えるか」の主題で開催されました。何かの力に引きつけられるように、雨の中杖を突き、同伴者に助けられながら駆け付けました。脳梗塞発症後のカタツムリの歩みで。

他方、111年前の1903年6月30日、内村鑑三が万朝報に発表した「戦争廃止論」を、この期間、胸を熱くし繰り返し熟読し、またこの文について語っても来ました。かくして、「ジャーナリストとしての内村鑑三」が、今や抜き差しならぬ私の課題です。

1959年、19歳の時、日本クリスチャンカレッジ2年生のレポート「教育者としての内村鑑三」を書き、それが私の生涯を貫き導きとなり続けて来ました。今また、同じ内村が、今度は「ジャーナリストとしての内村鑑三」として、75歳の私を先導してくれるのです。厳粛な導きに感謝を深めています。

ジャーナリストとは、定期的な刊行物を通して、時事的な報道や意見を伝える仕事に従事する人々の総称と言われます。そうであれば、内村は生涯の一時期新聞社で働いていたからジャーナリストの側面があると言った話ではない。1900年に創刊した『聖書之研究』を1930年まで専心継続した、言わばオーナージャーナリストであり、ジャーナリスト中のジャーナリストなのです。内村はジャーナリストをやめて、伝道活動へ転身したのでない。ジャーナリストとして伝道者、真の伝道者であるから、志に生きるジャーナリストでもあるのです。

この2月、無教会の那覇聖書研究会の主日礼拝後の集会で、敬愛する平良修先生が「冷徹、かつ火のように燃える聖書人」と紹介、励ましてくだ下さった事実を感謝し、責任を痛感する者として、「ジャーナリストとしての内村鑑三」の課題に、忍耐と希望(ローマ8:25)をもって受け止めたいのです。」

10月16日(火)ヨハネ19章の味わい その28 今日は14:00リハビリPT

10月16日(火)ヨハネ19章の味わい その28
今日は14:00リハビリPT
https://youtu.be/MWwhYIHUizw

ヨハネ19:40
[1]前半
「そこで、彼らはイエスのからだを取り、」
 「イエスのからだ」、焦点。

[2]後半
(1)「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、」
 軽視、無視せず。

(2)「それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。」
①死の事実

ユダヤ人の習慣と旧約聖書の実例

③このイエスのからだ、まさに復活
  

この朝の一首、この日の恵み、感謝

この朝の一首、この日の恵み、感謝

「この朝の一首」(A Japanese short poem "tanka" for the day with pictures taken by Philip):
  ・ 爺婆二人して住む広き家 孫の訪れ待ち遠しかり  愛馬伝師  We two who had been getting old were living fairly spacious place at present. We earn for visits of our grandchildren and wait for them to come.

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平位 全一 畑を耕していたのは、ここに来たごく初期の頃のみ。今は、花畑に変わりました。

神学書を読む(38)ジェイコブ・ソール著『帳簿の世界史』

神学書を読む(38)ジェイコブ・ソール著『帳簿の世界史』
執筆者 : 青木保
https://www.christiantoday.co.jp/articles/26125/20181015/theological-books-38.htm

インターネットによる、やり取りが進展が進めば進むほど、ますます書物を通しての対話の重要性を覚える者の一人です。
書物を通しての対話において、優れた書評の役割は否定しがたいものです。クリスチャントゥデイでは、本書評に見るように、青木保憲先生がこの分野においても健筆をふるってくださっている事実、深く感謝しています。
 
神学書を読む(38)ジェイコブ・ソール著『帳簿の世界史』

ジェイコブ・ソール著『帳簿の世界史』(文藝春秋、2015年)

お金の話で申し訳ない。「神学書」コーナーの対極にあるようなテーマの本を紹介することをお許し願いたい。しかし、実際に教会を運営していく上で「お金の問題」は決して軽く扱えない。しかし一方で、どうしても宗教と下世話なお金の話は相いれない。

