ジョン・ルーリー展

休みだというのに仕事で、ちょっとショックな現実を思い知らされる場面があったりして、
外へ出てみると、何だかまだ明るく、そのまま帰る気もしない。
そうだ、絵でも観に行こう!と久しぶりに美術館を目指した。
行ったのは「ジョン・ルーリー ドローイング展」。
もちろん、あの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の、だ。


あの映画の、「ドラマなんてない。続くのは何でもない日常ばかり」といった空気と、そしてそれを醸し出す個性的な俳優たちが好きだった。2回観た、と記憶している。


その主人公を演じていたジョンは、難病を患ったという。それ以降、描かれた絵が展示されていた。
印象は「ぶっとんでる」。なおかつ「神聖」。ちょっとイカれた?と思わしめるタイトル(つーのかテーマというのか)の中に、もちろん画面の中に、神の存在が呼吸している。


例えば?


「科学者は人間には魂がないことを証明して喜んでいる」
「私はいまあなたに質問しました。たった一度でいいのでお答えください」
「キリストはかつて私の庭にいた」
「精霊たちは私たちに何かを伝えようとしているが、とても曖昧だ」


その他、「武器」についていくつかの作品。


「あなたには幸福を追求する権利がある。あなたには武器を持つ権利がある」
「あきらめろ。アメリカ人は武器を持つ権利がある」
そのままの文意なのか、それとも「武器」には何かの意味があるのか…。


鳥が画面の上に向かって垂直に飛んでいる絵がいくつも記憶に残った。豊かな空の青が美しかった。

地方のヒーロー?

達川光男は、ある意味、広島県人の英雄だった。
というのは、あの濃厚な広島弁を、何の悪びれた様子もなく、公共の電波に乗せて全国に発信した開拓者だったからである。


東京という日本で唯一の「非地方」で、当たり前のように「母国語」をしゃべり、時には武器にすらしてしまう関西人(主に大阪人?)に、広島人(ほか44都道府県民?)は嫉妬と羨望と引け目を感じていた。
その根拠なき後ろ暗さの後頭部をバシーンと叩いてくれたのが達ちゃんだった。
じいちゃんの代までぐらいしか使っていかった伝統的な方言と、メリハリの聞いたイントネーション。
まさかこんな生々しい母国語が、国営放送を通じて聞けるとは思ってなかったよ、というのが県民のストレートな心情だろう。
さんきゅー、達ちゃん! でかした、達ちゃん!
そうだ、おれたちゃ広島人だ。中国(地方)人だ。
忘れていたネイティブの誇りを思い出させてくれたよ、キミは。


…と多くが思ったかどうかは定かでないが、そおゆう意味で達ちゃんを嫌いな広島人は、あまりいないのではないかと思う(個人的見解)。
とにかく広島弁は「仁義なき闘い」の専売特許じゃないんじゃけー!!と言いたかった人は少なくないはずだ。


友人Kが教えてくれた広島弁によるipadビデオを観てウケながら、何だかそんなことを考えていた。

東京は

「東京の夜は7時」なんてうたがあったね、昔。


首都高を走る。珍しく、久方ぶりに。
行きは日差しの下、帰りは夜。
東京の良さも悪さも美しさも汚らしさも驚きも空虚さも
全部ない混ぜになって、圧倒的に「東京の正体」をよく表しているのは「夜」だと思う。
高架と高架が入り組んだ隙間から日本橋の街灯の頭がのぞく…
なんて光景は、グロテスクで、小さな感嘆のポイントだ。


いつも目にするターミナル駅のビルを
「こちら側」ではなく、「あちら側」から見る。
そうすると立ち上ってくる過去の記憶や非日常。
私がこの街にこうしている(本当にいるのかも定かではないが)ことが「現実」からひっぺがされて、
どんどん現実感が薄らいでいく。


同乗者たちのおしゃべりをBGMに
おどろおどろしいビル群とイルミネーションの脅迫に、1人耐えていた。


東京は、一体何者だろう。
この街に住み行き交う人にとって、私にとって、どんな魔物なんだろう?

