偉大な娘「宇多田ヒカル」を産んだ偉大な母「藤圭子」


(※大タイトルの『「不幸が生み出すもの」について〜ミスチル宇多田ヒカルから考える』を
  最初から読みたい方は日付をクリックするか、
  http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20101218 へジャンプ!)


全然関係ないけど、宇多田ヒカルのお母さんである藤圭子っていう人、


個人的にすげーなーって思ってます。


僕がすごいなあと思ったのは、有名な「圭子の夢は夜ひらく」ではなくて、


「京都から博多まで」というちょっとマニアックな曲のPVを見たときです。


残念ながらネット上ではこのPVは見れないみたい。あ〜残念だ。


仕事の関係で何度も見たんですけど、見れば見るほど魅力的なのです、これが。


「あのお母さんにしてあの娘あり」かと妙に納得したのを思い出します。


そんな宇多田ヒカルさんと母藤圭子さんの共通点を指摘した記事を引用して今日は終わります。


(2010年8月11日 スポニチニュースアネックスより引用開始)
 http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2010/08/11/01.html


運命のいたずら…宇多田 母・藤圭子と同じ道 


歌手の宇多田ヒカル(27)が無期限の活動休止を発表してから一夜明けた10日、


所属レコード会社のEMIミュージックは宇多田の公式ブログに100万件以上のアクセスがあったと明らかにした。


10代で記録的なヒットを放ち、結婚と離婚を経験、


28歳になるタイミングで休業に至る過程はくしくも母親で歌手の藤圭子(59)と同じ。


運命としか言いようがない道を歩んでいる。


宇多田が休業を選択したのは、米国での活動を終え、


日本で2年半ぶりに再スタートを切るタイミング。


「この広い世界の知らないものごとを見て知って感じて、


一個人としての本当の自分と向き合う期間」と明かす言葉は、


家族と離れてひとり海外を放浪する母親とダブってみえる。


 藤は昨年夏、一時帰国した際、今回のことを予期したかのような言葉を残していた。


「日本はガラスで囲まれているようですね。外から見ると開放的でたやすく入れそうだけれど、


 実際は見えない分厚い壁がある。いつか、ヒカルも感じるのではないでしょうか」


 日本で頂点を極めた宇多田の前に、米国で高い壁が立ちはだかった。


 目的を見失い、戻るべき日本の音楽シーンはどう映ったのか。

 
 宇多田の選択は、28歳で突然引退を表明した母の人生をたどっているようでもある。


 歌手としての歩みも似ている。10代でデビューして、


 宇多田は翌年に初アルバム「First Love」が日本記録の800万枚以上をセールス。


 藤は「圭子の夢は夜ひらく」の大ヒットをきっかけにオリコンアルバムチャート41週連続1位という不滅の記録を打ち立てた。


 絶頂期に結婚し、離婚したのも同じ。宇多田は卵巣腫瘍(しゅよう)、藤はのどのポリープの摘出手術を受けており、


 それぞれ「休業」「引退」の違いはあるものの、28歳になるタイミングで大きな決断をした。


 藤はその後、2年で復帰し、音楽プロデューサーの宇多田照實氏と再婚。その翌年に出産した。


 これから先の宇多田が同じような道をたどるかは分からないが、大きな違いがあるのも事実。


 宇多田は金と人に恵まれている。


これからの道のりに最も大切な要素でもあり、特にスタッフとの信頼関係は、


当時、母が置かれた状況とは大きく異なる。


母娘の初めての分かれ道になるかもしれない。


(引用ここまで)


「この広い世界の知らないものごとを見て知って感じて、


一個人としての本当の自分と向き合う期間」を設けるということで、


休業期間に入る宇多田ヒカルさんにおっせかいながら送りたい


メッセージは、「本当の自分」という概念に対する僕なりの解釈である。


実は、このブログの記念すべき第一稿が「本当の自分」に関する言及だった。


(2005-01-26 自分という現象の連続〜本当の自分というという幻想〜
 http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20050126 より引用開始)


村上龍は、本(すべての男は消耗品である)の中で次のようにまとめている。


(引用開始)


すなわち、人間には「自己」という確固としたものなどなく、
自分という現象の蓄積でしかあり得ないということ。
そして、自分という現象の蓄積というのは、
つまり、自分の中に自分でも制御不可能な何人もの自分が、いるということ。


乳児の頃の、幼児の頃の、六歳の、十歳の、十七歳の、自分がいて、
それらがせめぎ合いながら(言ってみればそれぞれ他人として)現在の自分を形造っているわけである。


(引用ここまで)


とまあ、本文中では、これが恋愛関係と信密度のテーマのくだりでまとめられている。


これを読んでなるほどなあ、と自分の中でかなりしっくりきたと同時に、


勝手に発展的な解釈をしたのを覚えている。


それは「本当の自分」などというのは幻想にすぎないのではないかという仮説である。


つまり、「本当の自分」など存在せず、


「その場その場、そのときそのときの、行動、発言そのものの雑多な集合体が自分である」という発見である。


これはありがたい発想であり、時には冷酷な事実だと思う。


(中略)


人って(少なくとも自分に関しては)自分ひとりでいるときと、


学校、あるいは会社の中にいるときと、さらには恋人といるとき、


友達といるときとでは、程度の差こそあれ、


ある程度、その場面場面で、違う自分の一面を出している、


あるいは結果として違う自分を演じているのではないか?ということが、


むしろ自然なことだと感じられるようになったのである。



自分がいろいろな面を持っていることは、


「どれがホントウなのか」ではなく、「どれもホントウ」なのである。


(中略)


これは現在の日本の世相に照らし合わせても、特に若者層にとって有用な発想だと思う。


浜崎あゆみの流行以来、若者の間で、「自分探し」なるものが流行っている。


(ちなみに浜崎あゆみのせいではない。あくまで彼女に勝手に感化された人たちがいるということに過ぎない。念のため。)



その結果、「ホントウの自分」をさがそうとするあまり、


自分というものがよく分からなくなってしまい


社会と折り合いをつけられなくなっている若者が増加しているのではないか?という思いがあるのだが


(例えば、フリーターやニートの増加、ひきこもり、パラサイトシングルという現象など)、


この状況を打破するのにこの発想が使えるのではないかと思うのである。



自分というのは探すものではなく、せいぜい普段どんな行動を取っているか、


どんな話をしているかをせいぜい発見して、それを蓄積していくものに過ぎないのである。


今の自分や状況がイヤで、仮に新しい「ホントウの自分」を探したいのであれば、


過去の自分の歴史を紐解いて迷路にまよい込むのではなく、


これからいわゆる「ホントウの自分」であればとるであろう行動や発言を蓄積していくほかに方法に、


「ホントウの自分」とやらを発見する方法は無いのではないだろうか?


(引用ここまで)


う〜ん。やはり宇多田ヒカルという人はこれぐらいのことは、


言われなくてもわかっていそうだな。余計なお世話にもほどがある(笑)


とにかく、頑張れ!宇多田ヒカル!!


また音楽活動を再開してくれることを願い


一ファンとして世界の片隅から応援し続けたいと思います!