特にキリスト教は、清貧の思想が中世以来がっちりとキリスト教徒の心をつかんでしまっている。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を発表し、経済活動と宗教性は決して相反するものではないことを示したにもかかわらず、現代に至るまでお金の話はキリスト教会では半ばタブー視されている。特に保守的なキリスト教界ではその傾向が強い。

本書『帳簿の世界史』は、そんなお金の話の底流に「キリスト教」が見え隠れする。「帳簿」という概念でキリスト教世界、つまりヨーロッパ世界(加えてアメリカ合衆国)の2千年間が描写されている。

世界史や日本史を専門としていなくても、例えば「ルネサンス」や「フランス革命」、そして「米国独立戦争」のことは聞いたことがあるだろう。本書はこれらの出来事が引き起こされた要因の一つに、「収支報告(帳簿)の正確さの有無」があると訴える。

序章「ルイ十六世はなぜ断頭台へ送られたのか」という刺激的なタイトルに始まり、ヨーロッパ世界に君臨した各国(スペイン、オランダ、フランス、英国)の隆盛を、「帳簿」という視点から面白く描いている。

面白かったのは、中世からルネサンスに至る過程で、商人たちは会計の必要性を強く感じつつも、お金を扱う仕事に対して信仰的な劣等感を抱いていた、というくだりである。彼らは自分の犯した罪を「支出」、社会や他者への善行を「収入」と捉え、会計帳簿同様に「心の帳簿」を神の前につけていたのである。(54〜56ページ)

こういった「収支発想」が免罪符を生み出したのだ、と筆者は喝破(かっぱ)している。

大方のキリスト教徒にとって、善行と悔悛に加えてキリストの血の代償によって罪を帳消しにでき、死後に煉獄であまり苦しまずに済むという教えは、会計の概念と接した初めての経験だったと言えるだろう。心の会計の借方と貸方と差引残高は、救済を得るために欠かせない。(57ページ)

もし本当にそうだとすると、後に引き起こされる「宗教改革」も神学的な相違や支配体制の質的相違のみに帰せられるものではなく、会計概念の誤った浸透が改革の土壌を生み出したとも捉えることができるだろう。教皇に代表されるカトリック教会一極集中支配体制から、国家という概念が生み出され、おのおのの立場が確立する過程において、富の優劣が生まれてくることは必然である。そうであるならなおのこと、「帳簿」作成の意義をどれだけ国王や貴族たちが理解していたかが問われることになる。本書はこの一点を鋭く突いているといえよう。

「心の帳簿」とは、本来は当時の信仰者たちの誠実さを表す言葉であった。しかし同時に、国王や貴族たちが行ってきた一連の不正に対し、「自分の帳簿は神にのみ開示すればよい」という言い訳を許容する考え方としても用いられた。彼らは自身の資産を公開せず、収支報告を粉飾したり二重帳簿を作成したりすることが日常茶飯事であった。(3〜5章参照)

全13章から成る本書から分かることは、「会計が文化の中に組み込まれていた社会は繁栄する」(334ページ)ということ。これは言い換えるなら、会計報告や収支決算をないがしろにする組織や国家は、いっときは良いように見えても、必ず弱体化するということである。

これは栄枯盛衰を繰り返す現代社会における会社や組織のみならず、キリスト教界においても同様である。だが、このことになかなか牧師や教会関係者は目を開こうとしないように思われる。

原則として「宗教法人」である以上、会計報告を教会員に開示する義務がある。しかし、これをきちんとしていない教会が多くあると聞く。確かに開拓教会(少人数で、法人資格を取得しないで開始したばかりの集団)では、このような手続きは不要であろう。しかし、人数が増えてくるに従って予算や収支結果を公開することは、本書を読むまでもなく必要なことだと分かるはずだ。

2千年間にわたり、西洋社会を良い意味でも悪い意味でも支配し、統御してきた「キリスト教」が、時としてこのような対外的な視点(帳簿作成の有無)に晒されることは必要なことだろう。教会の役員や牧師たちがこぞって本書を読み、いろいろとディスカッションする機会があるなら、本書は大いに役立つ一冊だといえるだろう。

巻末に「帳簿の日本史」が加えられているが、こちらも大変参考になったことを付け加えておきたい。