つぶやき

いい人は嫌い。バランスのいい人も嫌い。器用な人は最も嫌い。
今日の後半に会ったすべての人たちは、その真逆。


私は「なんでこの人たちによる、この人たちの平常が、図らずも私を癒すんだろう?」
なんて、癒されながらこっそりそう考えていた。


不器用な林檎たちに愛を。

連休前後つれづれ

連休。なんてことはない連休だった。金もないし。例のごとく。


木曜日。友人ロータスにくっついて西荻ザ・ロック食堂へ。
ここは以前、別の友人と行って横手やきそばを食って以来2回目。マスターが相変わらずキュート。
ロータスさんの取材のお供ということだったのだが、相手方は東北地方の国立大の教授?講師?氏と、その友人のm市在住K氏。
K氏は精神科デイケアでプログラムの指導を非常勤でやっているという。
つい「資格は?」なんて尋ねてしまったのだが、私は知っていたはずだったのだがなあ。
以前取材で尋ねたデイケアでの生き生きした表情の患者たち。そこで絵の指導をしているのも社会福祉関係の資格なんざ持っていない、絵描きの高齢者だった。その人は、経験則として「資格は害」ということを知っていて、そう主張した。
kさんにも、有資格者が場を取り仕切る際の弊害を知っているような、確信犯的な感じもした。
有資格者というのは、資格を取得するまでに費やした勉強時間と費用とにプライドを持ってしまう人々のことで、たいていの場合、相手とどう接するかということよりも、対象者をどう分析し導くかという思考に陥ってしまう人たちのことである。
コミュニケーションが業務の主体となる業界において、その有資格者たちが、資格があるがゆえに失敗している例をこれまでも見聞きしてきた。資格には、事業者側が職員を選ぶ物差しとしては便利(でも実際は測った通りでもない)という以上の意味はほとんどない(と私は感じている)。
真面目で、一生懸命で、自分の仕事に誇りを持っているゆえの不幸の象徴のようにも見えたりする。


土曜日は、その筋では有名な70代男性の生前葬打ち合わせに顔を出した…が、結局作業じみたことは何一つしなかった。
その後、アサガヤ、コウエンジとフラフラ移動したものの、月に一度のしんどい時期で、イチ抜け帰途。しかし、私のオンナはがんばっている。かれこれ20数年。そう考えると私もつくづく生き物だなあと感慨深くなったりして、その生き物のぶぶんが哀れで、いとおしい。
ちょうど、朝日がなかったので買った東京新聞にユ●チャームはその分野では後発事業者で、先行する米国製品中心の市場に食い込むべく細かな工夫をしたという記事が出ていた。なる〜。そういや私も薄っぺらで生産効率のいい米国系製品を使っていたな。今回から日本製の心意気を買おう!と記事にすぐさま感化されて薬局で品定め。


明朝までに返さないといけないDVDを見る。
ジュリーデルピー監督・製作・主演の「恋人たちの2日間」。たわいもない内容だったけど、ジュリー演じる女主人公の奔放ぶりがキュートだった。白くて、細くて、議論好きで、自由で、不自由が嫌いで、女臭くて、いかにもフランス女の典型という感じ。
ジュリー好きには本編以上にオマケのインタビューおすすめ。もう40近いはずだが、アイデアが次々わいて次はこれやりたいと思ってるの!という懸命なかわいらしさがあふれんばかりで、ぐっと引きつけられる。
返しに行ったついでに、先日人との話の中に出た「未来世紀ブラジル」を借りようと思ったのに、月末まで100円レンタルをやっている近所のレンタル屋にはおいてやがらない!
かといってツタヤまで借りに行く気力もない(100円以上払う気がない)
でもすっかり頭の中がSFモードになってしまったので、これまたこれまで何度も見ているはずなのだが、必ず途中で睡魔に襲われ、眠っているせいなのか元々のストーリーがそうなのか、何だかぼんやりしか記憶のない「2001年宇宙の旅」を借りる。再チャレンジ。


少し体を動かしたり、長時間歩いたりすると、すぐに眠くなるようになった。今も、つい先ほどまで2時間ほど仮眠していた。
眠れないということが不思議だ。多少は爪のアカを煎じて飲みたいくらい(もちろんホントはかなり辛いことは予想はつくが)。
気になっていた人に相手にされなかったり、仕事で何だかんだと面倒くさかったりと、予言どおり2月以降、何となく「ああ、これが停滞期のサイン…?!」という感触もなくはないんだけれども、結局頭の中がシンプルなんだろうか。眠れないほどということは(今のところ)ない。
アホで、神経鈍くて…良かった…?
ああ、また眠くなった。おやすみなさいませ。


ああ、こう書いてみて、つくづく私にはウェブ日記言語がないなあ…!と実感させられた。
使えない。でも使いたいわけでもない。このジレンマ!
でも、ここをブログと名乗るからには、読んでもらう努力をしなきゃ! まだ見ぬ読者のために。。。

このどうしようもなき自空間

目が覚めたら、ここが東京の安アパートの一室ではなく、晴れ晴れと明るい異空間になっていたら。
…なんて、何かの純文のパクリみたいですが、最近ホントにそう思っています。


トンカチトンカチトンカチトンカチ…どるどるどるどる。
あ〜〜、何だ!うっせぇ!
…もう3カ月ばかりも続いてますね。隣の新築工事。
つか、東向きのこの部屋の、東側に3階立てのメゾネット的な建物がたってしまったので、採光度20%ぐらいになってしまいました。角部屋だったのが不幸中の幸い。
こういうの、日照権って主張できるもんなんですかねえ。でも、新築物件がたってる土地は、このオンボロアパートの大家だし、まあ最初から力の差は明らかで。いやなら引っ越せ!でしょうか。
でも残業終えて、疲れきって帰ってきた午後11時半。引き渡し前の間に合わせ仕事なのか、暗闇の中でバーナーっぽいものごーごー言わせて作業してたお兄ちゃんたち見たときには、同情ゆうか殺意さえ覚えましたね。
とか何とかやっていて、東の窓が気軽に開閉できないもんだから、そして採光があんまりできなくなったもんだから、昨年おおみそかに買って1人で正月のささやかな幸福を共にしたパンジーちゃんが、こないだ久しぶりに窓をあけてみたらばからっからに枯れきっているのを発見しました。看取りもできないまま、ひとりで逝ってしまっていました。
ああ、また植物を枯らしてしまったと自責の念。
そんなあたしに、なぜだか何度も花の種をくれる人がいます。その種はいつも誰かからのもらいもので、そして決まってあたしに横流しされるんですですけどね。
花が好きなおんな、とでも思われているのかもしれません。
いや、だから、いつも枯らしてしまうのですけど。


この薄暗いアパートの一室で、でも夜になるとむしろ街灯が差し込んできて真っ暗闇にはなれないようなこの部屋で。しょうがない。目覚めてもどこへも行けないのなら、またひっそりと花でも咲かせましょうか。
いつかその一生を看取れる日まで。繰り返し失敗しつつ。でも愛情はいつわりなく注ぎつつ。

カティンを観て

映画を1人で観に行ったとき、観終わった後に
「この気持ちを誰かと分かち合いたい!」と思うことはよくある。
観終わった後に喫茶店でコーヒーなんぞ飲みながら感想を言い合えたらなあ、とちょっと寂しく感じたり。
でも、今回はめずらしく逆だった。「1人で観てよかった!」と。何だかとても満ち足りていた。


映画は「カティンの森」。アンジェイ・ワイダ監督の作品だ。
本編が終わると、一瞬画面が暗く落ちたままになり、その後しばらくしてエンドロールが始まる。この最後の暗闇の中で、私の中にはじんわりと、喜怒哀楽のどれともつかないような感情が広がった。その強い感覚が忘れられない。
映画館を出ると、外はみぞれまじりの雨と曇天。ほのかな靄。神保町ならではの喧噪。映画も、その後の気持ちを受け止める街の雰囲気も、今日は何もかもよくできているなあとひっそり感心した。たまたま1人でいたことも。


映画は、ショッキングな歴史的事実も、その事実との距離感も、難解な事実を難解とは感じさせないシナリオも、まああまねく良かったんだけれども、一番はやはりその「美しさ」だ。
登場人物の生き方がもれなく美しいのももちろん、落ち着きある画面構成や光の具合も申し分なし。お涙ちょうだいでも、告発ものでもない、ドキュメンタリーとフィクションの間。監督は、自身が幼いころ、将校だった父をこの事件で殺された記憶を作品のテーマとして抱え続けていたというが、84歳になって創られたからこそこのような美しい作品になったのだと、映画を観てつくづくそう思う。


たくさんの登場人物の中に、戦後、ソ連支配下ポーランドで対称的に生きる姉妹が登場する。「ポーランド人捕虜を虐殺したのはソ連」という歴史的事実に目をつぶって生きていこうとする姉と、兄の死に報いるため自分の思いに正直に振る舞い、それが政府に危険な言動としてマークされてしまう妹。そのやりとりが印象的だった。


姉「蜂起の教訓は活かされていないのね。世界は何も変えられない」
妹「姉さんは新世界に居場所を見つけた。私は旧世界にどっぷり。私は兄さんといることを選ぶわ」
姉「病的ね」
妹「犠牲者の傍らにいたいの。殺害者の側ではなく」


すべてが「ちょうどいい」。そんな映画に出会うこともあるから、やっぱり映画館に行かねば。
「向こうの世界」とあなどれない。彼らは私(たち)を動かす力をいつも放ってくれている。いざ。